第2話: 「目玉焼きで解く量子力学の謎」
第2話「料理と数式の不思議な関係」
朝日が差し込む窓辺で、泉澄月は朝食の準備に取り掛かっていた。フライパンから立ち上る湯気と共に、香ばしい匂いが部屋中に広がる。
「天羽さん、朝ごはんの用意ができましたよ」
澄月が声をかけても、返事はない。彼は軽くため息をつきながら、柚香の部屋のドアをノックした。
「天羽さん? 入りますよ」
ドアを開けると、そこには昨晩と変わらぬ姿の柚香がいた。机に向かい、無数の数式が書かれたノートを前に、眉間にしわを寄せている。
「もう、また徹夜ですか?」
澄月の言葉に、柚香はようやく顔を上げた。
「あれ? 朝……?」
「はい、朝です。朝ごはんができてますよ」
柚香は首を傾げた。
「朝ごはん? 私はエナジードリンクだけで十分……」
澄月は眉をひそめる。
「だめです。それじゃあ栄養が偏りますよ。ちゃんとした食事を取りましょう」
柚香は少し考え込むような表情を見せたが、やがてゆっくりと立ち上がった。
「わかった……食べてみる……」
ダイニングテーブルに着いた柚香の前に、澄月は丁寧に朝食を並べていった。
まず、焼きたてのパンが運ばれてきた。こんがりと焼き色の付いた表面からは、小麦の香ばしい香りが立ち昇り、部屋中に甘い匂いが広がる。パンの側面からは、まだ湯気が僅かに立ち上っており、その温かさが感じられた。
次に、完璧な円を描いた半熟の目玉焼きが皿に乗せられた。黄身は太陽のように輝き、その周りを白く柔らかそうな白身が優しく包み込んでいる。縁はカリッと焼けており、塩コショウが軽く振りかけられ、食欲をそそる香りを放っていた。
新鮮な野菜で作られたサラダは、色とりどりの野菜が美しく盛り付けられていた。みずみずしいレタスの緑、赤く輝くミニトマト、オレンジ色のニンジン、そして紫のオニオンスライスが鮮やかなコントラストを生み出している。ドレッシングが野菜に軽くかけられ、全体に艶やかな輝きを与えていた。
最後に、深みのある赤褐色のミネストローネスープが、香りを漂わせながら運ばれてきた。スープの表面には、細かく刻まれたハーブが浮かんでおり、その緑が赤褐色のスープに映えていた。野菜の旨味が凝縮された香りが立ち昇り、柚香の鼻をくすぐる。スープの中には、柔らかく煮込まれた野菜の姿も見え、具沢山な様子が伺えた。
この色彩豊かで香り高い朝食の数々を目の当たりにし、柚香は目を丸くして料理を見つめていた。彼女の瞳には、驚きと期待が入り混じっており、思わず唾を飲み込む音が聞こえそうだった。普段は科学的思考しかしない彼女の表情が、この瞬間だけは純粋な子供のような無邪気さを湛えていた。
「すごい……これ全部作ったの?」
「ええ、まあ。うち、大家族なんで、料理は昔からやってるんです」
柚香はおそるおそるフォークを手に取り、目玉焼きを口に運んだ。
「!」
その瞬間、柚香の目が輝いた。
「おいしい……」
澄月は嬉しそうに微笑む。
「よかったです。気に入ってもらえて」
柚香は夢中で料理を口に運び始めた。
柚香の箸が器から料理へ、そして口元へと素早く動く。普段は冷静沈着な天才少女の面影は消え、今や目の前にいるのは純粋に食事を楽しむ天真爛漫な少女だった。
彼女の頬は膨らみ、目は満足感で輝いている。時折、「んー!」という小さな歓声が漏れる。それは まるで初めて美味しいものを口にした子供のよう。
対面に座った澄月は、箸を持つ手を止め、柚香の姿をじっと見つめていた。彼の唇には、優しい微笑みが浮かんでいる。柚香の無邪気な食べっぷりに、彼の胸は温かさで満たされていく。
「本当においしい……」と小さく呟きながら、柚香は次の一口を急ぐ。
その仕草があまりにも愛らしく、澄月は思わず小さく笑みをこぼす。
ふと顔を上げた柚香と目が合う。口いっぱいに頬を膨らませたまま、彼女は首を傾げた。その仕草に、澄月の胸がさらに温かくなる。
「どうしたの?」
柚香が尋ねる。声は料理で少しもごもごしている。
澄月は柔らかな表情で答えた。
「ううん、なんでもないですよ。ただ、天羽さんが美味しそうに食べてくれるのを見るのが嬉しくって」
その言葉に、柚香の頬が僅かに赤みを帯びた。しかし、すぐに彼女は次の一口に集中する。
そんな柚香の姿を見守りながら、澄月は静かに幸せを噛みしめていた。この瞬間、二人の間には言葉では表せない温かな空気が流れていた。
