Chapter 2
強かにぶん殴られた男は、ロープで縛られ、納屋の床に転がった。
やったのは、無法者だ。それも、つい最近まで共に仕事に励んでいた同僚の女だ。
「こんなことをして、てめぇタダで済むと思ってんのか!」
「こんなことをしでかすわたしたちが、タダで出て行ってやるとでも?」
罵倒を、エメさんは鼻で笑った。
「ついでとはいえ、こっちは久しぶりに本業に戻るんだ。タダ働きをしてやるつもりなんて、さらさないね」
直後――地響きが、襲い来る。
そして、悲鳴のようないななき。
それに交じり、断続的に上がる犬の吠え声。
「さーて……おっ始めるとするよ!」
エメさんは悠々と出て行く。困惑する男に、目を向けることはなかった。
なんだ? 一体、外でなにが起こっている?
なんでこんなことを言ってしまったのか。その答えは、アトリが得た――否、目覚めた強い意志だった。
なにものにも代えられない、喪いたくない存在を得た者のみが至れる境地、断固として己が行動を妨げさせまいとする想いの到達点がアトリをそうさせた、ただそれだけのことだ。
だからって、この状況を抜け出せるわけじゃないのだけれど。
でも、こんな現状だからこそ、アトリにしか出来ないことがある。
ブッチは、動揺を隠すことができなかった。
当然だ。アトリの真意を掴むことが、これっぽっちもできないのだから。
余計なことしやがって! という赫怒が湧くことはなかった。
それ以外の感情が勝ってしまったからだ。
その感情の名は期待だった。
蝶になって大空を舞うことを夢見て眠り続ける、蛹が抱くような。
故に、動くことができなかった。
――お前は、アトリ、だよな?
言葉にすることなく、問いかける。
傍らの少女の姿が、一瞬、ぶれたような気がしたからだ。
その姿はない。
けれども、【存在】があった。
おぼろげながら、感じ取ることができる。
タフな無法者。
最高のガンマン。
【ワイルドバンチ強盗団】の一人。
仁義と友情に生きた漢。
ブッチだけが知り得ていたはずの【存在】。
ザ・サンダンス・キッド。
本当にあれがそうなのか? あんなガキが?
得物を構えたまま、シリンゴは相手を凝視する。
青年というより少年だ。
それにしても小柄すぎる。むしろ発育不良ではないか、と思わざるをえない。
背は低く、顔立ちは小綺麗、華奢すぎる体躯はまるで少女のよう。
否、少女そのもの。酒と煙草で焼けていない、高く滑らかな声をした少女。
「なんなんだ?」
それ故、シリンゴは判別できなかった。
推し量れないからだ。その身に纏うのはどれも、少女が持ち得るはずなんてないものばかりだから。
燃え殻ではない強い意志、服従を拒む野生馬の獰猛さ、熾火に秘められる攻撃性――伝わってくるものら、それら全部が。
少女のようで、実は別の存在である。実は別の存在であるが、少女のようである。
まるで、天使の姿をしていながら悪魔の翼を生やしているような、あるいは、悪魔の姿をしていながら天使の翼を生やしているような、異形の生き物でも見ているような感覚にとらわれかける。
「お前は、一体……なんなんだ?」
それらを振り払うべく、シリンゴは問いを発していた。
傍らの存在からは動揺が、敵対者からは焦燥が、ひしひし伝わってくる。
そして――形は違えど、二人は答えを求めている。
だから、アトリは告げた。
「てめぇらは何故、なんでそこまで虚構にこだわる? そんなに、俺を【英雄】に……伝説にしたいのか?
ふざけんじゃねぇよ!
幻想を見るのはいい!
けど、大概にしておけ!
ンなモンをオカズに俺を見ようとすんな!
いいか、目を食いしばれ!
ンでもって、この俺を見ろ!
