第十三歌
ネッソスが向こう岸にたどり着かないうちに、ダンテたちは、道なき森に足を踏み入れた。
木々の葉は黒く、枝は節くれてねじ曲がり、実はなく、毒々しい棘が生えている。
人里を嫌い、チェーチナからコルネートの山深い一帯に潜む野生の獣たちでさえ、これ程まで鬱蒼とした茨の藪には生きられないだろう。
ここには、醜悪なハルュピュイアどもが巣くっている。それらは、かつて不吉な予言をし、ストロファデスの島々からトロイア人を追い払った。
翼は大きく、人の顔と首を持ち、足の爪は鋭い。大きな腹は、羽毛に覆われている。奇怪な木々の上で、嘆きにも聞こえる鳴き声を発していた。
優しきウェルギリウスは、ダンテに話し掛ける。
「森に入る前に、あなたは第二の環状地にいることを覚えておいてください。恐ろしい第三の環状地である砂漠に着くまで、この地にいる間、目を凝らすのです。私の言葉さえ信じられない程の光景を目の当たりにするでしょう」
至る所から悲鳴が聞こえてくるが、声の主は見えなかった。
ダンテは狼狽し、立ち止まった。
声を発している者たちは、茨の間に隠れているはずだ。
ダンテがそう思っていると、ウェルギリウスは考えているはずだと、ダンテは信じている。
ウェルギリウスは、言った。
「木から一枝を折れば、あなたが抱く思いは、全て払拭されるでしょう」
ダンテは、手を前に伸ばし、大きな茨の細い枝を一本折った。
幹が、叫ぶ。
「なぜ、私を引き裂くのだ」
折れ口が、血で赤黒く染まった。
幹は、再び言葉を発する。
「なぜ、私を折るのだ。お前には、わずかな憐みの心もないのか。私たちは、今は茂みに変えられているが、かつては人間だった。仮に、私たちが蛇の魂だったにしても、お前の手には、もっと情けがあってもよいはずだ」
生木の端の一方を燃やすと、もう一方は滴が染み出し、蒸気が噴き出し音を立てるように、折られた枝からは、言葉と血が一緒に溢れ出ている。
ダンテは、枝を地に落とし、怯え立ちすくんだ。
「傷ついた魂よ」
ウェルギリウスは、幹に答えた。
「もし、この者が、私の詩に記されたことを信じることができていたら、君に手を伸ばすことはなかっただろう。しかし、余りにも信じ難い光景のため、私は、このような振る舞いを彼にさせてしまった。わずかながらの償いとして、生前の君が何者だったかを彼に伝えてほしい。現世に戻ることを許されている彼が、君の名声を復権させよう」
幹は、言った。
「そのような甘く誘惑する言葉に、私は黙っていられない。調子に乗って話が延び、あなたたちに迷惑を掛けなければよいが……私は、皇帝フリードリヒ二世の心を開け閉めする二つの鍵を握っていた者です。その鍵を巧みに使い、彼から多くの人間を遠ざけてしまいました。栄えある職に忠誠を誓い、私は寝食を忘れて働き、命をも失いました。皇帝の居城から淫らな視線を逸らさない娼婦、人の世に避けられない死、宮廷にはびこる悪は、全ての者の心に私への反感という火を点けたのです。燃え上がった者たちは、皇帝を焚き付け、喜ばしい誉れは悲しい歎きへと変わってしまいました。私の心は、周囲を侮蔑することを好み、死によって侮蔑から逃れると信じ、正しき自分から不正な自分に変えてしまいました。この木の新しい根にかけて誓う。私は、主君に対する忠誠を破ったことはありません。主君は、誉れにふさわしい方でした。あなたたちの一人が、現世に戻った時には、私の評判を揺るぎないものにしてほしい。妬みのために、評判は地に落ちたままなのです」
ウェルギリウスは、しばらく間を置き、ダンテに言った。
「彼の話は終わったようです。もっと聞きたいことがあるのなら、時間を無駄にせず、話し掛けてみなさい」
この言葉に対して、ダンテは言った。
「私が満足するとお思いになることを、あなたからお尋ねいただきたいのです。哀れでたまらず、私には聞くことができません」
ウェルギリウスは、再び話し始めた。
「君の願いが、ダンテによって叶えられるように祈ろう。囚われた魂よ、差し支えなければ、魂はどのようにしてこの節くれた茂みに封じ込められるのか、教えてもらいたい。また、知っているのなら、このような体から解かれる魂があるのかも教えてほしい」
幹は大きく息を吐き、その風は声に変わった。
「手短に答えましょう。残忍な魂が肉体から分かれると、ミノスによって第七の圏へと送られ、この森に堕ちてきます。場所は決まってはなく、石弓で弾かれたようにおもむくままに飛ばされ、落ちた所にスペルタ小麦の種のように芽吹くのです。芽をもたげ、野生の木に成長すると、ハルピュイアが、その葉をついばみ、苦しみと声をあげる窓を作り出します。他の魂たちと同じように、私たちも自分の肉体を取りに地上に戻りますが、それを身につける者は誰もいません。自分で棄てたものを再び着る正義はないのです。私たちはここまで肉体を引きずってきますが、悲しみの森の中、魂でできた茨にそれは吊り下げられるだけです」
ダンテたちは。他にも話したいことがあるだろうと、幹に注意を向けていた。
その時、突然の物音に、待ち伏せ場所に猟犬と追われた猪が、枝を折りながら迫り来る音を聞く狩人のように、ダンテたちは驚かされた。
左側から二人の男が、傷だらけの裸の姿で、森の枝をことごとく折りながら、必死になって何からか逃げてくる。
先頭の男が叫ぶ。
「死よ、助けに来てくれ、死なせてくれ」
もう一人の男は、自分が遅れていることに気づき叫ぶ。
「ラーノよ、トッポの戦では、こうも速くはなかったぞ」
男たちは息が切れたのか、灌木をひとまとめにして、その中に身を隠した。
二人の背後には、黒い雌犬が群れ、鎖から解き放たれた猟犬のように走り回っている。
雌犬どもは、身を潜めている男たちを見付けると、牙を立て、引き裂き。食いちぎる。苦痛にうごめく四肢を咥えて去っていった。
ウェルギリウスは、ダンテの手を引き、血を噴く折れ口から鳴き声を漏らす茂みに連れて行く。
「ヤーコポ・ダ・サンタンドレアよ、私を隠れ蓑にして何の得があったというのか。お前の罪深い人生に、私はどんな責任があるというのか」
ウェルギリウスは、その言葉の元に立ち止まり言った。
「いくつもの枝の先から、血と共に嘆きの言葉を発しているあなたは、誰だったのですか」
その者は、ダンテたちに答えた。
「枝葉を引きちぎられる拷問を目にした魂たちよ、この哀れな茂みの足元に枝葉を集めてくれないか。私は、守護神を最初のマールスから洗礼者ヨハネに変えた都市フィレンツェの生まれです。この行いが原因で、軍神の技、戦争によって、都市を絶えず悲しみに暮れさせることでしょう。アルノ河に架かる橋ポンテ・ヴェツキヨの上に、この像の欠片が残っていなかったのならば、後にアッティラが灰と化した都市を、再建した市民たちの労働は無駄になったでしょう。私は、自分の館を絞首刑場に変えたのです」




