Chapter 3
砂塵に、ブッチは軽く咳き込む。
気づけば、青仄白の炎は収まっていた。傷も、既に癒えていた。
だけど、痛みにはまだ覆われている。後から加わった、シリンゴから喰らわされた拳からのも含めて。
なのに、身体はびっくりするほど軽い。翼があれば、飛び立てそうな気がする。
いいコンディションだ。どこかへ征くには。
一歩踏み出す。この場から脱するために。
銃声。
アッシュブロンドの髪が、幾房か散った。
見れば、シリンゴがデリンジャーを構えて立っている。大した執念だ。
一瞬、シリンゴは大きく顔を顰める。身体がぐらりと揺れて、膝をついた。
胸を押さえ、何度も咳き込む。その都度、赤い飛沫が飛び散る。
ブッチは、躊躇するつもりはなかった。
銃やナイフがなくとも、人間は殺せる。
絶対に、ここで殺らなければならない。
確実に、禍根を絶たなければならないのだ。過去のではなく、これから先、未来のために。
ライトブラウンの眼は、ブッチをしっかりと見据えている。割れた額から流れる血が、片方の眼を塞ごうとも。
ぞっとせざるをえなかった。
その眼は、凄まじいぎらつきを湛えていた。
間違っても、死を前にして芽生える生への執着でも、無法者の手にかかり果てることへの怯えではなかった。
それは、執念。
ここで終わることへの屈辱、たとえ悪霊に成り果てようとも宿命の大敵を逃がすまいという。
シリンゴは、男である以前に、探偵なのだ。
なら、迷う必要はあるまい。
ブッチは、手を伸ばす。
銃声。
「チィッ!」
銃声。
地面が抉れ、砕けた土片が跳ねる。
銃声。
「シリンゴさんから離れろっ!」
銃弾が飛来してきた方向から、それは疾駆してくる。
艶やかな毛並みの黒馬。それに跨る一人の男。
見覚えのある顔だった。キエン・エスからアトリを救う際、得物を借り受けた【ピンカートン探偵社】の探偵。
手には、得物がある。撃ってきたのだから、当然だ。
「最後の最後で、ロクでもねぇ得物使ってきやがって!」
銃声。銃声。銃声。
威嚇で六発も撃ってきやがった。
だったら、あと二発撃てるはず。
遠目だが、あの全体的に角ばったフォルムには見覚えがある。
あれは確か、ドライゼM1907。自動式と呼ばれるタイプの銃。
うまくやれば八発撃てるように仕上がっている、非常に厄介な得物。
「ブッチ!」
「わかってらぁ!」
ブッチはその場からのおさらばを決めこんだ。ぐずぐずしていたって、いい方に転ぶわけなんてない。
マックスを膝に乗せたアトリの隣、御者台に飛び乗る。手綱を握る。
「出立!」
アトリの声と共に、鞭を入れられた馬たちが走り出す。その脇を固めるよう、クラリスとクラレントが並走する。
馬蹄と車輪の音を響かせ、装甲戦闘駅馬車は驀進。
目指すは、カマロンの町の出口。
その先に広がる、荒野。
さらに、その先の――
「シリンゴさん、大丈夫ですか!?」
ワイルド――シリンゴの部下は、そのまま駆け寄ろうとした。
【ケルビム】を通じ、「指示が出るまで動くな」という指示は下されている。
されど、ここまで滅茶苦茶な事態に激突されれば、流石に動かないわけにはいかない
とはいえ、スタンピードで滅茶苦茶になる町を突っ切ってここまで来れたのは、正直奇跡だった。シリンゴの愛馬と合流できて、その背に乗せてもらえなければ一体どうなっていたか。
それはさておいて、だ。
シリンゴは重症だった。それに、無理を無理やり負い重ねていた。
意識と気力が尽きていないのが、むしろおかしい状態だった。
「……何、を……して、いる……!」
サーベラスから降りて具合を見ようとしたワイルドを、シリンゴは制止する。
「早、く……! 行け、追え……追い、かけ……ろ!」
「……!?」
「い、ま……軛、にかけなけ……れば、次……は、ない! 絶対……に!」
「し、しかし!」
「追え……追いかけ、ろ!」
「……!!」
「行けッ!!」
今の今まで、指示や叱咤は数えきれないほど受けている。
だが、余裕を一切なくした怒声による命を下されたことはなかった。
だから、応えなければならない。報いなければいけない。
「ハイヤッ!」
ワイルドは馬腹を蹴った。
人馬一体となり、【ワイルドバンチ強盗団】を追う。
「追手、来てます! 一人!」
「チィイッ! シリンゴの野郎ォっ! 部下にどういう教育しとるんじゃゴルァ……一丁前に無法者の追跡と拿捕を任せやがって!」
「振り切れますかっ!?」
「正直、難しいっ!」
心なしか、速度が落ちているような気がしないでもない。
無理もない。いくら四頭で牽いているとはいえ、装甲戦闘駅馬車は重量が相当なものである。
「どうします!?」
「さっきのあの、投げたら火がボーン! てなって爆発するモン、できねぇのか!?」
「無理ですよ! 持ってたペットボトルあれ一本だけですから、あれ一回きりですよ!」
「なんでその【ペットボトル】とかいうモン、あと五本か七本か十本持ってきてねぇんだよッ! つーかあれか!? 【ペットボトル】とかいうモンは、【異世界】じゃ貴重品なのか!? だとしたら悪かった!」
「いや貴重品じゃありませんけどッ、でもッ! そもそも材料が揃わないとあれはできないわけでっ! ……って、ぎにゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」
思わず、悲鳴を上げてしまった。
追っ手が、すぐそこまで迫っている。もう少しで、並走が叶う距離に届く。
「どうにかなりませんかっ!?」
「無理だ! これ以上は逃げ切る前に馬がへばっちまう!」
クラレントとクラリスが蛇行するように走り、行く手を妨害しようとする。
だけれども、追っ手を乗せた馬はそれを上手いことするするすり抜けて追いかけてくる。
不意に、追っ手が手綱から手を放すのが見えた。飛び移るつもりだ!