今、ここにしかと存在している、ザ・サンダンス・キッドを、見ろ!」
「……ザ・サンダンス……キッド……!?」
どちらが発したものかは分からない、呆然とした声が聞こえた。
「俺は、キッド! ザ・サンダンス・キッドだ!」
その直後――
地面が、鳴動する。高く、高く。
遠くから断続的な悲鳴が上がる。人間のものではない悲鳴が。
混じり合うそれらは、遠雷みたく不吉だった。
「な、なんだ!?」
「なんだ、じゃねぇよ」
アトリは、せせら笑う。
「無法者を舐めてくれるな、このマザーフ〇ッカー!」
時計の針を、少しばかり戻そう。
「本当に、お征きになられるんですかい?」
「……はい!」
アトリは、しっかり頷いた。
「……もう、決めましたから」
「こんなこと、アタシが言うのもアレなんですがね……お嬢さん」
ケサダは言う。
「いいんですかい? ここを出ちまえば、さよならなんですぜ?」
「……?」
「わたしらが思うに、お嬢さんはちっとも幸せじゃないかもしれません」
ケサダの言葉を、エメさんが引き継ぐ。
「けどね、人間ってのは、ルールさえちゃんと守っていりゃあ、守ろうとしていりゃあ、たとえ幸せでなくったって生きていけるはずなんです。官憲に追われることもなく、リンチに遭うこともなく、荒野や砂漠をさ迷うこともなく、ガラガラ蛇や泥水を食すこともなく、平和に、真っ当に」
「…………」
「折角、なんとかお元気になられたんです。だからまた、傷をご自分から作りに行くなんて」
「ケサダさん、エメさん」
アトリは、はっきりと言い放つ。
「覚悟は、もう、決めたんです。それに……もう、嫌なんですよ。重くて嫌なものだけ他人に押し付けて任せて、自分は安全な場所で丸まって震えて、ほとぼりが冷めるのをただひたすらじっと待っていればいいなんて」
「…………」
「助けてもらえるのが当然で、自分の力で足掻くことさえしないなんて……無法者であろうがなかろうが、ろくでなしもいいところじゃないですか」
「そのお覚悟、アタシらはしかと受け取りやしたぜ」
何も言い返せなかったエメさんと交代するよう、ケサダが口を開いた。
「これ以上の引き留めは無粋でしょう……お征きなせぇ」
「……お世話に、なりました。……ありがとう、ございました」
「しんがりはどんとお任せになってくだせぇ。火柱が上がりゃあ、アタシらはすぐ事を起こしやす」
「……ご迷惑をおかけします、最後の最後まで」
それらは、地響きと土埃を轟かせ、一気に突っ込んできた。
カマロンの町のあらゆるところから叫び声も上がる。突然の災禍、止められない災害に。
当たり前だ、それら全てに例外はない。末端の一頭に及ぶまで、全て砲弾なのだから。
砲弾は砲弾でも、生きた砲弾だ。
恐慌を起こし、暴走する牛たちというのは。
「ス、スタンピードだぁっ!」
西部開拓時代と呼ばれる時代に恐れられた災害の一つに、スタンピードというものがある。
パニックを起こした家畜たちの暴走だ。
一度勃発すれば、それまでだ。収束は、天のみぞ知る。
暴走した牛たちの足音が地面を激震させていた。
打壊、損壊、破砕、粉砕、撃砕、打毀、打撃、毀損――ありとあらゆる破壊音が轟く。
路地を突っ切り、家屋に突っ込む。
納屋をぶっ壊し、庭柵を踏み壊す。
ショーウィンドウをぶち破り、馬車をなぎ倒す。
支柱を破壊し、風車式くみ上げ井戸や絞首台を倒壊させる。
カマロンの町は最早、滅茶苦茶だった。
その様は、秩序が砂礫の楼閣みたく崩れて混沌に還っていくのを描いた戯画に見えた。
「久しぶりだけど、いいもんだねぇ」
「ああ、まったくだよ」
