第1話: 「天才と凡人の奇妙な化学反応」
春風が桜の花びらを舞わせる4月の午後、泉澄月はとある高級マンションの玄関に立ち尽くしていた。彼の手には、重そうなスーツケースが握られている。
彼はこれから始まるであろう大仕事を前に少しだけ緊張していた。
澄月は渡された鍵でオートロックのエントランスを抜けると、ある部屋の前で立ち止まり、チャイムを押した。反応は何もない。
「ええと、天羽さん? ……入っても大丈夫ですか?」
やはり返事はない。澄月は少し困惑した表情を浮かべながら、恐る恐るドアノブに手をかけた。
「失礼します……」
ドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
床一面に論文や本が散乱し、まるで紙の海のようだった。無数の計算用紙には、複雑な数式や図表が所狭しと描かれている。それらの紙の間を縫うように、食べかけのインスタント食品の容器が積み上がっていた。カップラーメン、レトルトカレー、エナジードリンクの空き缶。その数たるや、まるで小さな山脈のようだ。
その紙と容器の山々の中央に、一人の少女がうずくまっていた。長い黒髪は乱れ、白いTシャツには明らかなシミがついている。少女は無造作に床に座り込み、膝の上のノートに何かを必死に書き続けていた。
澄月は言葉を失った。彼の目の前にいるのは、天才少女・天羽柚香その人だった。しかし、その姿は想像していたものとはかけ離れていた。
「あの、天羽さん?」
澄月が恐る恐る声をかけると、柚香はゆっくりと顔を上げた。彼女の目は澄んでいるものの、どこか現実離れした雰囲気を漂わせていた。眼鏡の奥の瞳は、何か遠くを見つめているようだった。
「あの、天羽さん? 大丈夫ですか?」
澄月が声をかけると、少女はぼんやりと澄月を見つめた。
「……ん? あぁ、新しい同居の人? 前の子は……どうしたんだっけ……? まあ、いいや……」
目の前にいるのは17歳にして既に数々の論文を発表し、ノーベル賞候補にも名前が上がる天才少女だ。しかし、その実体は想像とはかけ離れていた。眼鏡の奥の瞳は澄んでいるものの、どこか浮世離れした雰囲気を漂わせていた。
「えっと、僕は泉澄月です。あなたのお世話を仰せつかりました。これからよろしくお願いします」
澄月が丁寧に挨拶をすると、柚香は首を傾げた。
「泉澄月? いずみすみつき……。変わった名前……由来が気になる……歴史的な検証をして……それから……」
柚香は無表情のままそう言い、再び本に目を落とした。もう澄月への興味は全くなくなったようだ。澄月は呆れながらも、散らかった部屋を見渡した。
「……まずは掃除からですね」
澄月はため息をつきながら、スーツケースを置いた。彼は大家族で育ち、幼い頃からしっかりと家事をこなしてきた。しかし、この状況は想像を超えていた。
澄月は呆然と部屋を見渡した。足の踏み場もないほどに散らかった空間に、彼は深いため息をついた。
「まずは、どこから手をつければいいのかな……」
澄月は躊躇いがちに一歩を踏み出した。その瞬間、足元の書類と資料の山が崩れ、彼はバランスを崩して転びそうになる。
「わっ! 危ない!」
何とか体勢を立て直した澄月は、決意を新たにして掃除に取り掛かった。
ま ずは床に散らばった無数の紙から。論文や計算用紙、メモ書きなど、様々な紙が無秩序に広がっている。澄月は慎重に一枚一枚拾い上げ、種類ごとに分類していく。
「これは……量子力学の論文? 数字だらけでさっぱりわからないな……」
理解できない専門用語や複雑な数式に頭を抱えながらも、澄月は黙々と作業を続けた。
次に、積み上がった食品の空き容器の山に取り掛かる。インスタントラーメンの容器、エナジードリンクの空き缶、コンビニ弁当の使い捨て容器……。その数の多さに、澄月は驚きを隠せない。
「天羽さん、いつもこんなものばかり食べてるの? 体に悪いよ」
心配そうに柚香を見やるが、彼女は相変わらず本に没頭したままだ。澄月は小さく首を振り、再び掃除に集中する。
埃にまみれた本棚の整理は特に骨の折れる作業だった。重い専門書を一冊ずつ取り出し、埃を払い、元の位置に戻す。その過程で何度か大きなくしゃみをし、目に涙がにじむ。
「はっくしょん! ……ふぅ、それにしても埃がひどいな……ほんとに全然掃除してないんだな……」
汗が額から滴り落ち、Tシャツは汗でびっしょりになっていく。それでも、澄月は諦めることなく掃除を続けた。