しかし――
唐突に、「ガヴヴヴヴヴッ!」という異音――否、凶暴な唸り声がアトリの膝の上から上がる。
「マックス!?」
マックスが、激しく怒っていた。牙をむき出して、鼻面に皴の山脈を築いて。
つぶらな目の中に、稲光を走らせて。
戸惑うべきではなかった。
一瞬の戸惑いが、決定づける。
マックスとの、離別を。
止める間もなかった。
アトリの膝の上から、マックスは大きくジャンプ、そのまま飛び降りる。
「マックス!」
「バカっ、よせっ!」
無理だっていうのは分かっている。
アトリは手を伸ばそうとする。だけれども、ブッチに抱え込まれ、止められる。
「は、離してくださいっ! マックスが……マックスが!」
「お前が飛び降りて、どうなる!? 戻って、なにができる!?」
「で、でも、でもっ……」
「これは、アイツなりの意地だ」
マックスが飛び降りる寸前、ブッチは一瞬、目があった。
「アトリをお願いね」――と、そのつぶらな黒い目は言っていた。
ぐん、と装甲戦闘駅馬車の速度が増す。
マックスが飛び降りたことにより、荷の重さが減ったためだ。
そしてそのまま、全てを振りきるよう、その先へ――
迷うことなく、マックスは飛び降りた。
アトリの叫び声が聞こえる。それを、首魁が咎める声も。
正直、後悔している。
一緒に行きたかった。どこまでも、どこまでも。
一緒にいたかった。いつまでも、いつまでも。
だけれども、やらなればならないことが――どうしても決着をつけなければいけないことがある。
飛び降りるがてら体当たりをかました。
かまされた側は、一瞬ひるむ。ひるんで、止まる。
その隙を逃してはいけない。
「わ、わわわわわっ!?」
ワイルドは、一瞬パニックに飲まれかけた。
飛び移ろうとした瞬間、なにかでかい固まりがぶち当たってきた。
ひるんでいななくも、しかしサーベラスは瞬時に持ち直そうとする。
されど、それは赦されない。
再び、サーベラスがいなないた。
発したそれで、ワイルドは我が耳を疑わざるをえない。
上がったのは、怯えのいななきだったから。
そしてそのまま、滅茶苦茶に走り回る。
「どうっ! どうっ! どうっ! どうっ!」
ワイルドは手綱を引き、なだめてなんとか押さえ込もうとした。
だけれども、それは叶わない。正直、振り落とされないようにしがみつくだけで精一杯なのだから。
相手は足元をぐるぐるぐるぐる素早く走り回り、サーベラスを翻弄する。
時に凄まじい唸り声を上げ、吠え、馬にとっての急所である踵をがぶっ! とやる。
「い、犬!?」
地面に転がり落ちるのと同時に、マックスは襲いかかる。
牙をむく。踵を思いっきり噛んでやった。
その相手は、馬だ。シリンゴの愛馬だ。
大切な友達を殺した憎い仇の相棒で、移動手段だ。
追いかけさせてなるものかと、マックスは噛む。
噛む、噛む、噛む、噛む。噛む――
その正体を知った時、ワイルドは正直ぞっとせざるをえなかった。
それが犬であることにではない。犬種に、だ。
「ウェルシュコーギー犬ッっ」
馬にしてみれば、敵になれば厄介の極み。人間以外で馬を御するのが最も上手なのだから。
そもそも、ウェルシュコーギー犬はペットではない。作業犬だ。家畜たちをうまく取りまとめ、家畜泥棒や狼を追っ払う仕事に従事するプロ。
その短足寸胴の体躯は、牛や馬による蹴りをかわすのに有利な大きさに仕上がっている。いわば、天然の奇跡そのもの。
それ故、うまいこと悪く活用すれば、こうなる。
「あっち行けっ! このっ! このっ!」
銃を向ける。
しかし、ウェルシュコーギー犬は動じない、臆さない。
それどころか、素早い動きで翻弄しまくってくる。
正直、撃ち殺してやりたい。でも、出来ない。
