プロローグ:「 」
異世界転生したようだ。
なんて、親の顔よりも見た陳腐な独白はこのくらいでよしておこう。
意識を取り戻したのは水の中でだ。身体の感覚はなく、ただ何となく暖かくて狭い水の中にいるような気がした。身体は動かせない。少しだけ腕だか脚だかが伸びた気がしたが、それも錯覚だと言われてしまえばそんな気がする。
脳みそが俺を包む水に溶けたように、考えが纏まらない。すべてがあやふやだ。だが、悪くない。ずっとここに居ても良いと思えるような心地良さ。冬の朝の布団から抜け出たくないのと似たような感情を抱く。
………声が聞こえる。僕を呼ぶ声だ。
耳は殆ど機能していないから、多分水を伝って直接私の聴覚を揺らしているのだろう。聞き齧ったうろ覚えの知識だから本当にそうなのかは預かり知らぬところだが。
余を覆う小さな世界に穴が空いた。
次第にそれは渦を呼び起こし、我が身体を吸い寄せ、頭を食んだ。
痛みはない。だが、自己領域を侵略され、頭にタコの吸盤のような何かが張り付いたことへの反射で身動ぐ。
事態は悪化した。頭がおでこまで吸盤に食まれ、頭頂部は冷たい空気にさらされている。更に身動ぐ。目元までが外に出た。身動ぐ。口元まで外に出る。顎が吸盤に食まれ、そこから急速に吾輩の身体は排出された。
繋がりが断たれる。母なる根源の海を感じられなくなり、途端に妾は孤独感を覚えた。同時に、致命的な息苦しさも。
肺が潰れるような恐怖が臓腑に満ち、全力で口を開けて空気を取り込む。誰かが背を叩いてくれたのもあって、なんとか呼吸出来た。開放感から涙腺が緩む。
其は産声を上げた。
◆
神童が生まれた。神々の寵愛を一身に受けた神子が生まれた。
その場にいる全ての者がそう感じた事だろう。
周囲を圧するような強大な存在感。本能で理解出来た。そもそもの生物としての次元が違うと。その身から漏れ出る魄の波動は神性の欠片を帯び、隔絶した存在質量の差によって感じる圧迫感は龍を思わせる。
母胎から取り出された赤ん坊の名はシュークリス・ゼノ=ブラッドネス。この世で最も神に祝福された寵児であり、前世はごく普通の人生を歩む筈だった凡人だった男だ。
そして何の因果か異界の神に見初められ、在らん限りの祝福と恩寵の一身に授かった特異点。今後世界は彼を中心として回り、彼がこの世界の主人公の座を務めるのだと誰もが確信していた。
だからだろうか。
愚かなる人間共はソレを見逃してしまった。
神の子を産んだという奇跡の代償を死で以て償った偉大なる愚母。彼女の胎の中に未だに臍の緒が繋がれた者が在った。
呼吸はもう止まっている。心臓も拍動していない。体温は生き物としての最低限を既に下回っていた。瞳に光は無い。生命力という名の熱は疾うに喪われている。
臍の緒は命を繋ぐ架け橋ではなかった。
冷たい赤子と死を接続させる運命の糸。誰にも見つからぬまま、誰にも知られぬまま、誰にも名を呼ばれぬまま、誰にも祝福されないまま、ソレは生まれ、死んだ。
崇拝の目を赤ん坊に向ける彼らは知る由も無いだろう。遺体の中で静かに眠るソレが、虚無なる淵源と最も深く繋がってしまった異端児である事を。
根源の海を渡って双子は生まれた。肉体の構成は同一なれど、魂は生まれた世界からして異なる二人の凶兆はこれから真理を求めて歩き出す。
その果てに、何が在るのかも知らずに。