一方、天羽柚香は終始、机に向かって座ったまま。彼女の周りだけは、まるで別世界のように整然としている。複雑な数式が書かれたノートを前に、柚香は時折ペンを走らせる。澄月の奮闘ぶりにも、部屋の激変にも、まったく無関心な様子だ。
「よし、やっと床が見えてきた。あとは掃除機をかけて……」
澄月が掃除機の音を響かせても、柚香はまったく動じない。彼女の集中力は、まるで外界から完全に遮断されているかのようだった。
「天羽さん、ちょっと足上げてもらっていい?」
声をかけても反応はない。仕方なく、澄月は柚香の邪魔をしないように慎重に彼女の足元のゴミを掃除機で吸い取った。
数時間後、部屋はようやく人が住める状態になった。床は綺麗に片付けられ、本は整然と棚に並び、ゴミは全て片付けられている。澄月は額の汗を拭きながら、満足げに部屋を見渡した。
「ふぅ……やっと終わった」
疲労困憊の表情を浮かべながらも、達成感に満ちた笑みを浮かべる澄月。彼は深呼吸をして、ようやく柚香に声をかけた。
「天羽さん、お風呂に入りませんか?」
その瞬間、初めて柚香は顔を上げた。彼女は不思議そうな表情を浮かべ、周囲を見回す。その目には、部屋の激変にようやく気づいた微かな驚きの色が浮かんでいた。
「お風呂? ああ、そんな奇態な風習もあったわね……そういえば1週間くらい入ってなかったかもしれない……」
「奇態な風習!? 1週間!?」
澄月は思わず声を上げてしまった。柚香は平然と答える。
「だって、お風呂に入る時間があったら、その分研究を進められるでしょう?」
澄月は頭を抱えた。これからの生活が想像以上に大変になりそうだと悟った瞬間だった。
「わかりました。じゃあ、お風呂の準備をしますね」
柚香は首を傾げ、「なぜ?」と聞いてきた。
「え? だって、お風呂に入るんですよね?」
「私が入るのに、なぜあなたが準備するの?」
澄月は言葉に詰まった。確かに、普通ならそうだ。しかし、この状況は明らかに「普通」ではない。
「あのね、天羽さん。僕はあなたの身の回りの世話をするために来たんです。お風呂の準備も、その一環なんですよ」
柚香は少し考え込むような仕草をした後、ふむ、と小さくつぶやいた。
「理解した。でもお風呂に入る時間があったらその分研究を進めた方がいい」
「だめです。一週間もお風呂に入ってないなんてあり得ませんから。絶対入ってください」
「めんとくさいなあ……」と柚香はつぶやきながら、再び本に目を落とす。澄月は軽いめまいを感じながら、バスルームへ向かった。
お風呂の準備を終え、戻ってくると、柚香はまだ同じ姿勢で本を読んでいた。
「天羽さん、お風呂の準備ができましたよ」
「うん……」
返事はしたものの、柚香は一向に動く気配がない。澄月は困惑しながら、再び声をかけた。
「あの、入らないんですか?」
「入るわよ……でもちょっと待って、あともう少しでこの解法がまとまりそうなの……」
柚香は本から目を離さない。澄月は、これが天才の思考なのかもしれないと思いつつ、困った顔で柚香を見つめた。
「じゃあ、式が解けたら入ってくださいね」
そう言って、澄月は自分の荷物の整理を始めた。しかし、1時間経っても2時間経っても、柚香は動く気配がない。
「もう、仕方ないな……」
澄月は覚悟を決めて柚香に近づき、彼女の腕を掴んだ。
「え? ちょっと、何するの?」
「お風呂に入ってもらいます!」
# お姫様抱っこされる柚香
「もう、仕方ないな……」
澄月の声に、柚香は顔を上げた。その瞬間、彼女の目が大きく見開かれる。
澄月が決然とした表情で近づいてくるのを見て、柚香の心臓が小さく跳ねた。
「え? ちょっと、何?」
柚香の声には、珍しく動揺の色が混じっている。しかし、澄月は構わず彼女に手を伸ばした。
「共生的にお風呂に入ってもらいます!」
その言葉と共に、澄月は柚香をあっさりと抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこ状態だ。澄月はよくお風呂を嫌がる妹たちをこうしてお風呂に運んでいた。つまりその延長の自然な動作である。
「きゃっ!」
抱き上げられた柚香は、思わず小さな悲鳴を上げる。彼女の頬が、かすかに赤みを帯びた。
澄月の腕の中で、柚香は自分の体が宙に浮いているのを感じた。普段は冷静沈着な彼女だが、この突然の出来事に心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
