1.浮気にキレて結界を壊した
聖女ミナは夫である王太子のリチャードから呼び出された。
薄く雲のかかった、あまり気持ちがいいとは言えない天気の日だった。
もうしばらく前から、夫と会えば険悪な雰囲気になる。
彼が帝王学を学んだり、領地経営の執務を行っているはずのその時間に呼び出されるなんて珍しい事もあるなと思いながら、彼が居間として使っている部屋へ向かった。
通りすがりの使用人たちが私の姿を見た瞬間に顔色を変えて廊下の端に下がる。完全に怖がられている。今に始まったことじゃないけれど、面白くはない。
普通は一定の立場にある女性は侍女を連れて歩くものらしいけれど、初めはそうしていたけれど、鬱陶しいからやめさせた。
だから一人きりで歩く。
呼び出された部屋の扉は少し開いていた。声を掛けようかと思った瞬間、女の声が聞こえた気がした。
心がざわつきながらも、扉に手を掛ける。それは簡単に開いた。
そしてそこには、女を組み敷く半裸の夫がいた。
夫のリチャードはとても驚いている。
女は得意げな顔をして彼の首に手を回している。この修羅場になりかねない演出は、この女の仕業らしい。
なんとか伯爵家の娘だ。名前は忘れた。前に嫌々出たお茶会で、リチャードとの関係を仄めかして来たのもこの女だった気がする。
でもそんな事は良くある事だったから、気に留めていなかった。
リチャードはこの国の第二王子だった。彼は、出会った頃はとても優しかった。
聖女として召喚されて、この国の壊れかけていた結界を張り直した私と結婚したからこそ、王太子という今の地位に着くことが出来たのだと、私にいつも感謝と愛の言葉を囁いてくれていた。
私は彼の子供を二人産んでいる。三歳の息子のケイレブと、二歳の娘のアリッサだ。
その事によって、彼は未来の国王という地位を確実なものにしたらしい。
聖女の血を王家に取り込むことが、聖女召喚の代の王族に課せられた義務なのだという。
いつだったか、まだ彼を信じていた頃、「子どもを儲けた以上、王太子にとって聖女は用済みだ」と、多少のオブラートに包んで言ってきた人や、私を貴婦人らしくないと陰で嘲笑う人たちがいた。
「当たり前でしょ、私が生まれた国には貴族なんてもの、もういなかったんだし」
そう言って睨めば、そういう人たちはみんな黙る。
私が異世界から召喚されて、この国を救ってあげたことを、その時だけは思い出すらしい。
面白く無かったけれど、愛してくれるリチャードと、子育ては乳母に任せるものだと言われて、ほとんど会えないけれど、子どもたちもいたから、なんとか耐えていた。
それなのに、そんな人じゃないと思っていたのに、リチャードは浮気を繰り返した。
今思えば、初めて会った時から彼は王位を狙っていて、そのために私に甘い言葉を囁いて来ていただけだったのだと思う。
恋愛経験が特別豊富というわけではなかった私は、彼の見た目と見かけだけの優しさに惹かれてしまった。
結婚式の直前に「リチャードには愛人が大勢いる」と耳打ちしてきた人がいたけれど、それを問いただした時のリチャードは、「真実の愛を見つけたのだから、もう全員と手を切っている」と答えた。とても優しい表情で。
それが彼が嘘をつく時に浮かべる表情だと知ったのは、結婚してしばらく経ってからだった。
私は結婚前から騙されていたのだ。
今ではもう彼がそういう人だと分かっているから、こんな場面を見せられてもそれほどショックは受けない。
でも、馬鹿にされている事にはとてつもなく腹が立つ。
リチャードは、妻に決定的な瞬間を見られた事で完全に開き直ったようだった。そして、多分絶対に言ってはいけない事を言った。
「他の妃は娶らないと言う約束は守ってやっている。お前だけで満足出来るなら、このような事にはならなかっただろう」
リチャードはこちらを嘲笑うような笑顔を浮かべていた。それを見た瞬間、何かがブチっと切れた。
さらに、まだ彼に密着している女の勝ち誇った笑顔が怒りに拍車をかけた。
私は叫んだ。心の底から。
「誰のおかげで生きてられると思ってんのよ!!」
私は走ってバルコニーに出ると、空に手をかざす。そして、聖女特有のものだという力を練って術式を展開した。六年前に自分が張った結界にヒビが入る。
ほんの一瞬、曇った空に光の破片が現れ、そして降り注ぐように光を放ちながら消えた。
そうして、勝ち誇った顔で振り返る。
顔色を無くして慌てる二人や、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた、私を遠巻きにしていた使用人の顔が青ざめていくのを胸のすく思いで見やる。
侮るなと言いたかった。私にはこうするだけの力があるのよ、と。
とはいえ、誰かを傷つけたい訳ではないから、すぐに結界を貼り直そうとまた空に手を掲げる。
そこで異常に気づいた。
力が足りない……!
そうだ、前に結界を貼り直した後に壊した古い結界は、もう壊れる寸前だったから、それを壊すのにほとんど力はいらなかった。
でも、今壊した結界は新しく、力を込めなければ壊れなかった。
それに、もう何年もろくに鍛錬をしていなかった。ここに召喚された時、今ほどの力は無かったけれど、鍛錬を繰り返す事で力を高めていたことを思い出す。
とにかく私は急いで結界を貼り直さなくてはと、精一杯力を練った。でも鍛錬を怠っていたせいか、結界を張るだけの力が集まる感覚がない。このままでは術式が展開出来ない。
「やばいっやばいっやばいっ!」
周りは大騒ぎになって、近衛の兵士や、文官たちも部屋に駆けつけてきた。
でもそんなことに構っていられない。
私は長い時間をかけて力を集めると、なんとか力を振り絞って結界を貼り直した。
そして、ほっとしたと同時に倒れ込んだ。起きあがろうとしても、手を動かすどころか指一本すら思うようにならない。
力を使い果たした事が分かった。
リチャードはもちろん、見知った顔がいくつも見えたけど、体が動かせない私を助けようとする人はいない。
私はそのまま意識を手放した。
つづく……
ここまでお読みくださり、ありがとうございます!
短気な聖女様ですね。でも私も同じ状況におかれたら、確実にやっちゃいますね!