Chapter 5
ブッチは一人座り、眠れぬ夜を過ごした。
長い――が、短いものだ。全てを喪った時から過ごした年月に比べれば、
傷は、既に癒えている。でも、中身はほぼからっぽだった。
胸襟にぽっかりと穴が開いて、中身が流れ出てしまったみたいになっている。
かけがえのない【存在】を理不尽に強奪され、望まぬ生を押し付けられ、仲間はほぼみんな死んだのに生き残らされて――それでも、歯を食いしばって抗い続けていた。
だけれども――
「因果応報ってのぁ……こういうことなのかね」
勿論、答えてくれる相手はいない。
大事な問いに答えてほしい時に限って、誰もいないのだ。たとえ、幻覚であったとしても。
幻覚じゃなくて、悪夢でもよかった。
一分、一秒、一瞬でもいいから、誰かに会いたかった。
そう考えて、自嘲する。とんでもない自分勝手もいいところだからだ。
臨終の間際の老人のように、深く、深く、嘆息する。
それに代わるよう、真っ黒く凍えた絶望が流れ込んでくる。
それはブッチの意識を黒く染め抜く――
「酷い顔」
――ことはなかった。
ふわり、と降ってきた声が、それを吹き飛ばしたからだ。
一瞬、誰だか分からなかった。
声と姿が、重なって見えたからだ。
「ああ……」
ブッチは軽く笑い、そのうちの一人に向けて答える。
「悪ィ……俺、少し寝るわ。ちと、頑張りすぎたみてぇだ」
そしてブッチは、意識を眠りに委ねた。
それから、丸一日寝込むことになる。
目を覚ます。
太陽は、とっくに高い位置にある。
冷え切っていたはずの身体は、温かかった。毛布に巻かれるよう包まれているから、だけではない。
近くには、焚き火がある。かけたポットを、アトリが見ている。
不意に、熱いコーヒーが飲みたくなってきた。贅沢を言えば、度数が高い酒も。
「気分は、どう、ですか?」
「だりぃ……」
「そうですか」
アトリはポットを火から降ろし、ブリキのカップに注ぐ。
瞬間、嗅覚と食欲をくすぐる、芳醇な甘い香り。
「なんだ、そりゃあ……?」
アトリは答えず、ポケットサイズの酒瓶を取り出した。
「そのまま飲みてぇ」と言う前に、アトリはそれを少しだけ入れて、くるくるかき混ぜる。
「勿体ねぇことすんのな、お前」
「どうぞ」
抗議をスルーし、アトリはカップをブッチに差し出す。
「少しずつ、よく味わって飲んでください。身体が温まりますよ」
起き上がって受け取ろうとしたが、毛布が邪魔でうまく起き上がれない。
毛布をはぐと、ぼろぼろとなにか出てきた。なんか、白くごわごわとした物体が。
しかしそれより、アトリが差し出しているものの方が気になった。なんていうか、意識が無意識的に向く。
カップからは、ブッチがそれまで嗅いだことのない香りがふわふわ上がっていた。
ラム酒の香りが目立つが、その下になにか別のにおいがある。強いて言うならそれは、甘さを内包した苦み。えらく薄いが、砂糖の匂いが含まれている。
色はコーヒーに似ている。だが、コーヒーと比べると色は白味を帯びている。
軽く振ってみると、濃度があるような気がする。これは、溶けたチョコレートか?
少し、舐めてみる。
「……! ……!?」
月並みな言葉かもしれないが、猛烈に美味かった。ラム酒で香りづけられた、コーヒーのように苦いような、かと思えば、チョコレートみたいに甘いようなその温かい飲み物は、ブッチが欲するもの全てが入っていたような気がする。
出来れば貪るように飲み干したかった。けれど、そうすると身体の方が限度を訴えて吐き出してしまうだろうことは分かっている。
少しずつ含むように、ゆっくりゆっくりと、ブッチはカップの中身を飲んだ。
舌に触れる都度、体内に取り入れていく都度、身体に熱と気力が舞い戻ってくる。
「なあ、アトリ、これ、なんだってんだ?」
「ラムホットチョコレートですよ」
「ラムチョコット……なんだって?」
「ラムホットチョコレート。ブッチさんにとっての【異世界】の飲み物です」
柄にもなくぎょっとして、空になったカップを見る。え、これ、【異世界】の飲み物?
