第二章 月の時計台
シュプーラの女王マリテーヌの側近には、長身の『キメラ』という侍女がいる。キメラは数多い侍女の中で最も位が高く、他の侍女から一目置かれる存在であった。そしてキメラはマリテーヌの白い衣とは対照的に、黒い衣と羽衣を身に付けていた。
宮殿にいる侍女や踊り子たちは、キメラとなるべく目を合わせないように行動をしていた。何故なら彼女の機嫌を損ねてしまっては、このシュプーラ宮殿の中では生きていけないからだ。
侍女や踊り子たちの間では、女王の側近であるキメラのことを『黒薔薇』と密かに呼んでいた。キメラの白い背中には、棘のついた茎が絡み合う黒い薔薇の入れ墨が彫られているという噂があるからだった。
建国記念日の夜。
シュプーラ宮殿の祭場では記念日を祝う宴が盛大に開かれていた。祭場には松明が激しく燃え、長いテーブルの上には華やかな料理や果物が並べられていた。また中央の広場には、多くの踊り子たちが大きな羽や装飾した剣を使って建国を祝う『祭礼の舞』を披露していた。
宴の壇上の玉座には女王マリテーヌが凛と座っている。そしてその隣には、あの黒くて長身のキメラが不気味な笑みを浮かべながら座っていた。
マリテーヌは白く長い足を組み替えながら果物を1つ掴み、それを口の中に含む。そしてその果物の水分と甘味をゆっくりと味わい、喉を鳴らしながら飲み込んだ。
「フフフ・・・」
マリテーヌは果物の美味しさと宴の華やかさに満足し、玉座の上から機嫌よく笑みを浮かべていた。果物を美味しそうに食べるマリテーヌの口元を、隣にいるキメラは横目で見つめ静かに息を呑んだ。
すると急にキメラが椅子から立ち上がり、黒い羽の扇子で顔を覆いながらマリテーヌの耳元に近づき、
「マリテーヌ様、そろそろ」
「わかりました、キメラ」
マリテーヌが玉座から立ち上がると、宴の祭場にいた侍女や踊り子たちは舞を止め一斉に膝を折りお辞儀をした。そしてマリテーヌは無表情のままゆっくりと歩いて祭場から出て行くと、その後に従ってキメラも出て行った。
同じ祭場にいたジロデも膝を折り、
「マリテーヌ様は今夜もお美しい」
と呟きながら、壇上から離れるマリテーヌの姿を目で追っていた。
マリテーヌとキメラが宮殿の奥にある『女王の間』に入ると、金の取っ手が付いた重い扉がゆっくりと閉まっていった。やがて重い音を立てながら扉が閉まると、キメラはマリテーヌの背中に自分の頬をつけた。
「ああ、マリテーヌ様」
黒い衣が静かに床へ落ちると、キメラの白い背中にはあの黒い薔薇の入れ墨が浮かび上がっていた。
「この世で一番美しいマリテーヌ様は、私だけのものです」
「キメラ・・・」
2人が愛し合う女王の間の灯りが、1つ1つ闇の中へと消えていった。
建国記念の宴が終わりジロデが祭場を片付けていると、踊り子の『ユラ』がジロデに近づきゆっくりとお辞儀をした。
淡い緑色の衣と長い羽を身に付けている踊り子のユラは、
「ジロデ様。 今夜、あの時間あの場所で」
「ユラ、わかりました」
そう言いながらお互いに軽くお辞儀をすると、別れ際に後ろを向いたユラは静かに微笑んだ。ジロデはユラの歩く後ろ姿を、会場から出るまでずっと見送っていた。
宴が終わり静まり返るシュプーラ宮殿。各部屋の灯りが次々と消えていき、鳥や虫の鳴き声だけが暗い宮殿に響き渡る。
宮殿の外にある長い廊下の先には人気のない中庭があり、その中庭の中央には凛とそびえ立つ『月の時計台』があった。月の時計台は太陽ではなく月の動きによって時間が刻まれ、針ではなく文字盤が動く仕掛けとなっていた。そして時計台の本体はガラスのように冷たく透明で、暗い夜でも不鮮明に光っていた。
ユラはガラスのような冷たい時計台に手を触れ、透き通るような高い声で『月光の夢』を歌いながらジロデのことを想っていた。そして文字盤が動き鐘が鳴ると、時計台の表面にジロデの姿が映った。それを見たユラは後ろを振り向き、高鳴る胸を抑えきれずジロデの胸元にそっと抱きついた。
「ジロデ様、お待ちしておりました」
しかしジロデはユラの身体を冷たく突き放し、
「ユラ、私たちはもう終わりにしましょう」
「嫌です! 私はすでに知っております。 ジロデ様がマリテーヌ様を愛していることを」
「では、なぜ私のことを?」
「マリテーヌ様は我が都市の女王様。 決して私たちには届くはずのないお方なのです。 ならば私とこうして愛し合っていた方が・・・」
「ユラ、もうそれ以上言わないで下さい。 わかっています。 私も苦しいのです」
ジロデは冷たい時計台に自分の頬をあて、マリテーヌへの気持ちを抑えようとしていた。
時計台にもたれるジロデの姿を見て、ユラは涙を流しながら、
「私はジロデ様と別れたくありません」
と泣き顔に手を当て、その場から走り去って行った。
「ユラ、私を許して下さい。 私にはマリテーヌ様への気持ちを抑えることがどうしてもできないのです」
中庭に凛とそびえ立つ月の時計台を見上げ、ジロデは1粒の涙をこぼした。