サーベラスが驚いて暴れるせいで、照準が定まらないからだ。そんな状態で撃てば、サーベラスに当たってしまう。
焦りが募る。そうしている間に、逃げる【ワイルドバンチ強盗団】との距離間がぐんぐん開いていく。
「アーア、マんまと逃げられちまったナ」
混濁する意識に、声が届く。
霞む視界に、プレーリードッグの巣穴ほどの大きさの穴がある。
「【ケルビム】……」
「馬鹿が、無茶ちゃしやがってヨ」
「これが、僕の仕事、です……からね」
「仕事だァ? 頭湧いたこと抜かしてんじゃねぇヨ。イいカ? 【ピンカートン探偵社】ハ、法執行官ダ。無法者戦に特化シ、『我々は決して眠らない』のスローガンの下に集う者たちダ。無法者どもをどこまでモ、ソれこそ世界の果てまで追いかけ追い詰メ、軛にかケ、絞首刑台の階段を登らセ、監獄に永久収監すル、心臓に鉛弾をブチ込んデ地獄に叩き落とす使命を帯びル、スペシャリストダ。ソの最中に死んでみロ、酒の席で末永く笑い語り継がれる存在にされるゾ、無法者どもとその協力者どもニ」
「嗤いたきゃ、勝手に嗤え、ばいいんですよっ……。僕は別に、死体に唾、を吐きかけられようが、足蹴に、されようが、犬の餌にされよう、が気にしませんから」
「敏腕探偵たル、オ前らしくもないこと言いやがるナ。落ち着けヨ。無法者のノリに乗せられてんじゃねぇヨ。イつもは紳士のくせニ、ブッチ・キャシディを前にしちまうと後先知らずの愚者と化しちまいやがっテ。
オ前らを繋ぐ因縁を知らないわけじゃないガ、無茶がすぎル。少しは年齢を考えろヨ」
「分かってる、つもりですよ、それくらい」
叱責の言葉を受けながら、シリンゴは閉じている方の眼に触れる。
瞼の奥には、既に焼き付いている。現在におけるブッチ・キャシディの姿が。
心なしか、【ワイルドバンチ強盗団】を率いていたかつてよりずっと若く見える。
それこそ、生気と精気が満ち溢れた若者みたく。
【不死者】に成り果てた故か、或いは――
不意に、その姿が揺らぎ、別の人物の姿が編みあがる。
それは、少女――否、一人の無法者。
「ザ・サンダンス・キッド……」
思考回路にしっかり刻み込むよう、その名を口にする。
自身の宿命の大敵より厄介極まりない存在になるであろう、人物の名を。
「追いかけがいが、ありそうだ」
軛にかけてやる。
虚構における【顧問探偵】ことシャーロック・ホームズみたく、滝つぼに飛び込んで敵と刺し違えてやるつもりなど、さらさない。
敏腕探偵の誇りにかけて、捕らえてみせる。
遠くないうち、必ず。
必ず、だ。
【ピンカートン探偵社】の探偵たちとスタンピードを振りきり、カマロンの町を飛び出し、ただただ我武者羅に突っ走って、突っ走って、突っ走って――
スタンピードの喧騒も人の営みの明かりも、最早遥か遠い後ろだった。
夜はまだ、世界を覆っている。
そのせいで、周りがどうなっているのかは分からない。
だけれども、アトリには分かる。
砂塵を含んでざらついた風のにおいと、からからに乾いた空気の味で。
人の法が通じない領域、無法が支配する場所。
アトリが選んだ世界。
荒野。
空が、美しく変貌し始めている。夜が、撤退を初めていた。
「……きれい」
藍色のカンバスに薄紫色の光を当てたような、優しい色合いをしている。もう間もなく、暁が到来する頃合いだろう。
世界が美しく生まれ変わろうとする瞬間が、どこまでも果てしなく広がっている。
「そォかよ」
されど、ブッチはアトリの感傷の言葉を否定するかのよう、吐き捨てる。
苛立ちと、怒りを隠さないそれを。
気づけば、ブッチがこちらを見ていた。
声と同様の感情の表情で。
「アトリ!」
当たり前だ。
アトリは、それだけのことをしでかしたのだから。
「お前、あの時……
死のうとしやがったな……!」