「ところで、昨晩は何を研究していたんですか?」
澄月の質問に、柚香は口の中の料理を飲み込むと、少し考え込むような表情を見せた。
「量子コンピューターの新しいアルゴリズム。でも、どうしても上手くいかなくて……」
「へぇ、難しそうなお話ですね」
澄月は興味深そうに聞いていた。すると突然、柚香が料理を見つめながら何かを呟き始めた。
「……そうか。この卵の黄身、完璧な球体。これは……」
彼女は急いでテーブルの上に置いてあったノートを取り出し、何かを書き始めた。
「あの、天羽さん?」
澄月が声をかけても、柚香は夢中で式を書き続ける。しばらくして、彼女は満足げな表情で顔を上げた。
「できた! 目玉焼きを見てたら閃いた……!」
澄月は困惑しながらも、なんだか嬉しくなった。
「そ、そうなんですか。よかったですね」
柚香は興奮気味に説明を始めた。
「ねえ、この目玉焼きの黄身、完璧な球体でしょう? これを見てたら、量子状態の重ね合わせのイメージが浮かんだの。それで……」
柚香の目が輝き始めた。彼女は勢いよく言葉を続けた。
「この黄身を量子ビットとして考えると、0と1の重ね合わせ状態を表現できるわ。つまり、シュレーディンガーの猫の状態と同じよ。生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。この黄身は、割れているかもしれないし、割れていないかもしれない」
柚香は箸で黄身をつつきながら熱っぽく語り続けた。
「さらに、この黄身の表面張力は量子もつれを連想させるわ。二つの量子ビットが絡み合って、一方の状態を測定すると瞬時に他方の状態が決まる。まるでこの黄身をつついたら、瞬時に全体が崩れるみたいに!」
澄月は目を丸くして、ただ頷くことしかできなかった。
「そして、この黄身の中の分子の動きを考えると、量子トンネル効果が思い浮かぶの。古典力学では越えられない障壁を、量子の世界では突き抜けることができる。この黄身の中でも、分子レベルではそんなことが起きているかもしれないのよ!」
柚香はますます興奮気味に説明を続けた。
「これらの概念を組み合わせると、新しい量子アルゴリズムの可能性が見えてくるわ。黄身の形状と物性を量子計算に応用すれば、従来の方法よりも効率的に複雑な問題を解けるかもしれない!」
彼女は息を切らしながら、最後にこう締めくくった。
「これこそが、"量子黄身理論"……!」
柚香の目は星のように輝いていた。その表情は、大発見をした科学者そのものだった。
一方、澄月は柚香の説明のほとんどを理解できていなかった。量子力学、シュレーディンガーの猫、量子もつれ、量子トンネル効果……これらの言葉が彼の頭の中をグルグルと回りばかりだった。
しかし、澄月は柚香の熱意と喜びに満ちた表情に心を奪われていた。彼女がこれほど生き生きとしている姿を見るのは珍しかった。
「へぇ、すごいね、天羽さん」
澄月は優しく微笑んだ。
「僕には難しくてよくわからないけど、天羽さんの役に立てたようで良かった」
柚香は少し驚いたように澄月を見つめた後、照れくさそうに微笑んだ。
「ごめん……つい興奮した……でも研究が前に進みそうなのは事実……ありがとう……」
澄月は柚香の言葉に胸が温かくなるのを感じた。彼には量子力学はさっぱりわからなかったが、自分の作った料理が柚香の研究の助けになったことが何よりも嬉しかった。
「どういたしまして。これからも、天羽さんのサポートができたらいいな」
柚香は真剣な表情で澄月を見つめた。
「あなたが作ってくれた料理……単なる食事以上の価値がある……栄養バランスが取れていて、見た目も美しい……そして何より、私の思考を刺激してくれる……ここが一番重要……」
澄月は柚香の言葉に驚きながらも、何か大切なものを見出したような気がした。
「ありがとうございます。これからも、天羽さんの役に立てるよう頑張りますね」
柚香はにっこりと笑った。それは澄月が初めて見る、柚香の心からの笑顔だった。
「ありがとう……楽しみ……」
料理と数式。一見全く関係のないものが、不思議な形でつながっていく。これからの生活が、どんな展開を見せるのか。澄月は期待と不安が入り混じった気持ちで、その未来を想像していた。