第3話:「お風呂は科学の実験場?」
週末の夕方、泉澄月は天羽柚香の部屋の前で立ち尽くしていた。ノックの音に反応がないまま、既に30分が経過している。
「もう……また研究に没頭してるんだろうな」
澄月はため息をつきながら、ドアを開けた。
案の定、柚香は机に向かい、何かを必死に書き続けていた。周りには紙が散乱し、床にはエナジードリンクの空き缶が転がっている。
「天羽さん、そろそろお風呂の時間ですよ」
柚香は一瞬顔を上げたが、すぐに元の姿勢に戻った。
「今忙しい……後にして……」
「だめです。そんなこと言ってまた3日も入ってないじゃないですか。今日は絶対に入ってもらいます!」
澄月は毅然とした態度で言った。柚香は不満そうな表情を浮かべる。
「今、すごくだいじなところ……お風呂に入ったら……思考の流れが途切れてしまう……」
「はあ~……またそんなこと言って……」
澄月は少し考え込んだ後、ふと思いついたように言った。
「そうだ! じゃあ、お風呂で実験してみませんか?」
「え?」
柚香は首を傾げた。
「お湯の中で体が浮く感覚とか、泡の形とか。何か研究のヒントになるかもしれませんよね?」
まるで幼児を諭すように澄月が言う。
柚香の目が輝いた。
「なるほど……そうね、確かに流体力学の観点から見れば……それはなくもない……」
彼女は立ち上がり、ノートを手に取った。
「わかった……お風呂で続きを考えてみる……」
澄月はほっとしたように微笑んだ。
バスルームに入った柚香は、まるで新しい実験室に足を踏み入れたかのように、キョロキョロと周りを見回していた。その目は好奇心に満ちて輝いている。
「ほら、お湯もちゃんと張ってありますよ」
澄月が言うと、柚香はゆっくりとバスタブに近づいた。しかし、突然彼女は立ち止まり、無造作に服のボタンを外し始めた。
「ちょ、ちょっと! 天羽さん、何してるの!?」
澄月は慌てて両手を顔の前に広げ、目を逸らした。しかし、柚香は全く動じる様子もなく、淡々と服を脱ぎ続ける。
「お風呂に入るとき……服は脱ぐ……」
柚香の声には、まったく困惑の色がない。むしろ、澄月の反応に首をかしげているようだ。
「そ、そうだけど! 僕がいるのに脱いじゃダメだよ!」
澄月は真っ赤な顔で叫んだ。柚香はその言葉に、ようやく手を止めた。しかし、彼女の表情は相変わらず平然としていた。
「……? 服を脱がないとお風呂に入れない……なぜ止められるのかわからない……」
柚香は真顔でそう言った。その目には純粋な疑問の色が浮かんでいる。彼女にとって、この状況は単なる論理的な行動にすぎないようだった。
「そうじゃなくて! 男女の問題というか、その……天羽さんは恥ずかしくないの!?」
澄月は必死に説明しようとするが、言葉が上手く出てこない。
「恥ずかしい? なぜ? 私たちは同じホモ・サピエンスで、基本的な身体構造は同じ。科学的に見れば、服を着ているかどうかは単なる社会的な約束事にすぎない……」
柚香は冷静に分析を始めた。その姿は、まるで難解な数式を解いているかのようだ。
「それに、私たちは同居しているわけだからお互いの身体的特徴を把握しておくことは、緊急時の対応のためにも有用だと思う……」
澄月はため息をつきながら、ゆっくりとバスルームの出口に向かった。
「わかった、わかったから。僕は外で待ってるから、天羽さんはゆっくり入ってね」
柚香は首を傾げたまま、澄月を見送った。
「変なの……でも泉くんの反応は興味深い……研究対象になりそう……」
ドアの向こうで、澄月は頭を抱えていた。天才との同居生活は、やはり一筋縄ではいかない。
「ほら、お湯もちゃんと張ってありますから」
澄月がドア越しに言うと、柚香はゆっくりとバスタブに足を入れた。
「温かい……」
その瞬間、柚香の表情が柔らかくなる。しかし、すぐに研究者モードに切り替わった。
「よし、まずは水の表面張力の観察から始めよう」
柚香は手のひらで水面を軽くたたき、その波紋を観察し始めた。澄月は困惑しながらも、微笑ましく見守っていた。
「あの、天羽さん。体も洗わないとダメですからね!」
「わかってる……」
柚香は少しだけ照れくさそうに答えた。しかし、シャンプーを手に取ると、また新たな発見があったようだ。
「このシャンプーの粘性係数、改めて見ると面白い……」
澄月は呆れながらも、柚香の姿に何か愛おしさを感じていた。
「ねえ、泉くん……」
突然、柚香が澄月を呼んだ。
「なんですか?」
「このお風呂の水……循環システムはどうなってる?」
「え? 普通の家庭用のシステムですけど……」
柚香は目を輝かせた。
「それって、つまり閉鎖系の生態系モデルとして見ることができるってこと……水の循環、熱の伝導、微生物の生存環境……」
