第5話: 「家族の絆は0と1では表せない」
週末の朝、澄月は珍しく遅くまで寝ていた。目覚めると、静かな部屋に柚香の気配がない。
「天羽さん?」
澄月が居間に出ると、そこには珍しく整頓された空間が広がっていた。テーブルの上には一枚のメモ。
『研究所に行ってきます。夕方には戻ります。 ー 柚香』
澄月はほっとすると同時に、少し寂しさを感じた。
「そっか、今日は柚香さんはいないんだ……」
ふと、携帯電話が鳴る。画面を見ると、妹の樹里からだった。
「もしもし、樹里?」
「お兄ちゃん! 今日、家に帰ってこれない? 久しぶりにお兄ちゃんの顔見たいよ!」
澄月は少し考え込んだ。
「そうだな……うん、行くよ」
準備を整えて実家に向かう澄月。久しぶりの家族との再会に、心が弾んでいた。
実家に着くと、賑やかな声が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、おかえり!」
元気いっぱいの声とともに、妹の樹里が廊下を駆け抜けてきた。彼女の長い黒髪が風になびく。澄月が腕を広げる間もなく、樹里は勢いよく飛び込んできた。
「うわっ! 樹里、相変わらず元気だな」
澄月は樹里をしっかりと抱きしめ、優しく頭を撫でる。樹里の笑顔が花のように咲いた。
「澄月、久しぶりだね。元気にしてたか?」
温かい声に顔を上げると、父親が優しく微笑んでいた。その隣には母親も立ち、目を細めている。
「ただいま、お父さん、お母さん。うん、元気だよ」
澄月が答えると、母親が近づいてきてやさしくハグをした。
「お帰りなさい。少し痩せたんじゃない? ちゃんとご飯食べてる?」
「大丈夫だよ、お母さん。むしろ太ったくらいさ」
澄月が冗談を言うと、家族全員が笑い声を上げた。
その瞬間、階段から小さな足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃーん!」
「にいにー!」
次々と小さな体が澄月に飛びついてくる。末っ子の双子、美咲と拓人だ。二人とも澄月の足にしがみつき、嬉しそうに顔を上げている。
「おお、美咲、拓人! 大きくなったな」
澄月は片膝をつき、双子を優しく抱きしめた。二人の柔らかい髪の香りが懐かしい。
「お兄ちゃん、見て見て! 前歯が抜けたんだよ!」
美咲が口を大きく開け、自慢げに見せる。確かに前歯が一本抜けている。
「すごいじゃないか! 歯の妖精さん来た?」
「うん! 枕の下にお小遣いが置いてあったの!」
美咲の目が輝いている。拓人も負けじと話し出す。
「僕ね、サッカーの試合で点取ったんだ! お兄ちゃんみたいになりたいな」
「へえ、すごいじゃないか。今度一緒にサッカーしような」
澄月が答えると、拓人は嬉しそうに頷いた。
リビングからは、夕食の良い匂いが漂ってくる。母親の手料理の香りだ。
「さあ、みんな。晩御飯の準備ができてるわよ。澄月、手を洗ってらっしゃい」
母親の声に、家族全員が賑やかにリビングへ向かう。テーブルには、澄月の大好物が並んでいた。
「わあ、すごい。僕の好物ばっかりじゃないか」
「当たり前よ。久しぶりに帰ってきたんだもの」
母親が優しく微笑む。父親はテーブルの主座に座り、温かな目で家族を見渡した。
「さあ、みんな座れ。今日は澄月の帰省を祝って、乾杯しよう」
家族全員がグラスを手に取る。双子には野菜ジュースが注がれた。
「かんぱーい!」
グラスが触れ合う音と共に、笑顔があふれる。澄月は胸がいっぱいになるのを感じた。家族の温もり、懐かしい匂い、そして何より、この何気ない幸せ。
「ただいま」
澄月は小さくつぶやいた。家族に囲まれた食卓で、彼の顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「それにしても住み込みでお仕事なんて……最初は続くかどうか心配だったけど、澄月、頑張ってるわね。大変じゃない?」