「【異世界】の飲み物が、ここで作れるってのか、なぁ!?」
「材料、リュックに入れていたチョコレートと合わせて一応揃っていたので作れたんですよ。温かいものは元気が出ますし、それに、チョコレートは疲労回復に効果ばつぐんですし」
「へェーぇ」
「それより、身体、ちゃんと温まりました? もしまだ寒いなら、カイロまだありますけど」
「カイロ?」
「そこに散らばっているものです、けど」
アトリが指さしたのは、例の毛布をはいだときにぼろぼろ出てきた白いごわごわだ。
「ええっと……ブッチさんにとっての【異世界】の道具で、冬の寒い日とか手が冷たいなーなんか寒いなーって時に身体を温めてくれるものです。ちなみに、一定時間で温かいのはなくなります」
「へぇーェ」
「それより、ブッチさん」
興味津々といった様子でカイロをまじまじ見ているブッチに、アトリは言う。
返事は、ぐぅ~! という、ブッチの腹の虫たちのコーラスだった。
「その調子だったら、ご飯、食べられますね」
焚き火を囲んで、ブッチとアトリは食事を摂っていた。
献立は、定番のブラックコーヒー、米と野菜の煮込み、目玉焼き、ホットビスケットにはブルーベリージャムを添えてと、凝ったものだ。
それらは、猛烈においしかった。煮込みは出汁に使ったジャーキーの旨味と塩気がほどよく出ているし、目玉焼きは白身がかりかりに仕上がっているし、バターの風味がきいたホットビスケットに酸味がきいたブルーベリージャムはマッチしていた。
「これ、全部お前が作ったの?」
「流石に全部は作れませんよ。エメさんたちからの差し入れもあります。それにわたし、一応女の子ですよ? ブッチさんがいない間、色々教えてもらって勉強したんですから」
それらを時折ブラックコーヒーを飲みつつ腹に収め、一息ついたところで、ブッチはアトリに言う。
「で、だ」
「はい」
「お前、これからどうするつもりだ?」
「どう、しましょうね……」
そうやって、少し考え込んで――
「正直、どうすればいいのか分からないです」
「だろうな」
ブッチの生存は確かなものとされ、その上、【不死者】に成り果てたことがばれた。
死んだはずのブッチかシディ、伝説と謳われた無法者が、形はどうあれ生き延びていた――おそらく、新大陸史上最大のスキャンダルになる。
それだけじゃない。
ブッチの許には、相棒がいる。
本来であればありえないはずの【ワイルドバンチ強盗団】の主幹メンバーの一人が。
アトリ――否、ザ・サンダンス・キッドが。
アトリは、最早、ただの少女ではない。
自らの意思で、アトリは名乗ったのだ。
だから、アトリはもう、無法者ザ・サンダンス・キッドでしかありえないのだ。
平穏は、過去のものと考えていい。
間もなく手配書が出回り、二人には莫大な賞金が賭けられるだろう。
そして、【ピンカートン探偵社】だけでなく、保安官に自警団、賞金稼ぎや騎兵隊が追いかけてくるに違いない。
新聞記者や小説家たちは、この件をこぞって書き立てるだろう。ただ、センセーショナルな物語を売り出すためだけに。
史実も記録も――虚構だろうが関係なく。
その方が、ずっと面白い。そもそもの話、事実なんて誰も求めていない。
「とにかく、俺たちの前には問題が山盛りだ」
「ですよねー」
「で、お前、この状況で新大陸でまともに生きていけるって、思っちゃいねぇよな?」
「思ってませんよ」
ちゃんと帰れるとも思っていませんよ――とも、心の中で呟いておく。
元の世界に帰ることは、今のアトリの目的ではなくなっていた。
目的より目標を優先させなきゃいけないからだ。
まずはこの【異世界】で、なんとかマトモに生き延びなきゃいけない。
追っ手に見つかることなく、追いかけられることなく。
「思っていないなら、どうする?」
「そりゃあ、逃げて逃げて逃げて逃げて逃げ切るしかないでしょう」
「ソイツが無理になりゃあ、どうする?」
「…………」
「言っておくが、新大陸にはあのチャーリー・シリンゴと同等もしくはそれ以上の魑魅魍魎どもがゴロゴロいるぞ」
アトリは、答えられなかった。
ブッチの目が厳しかったっていうのが一番の理由だ。銃口を突き付けられる以上の迫力が、あったから。
「だから、俺から一つ提案がある」
「はい」
「俺に付き従え」
一瞬、なにを言われたのか、分からなかった。
「えーと……ブッチさん、今、なんておっしゃいましたか?」
「俺に付き従えと言った」
「…………」
「よく聞け」
ブッチは言う。
「理由はどうあれ成り果てちまった以上、お前は無法者として生きなきゃならねぇ。だから、俺の下で、色々逐一ご伝授してやろうってんだ。俺が知る、新大陸での本当の生き方を」
「…………」
「無法者としての生き方……そして、戦い方を」
正直、言っていることはすごくひどいことだと思う。
だって、「俺がお前を無法者から護ってやる」じゃなくて「俺がお前を一人前の無法者にしてやる」って言っているのだから。
だけれども、ブッチを恨む気持ちにはならない。
お姫様を救う白馬の騎士じゃなくて、お姫様を誘惑して堕とす魔王じみたことを言っているのに。
「ブッチさんらしい誘い文句ですね」
「そりゃあそうさ、俺を誰だと思っていやがる?」
「ですよねー」
つられて、アトリも笑った。
でも、その笑顔には若干翳りがあった。
今日だけであっても、一緒にいたいと思っている。
たとえ明日が喪くっても、一緒に征きたいと思っている。
なにより、一緒に生きたいと思っている。
だけれども、お互いの前には、【不死者】と【不死者殺し】という残酷な現実の壁が立ち塞がっているのだ。
「この俺を相手に余所見するたぁ、いい度胸してんな?」
「してませんよ」
「嘘つけ。どうせ辛気臭ぇ――俺たちを隔てるくっだらねぇ理とやらのことでも考えてたんだろうが」
言葉にしなくても、抱えていた不安は伝わっていた。
けれども、青鋼色の目は、相変わらず笑みをたたえている。ただし、先ほどまでとは違う種類のものを。
「ンな都合の悪いしがらみみてぇなモンなんぞ、こういう時くらい都合よく忘れちまえよ。いいか? 何度でも言ってやるが、お前はもう、無法者なんだよ」
「はい」
「ンで、無法者ってのってのはな、大抵の場合許されるんだよ」
「それは、どういう?」
「同じ無法者からは……特に、同志からは」
ブッチはそれ以上、なにも言わなかった。
アトリはそれ以上、なにも望まなかった。
お互い、それだけで、もう、充分だったのだから。