2.書記官エドワードの奮闘
その日、王宮で書記官をしているエドワードは忙しい時間を縫って、馴染みの、とある貴族の未亡人との逢瀬の時を過ごしていた。
こき使われすぎて、こんな時間は滅多に取れなくなっていた。今もまさに、それを詰られているところだった。
彼女は口を動かしながらも彼の鍛えられた体に手を這わせる。その柔らかな刺激と、腕の中にいる女の肌の感触が心地良い。
「あなた、王太子妃様と噂になっていてよ」
「やめてくれ。あんな傍若無人な人間は好きじゃない」
「でも、気に入られているのでしょう? 王太子殿下も随分と好きにされているようだし……。そのお妃である聖女様が、あなたに手を出していても不思議はないと思う人は少なくないのよ?」
彼としては大変に不本意だった。出来ることなら、あんな面倒な人間とは関わりたくもない。
彼は聖女によって結界が張り直されるまで、軍人として魔族と戦っていた。その後も、結界があっても魔族の侵入はあるし、それを討伐しに出かけて行く生活が続くものだと思っていた。
彼は名門侯爵家の出とはいえ、妾腹の次男であり、それが許される立場だったからだ。
しかし、紆余曲折あって、肌に合うとは言えない文官になる羽目になったのだが、それはまた別の話である。
「そんな話はもうやめて、もっと楽しい事をしよう」
エドワードは、彼女を再び組み敷こうとした。
その時、急に扉が叩かれる。家人が彼の名を大声で呼んでいる。
ある程度格式のある宿だ。よく使うのだから、おかしな事はしないで欲しいと彼は思った。
早く王宮へ戻るようにと、郊外にある屋敷にまで王宮から使いが来たらしい。そのため、行き先に心当たりのあった家人がここまで飛んできたらしかった。
実際には彼はこうして、王宮からさほど離れていない宿屋にいたわけだが。
「また我儘の尻拭いか……」
エドワードは、しぶしぶ女の体から手を離した。服を着ていると、感情のこもらない声が彼の耳に届いた。
「エドワード。あなたと会うのはこれきりにしようと思うの。あなたとするのは好きだけれど、こんな中途半端に放置されて、いい気はしないわ」
「……分かった……」
また振られた。これで何人目だろうか。
それもこれも、あの我儘な聖女、もとい、王太子妃の担当などという、非公式の役職を与えられたせいだ。
彼は憮然としながらも、迎えの馬車に乗り込んで王宮へ向かった。
なんとなく街がざわついている気はした。彼が自ら馬を駆っていたら、街中で交わされる会話から、その原因に気づいたかもしれない。
王宮に到着すると、そこは混乱の極みにあった。
右往左往していた兵士を一人とっ捕まえて問いただす。
「何事だ?」
彼は怯えた顔で空を指差した。
エドワードは不思議に思いながら空を見上げる。薄曇りの空だった。
「……曇っているな……」
「え、あ、いえ、王太子妃様が、聖女様が、結界を破壊して……」
「………あ? 何だって?」
エドワードは目を凝らす。そこにはいつも通り、ゆらめくように時折り光を揺らす結界が見えた。
「結界は……あるぞ」
「違います! すでに張ってありますが、半刻ほど結界が無い状態が続いて……」
それを聞いたエドワードは、彼が思っていたよりはるかに深刻な事態に血の気が引くのを感じた。
大急ぎで自分の執務室に向かい、途中で彼を待ち構えていた部下たちに囲まれながら歩き続けた。
「それで!? 軍はもう出たのか!? 結界が消えていたとなると、どれほどの魔族の侵入や被害があるか! しかも王都まで飛んでくる奴らもいるかもしれん……!」
「まだです。軍の中では誰がその任に当たるのか揉めているようで」
「揉めている場合か! 最悪の場合は俺が出てもいいが、それよりも適任のやつがいるな。
レナート大公に押し付けろ! すぐに使いを出せ。途中で合流させる。軍は出立の準備くらいは出来ているのだろうな!?」
かつて軍人であったエドワードは、文官になる前は、魔族の討伐にしょっちゅう出向いていた。
共に戦った仲であり、その頃の王国軍を主に率いていたのが、現在大公の位を賜る、元王太子のレナートだ。英雄と呼ばれた男は、しかし、聖女に婚約を拒否され弟にその地位を奪われた。
本人は現在、半分隠居生活のような事をしているが、責任感の強い男だから事情を知れば動かずにはいられないだろう。
エドワードは上役の書記長や、軍幹部までも叱責しながら、辺境の、特に魔族の被害が出やすい場所に重点的に軍を送り込む手筈を整えた。
本来それをするのは彼の役目ではないし、完全に越権行為だ。
軍幹部の中に、かつて彼の部下だった者が何人もいたからこそ出来たことだった。
「国王の承認!? 後にしろ! 一瞬遅れるごとに民が十人死ぬと思え!」
皆途方にくれているのは分かる。
結界が存在しない時間が半刻もあったなどと聞かされて、エドワードでさえ背筋が凍る思いだ。
だが、初動が遅れればそれだけ魔族が人里に近づく時間を与え、人死にが出る。どうせ一部の地域ではとっくに出ているだろうが。
と、一通りの指示を出し終わった彼は、この事態を引き起こした元凶の事を思い出した。
「王太子妃は?」
「書記官殿、聖女様は結界を再び張ると、その場で倒れ意識を失いました。魔術士達の指示のもと、王太子殿下のご命令により地下牢へ連れて行かれました。空が見えない所に……」
「そうか……。それしか方法はなかろうな。だが、なんでこんな凶行に……」
確かに彼女はかつて自分の要求を押し通すために、自分には結界を壊せるのだと口にしたことがある。彼もその場に居たので知っている。
周囲にいた使用人たちには口止めがされたのだが、その噂は徐々に広がって、初めの頃は彼女を聖女と崇めていた者たちも徐々に彼女を遠巻きにするようになっていった。
「それが……」
部下は声を低めた。エドワードにその時の状況を耳打ちする。
「……元凶は別のやつだったか……」
「書記官殿、滅多な事は……」
「知るか! あいつは昔からどうしようもないな!」
第二王子のリチャード、現在は王太子だが、彼も彼の兄のレナートと同じく、エドワードの幼馴染と言えなくもない。リチャードとは、まったく仲良くはならなかったが。
「女癖の悪さは、書記官殿も定評が……」
「あんなやつと一緒にするな! 俺は独身だ!」
エドワードは一通り怒鳴って部下たちを仕事に戻らせると、これから起こりうる面倒事の数々を思い浮かべた。思わずため息が漏れる。
とりあえず、王太子妃に、聖女に会いに行かなくてはならないだろう。
そうして、エドワードは矢面に立たせるために上司である書記長を一緒に国王の元へ連れて行き、国王への報告を済ませると、聖女の様子を見るために地下牢へ向かったのだった。
つづく……
ここまでお読みくださり、ありがとうございます!
エドワードが聖女諸々を押し付けられた経緯は、短編の『聖女に振られたせいで廃嫡寸前の王太子の奮闘』の内容となります。シリーズ化してありますので、よろしければ。
そちらではなかなか不憫な状況で終わらせてしまったので、エドワードさんには幸せになっていただきましょう。