「なんてことないよ、家事とかいつもやってることだから。むしろ樹里達のほう手がかかるかもしれない」
「あっ、お兄ちゃん、ひどーい!」
樹里がぷーっと頬をふくらます。
家族と過ごす時間は、澄月にとって心地よいものだった。妹たちや弟たちとのじゃれ合い、両親と近況を語り合う。しかし、その度に柚香のことが頭をよぎる。
「お兄ちゃん、なんだか寂しそう?」
樹里の言葉に、澄月は驚いた。
「え? そんなことないよ」
「嘘。絶対何か考えてる」
鋭い妹の直感に、澄月は苦笑いを浮かべた。
「実は……今、お手伝いしている柚香さんのことを考えてたんだ」
澄月は柚香のことを家族に話し始めた。天才美少女との奇妙な生活、彼女の不思議な言動、そして少しずつ近づいていく二人の関係。
「へぇ、お兄ちゃんにそんな素敵な女の人が!」
樹里は目を輝かせた。両親も興味深そうに聞いている。
「いや、違うんだ。僕たちは単なる……」
言葉に詰まる澄月。本当のところ、彼は柚香をどう思っているのだろう。
「でも、その子は家族とは一緒に住んでないの?」
母の質問に、澄月は首を傾げた。
「そういえば、柚香の家族のことは聞いたことがないな……」
この仕事も柚香の両親の代理人というおじいさんから引き受けた。なので澄月は柚香の家族のことをまったく知らないのだ。
その瞬間、澄月は柚香の孤独な姿を思い浮かべた。いつも研究に没頭し、人との関わりを避けているように見える彼女。その裏には、何か理由があるのかもしれない。
「お兄ちゃん、その子のこと、好きなんでしょ?」
樹里の言葉に、澄月は顔を赤らめた。
「いや、別に好きとかそんなんじゃ……」
しかし、心の中では否定できない何かがあった。
「なあ、澄月」
父が真剣な表情で語りかけてきた。
「家族って大切なものだ。でも、家族は血のつながりだけじゃない。心で結ばれた絆こそ、本当の家族なんだ。柚香さんにもそういう気持ちを味わってもらえるといいな」
その言葉が、澄月の胸に深く響いた。
「そうだね。ありがとう、お父さん」
夕方、実家を後にする澄月。家族との時間は、彼に新たな気づきをもたらした。
マンションに戻ると、柚香が帰っていた。
「おかえり、天羽さん」
「ただいま……」
柚香は疲れた様子で、ソファに座り込んでいる。
「研究、上手くいった?」
「まあまあ……」
しかし、その声には何か寂しさが混じっているように感じた。
「あのさ、天羽さん」
澄月は勇気を出して聞いた。
「天羽さんの家族のこと、聞いてもいい?」
柚香は少し驚いた表情を見せた後、静かに語り始めた。
「私の両親は、ずっと海外で研究してる……9歳の時から、ほとんど会ったことがない……隆宗さんとも月に一回逢う程度……」
隆宗さんとは澄月に仕事を依頼してきたあのおじいさんのことだろう。
その言葉に、澄月の胸が締め付けられる。
「寂しくない?」
「私には研究があれば十分……だと思ってた……でも……」
柚香の目に、僅かな潤みが浮かぶ。
「最近、少しだけ、家族っていいなって思うようになった……かも……しれない……」
澄月は思わず柚香の手を握った。
「天羽さん、これからは一人じゃないよ。僕が……天羽さんの家族になるから」
柚香は驚いた表情で澄月を見つめた。そして、ゆっくりと柔らかな笑顔を浮かべる。
「ありがとう……」
その夜、二人は遅くまで話し合った。研究のこと、家族のこと、そしてこれからのこと。天才と凡人、全く異なる二人が、少しずつ心を通わせていく。
家族の絆と孤独な天才。その間で揺れ動く心。しかし、二人の関係は確実に、新たな段階へと進もうとしていた。