「あたし……自分で歩けるから」
「だめです、お風呂に入るって言ってからもう何時間も動かなかったじゃないですか」
柚香は冷静を装おうとするが、その声には僅かな震えが混じっている。
澄月の胸板に寄り添うように抱かれ、柚香は彼の体温を強く感じた。不思議なことに、それは彼女にとって存外心地よいものだった。
「で、でも着替えとか……」
柚香は小さな声で呟いた。その言葉に、彼女自身が驚く。普段なら考えもしないようなことが、今は妙に気になってしまう。
「用意してあります」
澄月の端的で冷静な返答に、柚香はますます動揺を隠せない。
バスルームまでの短い距離が、柚香にはやけに長く感じられた。澄月の腕の中で、彼女は自分の鼓動が少しずつ早くなっていくのを感じる。
(どうして……こんなに胸がドキドキしている? おかしい……これは通常の生理反応ではない……原因がわからない……)
科学者らしく分析しようとするが、頭の中は珍しく混乱していた。
バスルームに到着し、澄月が柚香を優しく下ろす。その瞬間、柚香は何か言いたげな表情を浮かべたが、すぐに俯いてしまった。
「じゃあ、ゆっくり入ってください。30分経ったら声をかけますね」
澄月がそう言って脱衣所を出ていくと、柚香はようやく大きく息を吐いた。
鏡に映る自分の顔が赤くなっているのを見て、柚香は首を傾げた。
(これは一体……)
柚香は自分の胸に手を当て、まだ収まらない鼓動を感じながら、この不思議な感覚の正体を探ろうとしていた。
30分後、柚香は清潔な姿で部屋に戻ってきた。髪はまだ少し濡れていたが、顔色はよくなっていた。
「どうでしたか?」
「……気持ち良かった」
柚香は少しだけ照れくさそうに答えた。澄月は安堵の表情を浮かべる。
「よかった。これからは、ちゃんと毎日お風呂に入りましょうね」
柚香は少し考え込んだ後、小さくうなずいた。
「わかった。でも多分忘れるからまた教えて」
「もちろんです」
しかし、その笑顔はすぐに心配そうな表情に変わった。
「でも、天羽さん。そのまま寝たら風邪をひいちゃいますよ」
柚香は首を傾げた。
「風邪? ああ、髪が濡れてるから?」
「そうです。ちゃんと乾かさないとダメですよ」
澄月は部屋の隅からドライヤーを持ってきた。
「僕が乾かしてあげますね」
柚香は少し驚いた表情を見せたが、抵抗はしなかった。
「うん……」
澄月は柚香の背後に立ち、ゆっくりとドライヤーのスイッチを入れた。温かい風が柚香の髪を揺らす。
「temperature of hot air is approximately 60℃……」
柚香が流暢な英語で呟く。
「? 何か言いました?」
「なんでもない。続けて」
澄月は慎重に、柚香の長い黒髪を少しずつ乾かしていく。髪の毛の間を指でかき分けながら、根元から毛先まで丁寧に温風を当てる。
「天羽さんの髪、とてもきれいですね」
澄月が言う。
柚香は少し戸惑ったようだ。
「そう……なの……?」
「健康的できれいな髪ですよ。きっと頭の回転の良さの証拠ですね」
澄月はユーモアを交えて言った。
その言葉に、柚香の唇が僅かに緩む。
「そういう相関関係はないと思う……でも仮説としては面白い……」
髪が乾いてきたところで、澄月はドライヤーを置き、ブラシを手に取った。
「最後にとかしておきますね」
柚香の髪に優しくブラシを入れる澄月。絡まった部分は丁寧にほぐしながら、毛先まで丁寧にとかしていく。
「いつも妹たちにやってあげてるんですよ」
「そう……」
柚香は静かに目を閉じて澄月に身を任せていた。普段は常に何かを考え続けている彼女の表情が、珍しく穏やかに見える。
「終わりました」
澄月の声に、柚香はゆっくりと目を開けた。
鏡に映る自分の姿を見て、柚香は少し驚いたような表情を浮かべた。艶やかでふんわりとした髪が、いつもと違う印象を与えている。
「これが……私?」
澄月は満足げに微笑んだ。
「はい、とてもきれいですよ」
柚香は自分の髪に触れながら、珍しく言葉に詰まった様子だった。
「ありがとう……。これは……興味深い経験……」
澄月は柔らかな笑みを浮かべながら答えた。
「どういたしまして。これからも、天羽さんのことをしっかりサポートしていきますからね」
この奇妙な同居生活は始まったばかり。これからどんな日々が待っているのか、想像もつかない。しかし、澄月は何故か、それを楽しみに感じていた。一方、柚香も自分でも理解できない何か新しい感覚を胸に、この生活に少しずつ馴染んでいくのだった。