「水の循環、熱の伝導、微生物の生存環境……全てが相互に作用する複雑系……」
柚香は興奮気味に言葉を続けた。
「まず、水の循環を考えてみよう……お風呂の中で起こる蒸発と凝縮のプロセスは、まさにハイドロロジカルサイクルの縮図……水分子の相変化に伴うエンタルピー変化を考慮すると、系全体のエネルギーバランスが見えてくる……」
彼女は手で円を描きながら説明を続けた。
「次に熱伝導。お湯の対流現象はレイリー・ベナール対流として捉えることができる……プラントル数とレイリー数を計算すれば、対流セルの形成パターンが予測できるはず……さらに、浴槽壁面での熱伝達はヌセルト数で表現できるわね」
澄月はすでに目を白黒させて聞いていたが、柚香は止まる気配がなかった。
「微生物の生存環境も興味深い……お風呂は複数の微生物種が共存する生態系と見なせる……種間相互作用をロトカ・ヴォルテラ方程式で表現すれば、個体群動態のシミュレーションが可能なはず……pH、溶存酸素量、栄養塩濃度などの環境パラメータが微生物の増殖速度に与える影響もミカエリス・メンテン式で近似できる……」
柚香はますます熱を帯びて説明を続けた。
「さらに、バイオフィルム形成過程をクオラムセンシングの観点から解析すれば、微生物群集の空間分布パターンが予測できるかもしれない……拡散反応系のチューリングパターン形成理論を応用すれば、興味深い結果が得られるはず……」
彼女は息を整えながら、最後にこう締めくくった。
「これらの要素を統合すれば、お風呂という閉鎖系におけるエネルギーフローと物質循環の全体像が見えてくる……まさに、ミニチュア地球生態系モデルと言えるわ……!」
柚香の目は興奮で輝いていた。一方、澄月は完全に理解不能な専門用語の洪水に呆然としていた。エンタルピー、プラントル数、ヌセルト数、ロトカ・ヴォルテラ方程式、ミカエリス・メンテン式、クオラムセンシング、チューリングパターン……これらの言葉は、まるで異星人の言語のように彼の耳に響いていた。
「なるほど。確かにそう考えると面白いかもしれませんね」
とりあえず澄月はそう応えておいた。
柚香は嬉しそうに微笑んだ。
「お風呂って、単なる体を洗う場所じゃない……科学の宝庫なの……」
澄月は柚香の熱意に圧倒されながらも、心の中でほっとしていた。少なくとも、お風呂に入ることには成功したのだから。
「よかった。それならこれからは毎日お風呂に入ってくれそうですね」
柚香は少し考え込むような表情をした後、にっこりと笑った。
「うん、大丈夫……毎日新しい発見があるかもしれない……」
澄月は安堵の表情を浮かべた。しかし、その安堵も束の間。
「そうだ……! 泉くん、ちょっと実験に付き合って……!」
「え?」
突然の要求に、澄月は戸惑いを隠せない。
「お風呂場での人体の熱放散を調べたい……二人で入れば、データの比較もできる……」
「ちょ、ちょっと待ってください! そ、それってつまり……」
澄月の顔が真っ赤になる。柚香は首を傾げた。
「なぜ躊躇う? これは純粋に科学的な実験……」
そう言うと、柚香は突如ドアを開け、全裸のままで飛び出してきた。澄月は慌てて目を覆った。
「わっ! 天羽さん! タオルくらい巻いてくださいよ!」
「タオルは熱放散の妨げになる……さあ、泉くん……あなたも服を脱いで……」
柚香は澄月の腕を引っ張り始めた。
「だ、だめだって! これは良くない! これは良くないよ!」
澄月は必死に抵抗するが、柚香の力は意外と強かった。
しっかりと目を瞑っている澄月だったが、腕に直接当たってくる柚香の柔肌の感触が鮮明に脳に刻まれていく。そしてこの柔らかな感触はおそらくおっぱ……。
「何が良くないの……? 同じホモ・サピエンス同士なのに……それに体温変化の観察は重要なデータになる……」
柚香は全く動じる様子もなく、澄月のシャツのボタンに手をかけてきた。
「わっ! やめて! やめてください!」
澄月は後ずさりしながら、必死に柚香の手を払いのけようとする。
「泉くん……さあ、一緒に入りましょう……」
柚香は今度は澄月の腰に手をかけ、強引に浴室に引っ張り込もうとした。
「だ、だめだってば! 天羽さん、これは……セクハラ……これはもう完全にセクハラだよ!」
澄月の必死の抵抗に、柚香はようやく立ち止まった。
「セクハラ……? そんなつもりはない……これは純粋に科学的な……」
「わかった、わかったから! とにかく、もうお風呂に戻って! お願いだから!」
澄月は真っ赤な顔で叫んだ。柚香はまだ不思議そうな顔をしていた。
やはり天才と一般人の間にはまだまだ目に見えない深い溝があるようだ。