そんな中に、エメさんとケサダはいた。二人とも馬に騎乗し、人馬一体となって騒乱の中を駆け抜けていた。その後ろを、栗毛の雌馬に先導された馬たちが列をなしてついて来ている。
選りすぐりの馬たちが牽く、大事な荷も。
二人の馬ではない。どれもこれも、仕事のついでに強奪してきた馬たちだ。
これらは元々エメさんの元職場の牧場のものだ。でも、今は二人のものだ。
元【ワイルドバンチ強盗団】の構成員の無法者夫婦は、自分たちが行うべきことをしっかりと成し遂げていた。
そのための合図は、既に打ち合わせ済みだ。その時が来たら、必ずばかでかい狼煙を上げることを、お嬢さんは約束してくださっている。
カマロンの町は間違いなく、壊滅的被害を受けるだろう。住人だって、少なくない人数が確実に死ぬ。
やりすぎでは? そもそも、ただ逃がすためだけにここまでする必要なんてあるの? という声が聞こえてきそうだが、エメさんとケサダにしてみれば、ここまでしなけりゃ逆にやばかったりする。
望んでいなかったとはいえ、あのお二方はあれだけの騒ぎの渦中の存在になってしまったのだ。
責任があろうがなかろうが、カマロンの町の住人は決して許しはしないだろう。とっ捕まえて残虐なリンチを下し、そのまま絞首台へと引っ立て、吊るすだろう。
流石にそれは嫌だ。だから、そうなる結末へのルートそのものを壊すことにした。
無法者のやり方でもって。
「そろそろだ」
ケサダの言葉に、エメさんは頷く。
「アタシらができるのはここまでだ。あとは……」
抱えていたものを、ケサダは放した。
そいつは地面に降り立つと、ケサダとエメさんをつぶらな黒い目で交互に見る。
「行ってやんな」
ケサダは、そう言って後押しする。エメさんは、大きく頷く。
「お前にしてみりゃあ、放っておけないカワイイ妹分みてぇな存在なんだろう?」
シリンゴは思い知らされる。
少女――否、無法者ザ・サンダンス・キッドに嵌められたことを。
経験と勘から察するに、意図的に引き起こしたスタンピードを町にぶつけたのだろう。
やったのはおそらく別動隊だ。火を放つのが、開始の合図だったに違いない。
奴らは、それが引き起こす混乱に乗じて逃げるつもりだ。
「よくも、やってくれたな……無法者!」
身体は既に、限界を訴えていた。
だけれども、それは沸騰した怒りが跳ねのける、発した罵倒の叫びが苦痛をねじ伏せる。
正直、このまま撃ち殺してやりたかった。
しかし、シリンゴはその個人の激情を探偵の理性で抑え込む。
どうあっても殺してはならない。白状しもらわなければならないことがありまくるが故に。
この炎上する教会で、一体なにが起こったのか。
ボリビアの地で行われた銃撃戦を、どうやって生き残ったのか。
【不死者】なのか、そうでないのか。
どうして今の今まで、ずっと誰にも気づかれなかったのか。
それ以上に――ブッチ・キャシディとどういう関係にあるのか。
ウィンチェスターM1873を構えなおす。銃口を標的に固定する。引き金に指をかけ、引く。
銃声。
放たれた弾丸は、されど、無法者の少女を撃ち抜くことはなかった。
ブッチが、一息で間合いを詰めたからだ。握りつぶさんばかりの握力でもって銃身を掴み、押さえつけ、照準を狂わせたからだ。
「なにをする!」
「てめぇこそ、一体、なんてことをしてくれるんだよ!」
「邪魔をするな!」
「ソイツぁ、俺の台詞だっての!」
「ふざけたことを抜かすな!」
「ほざいてろ、バカ!」
「この……!」
シリンゴは、得物から手を放す。
「ろくでなしのくそったれが!」
ゴッ!
たたらを踏んだブッチの顔面に、渾身の一撃を叩きこむ。
その衝撃で、ステットソンハットがふっ飛ぶ。
「経験豊富な男やもめに、ンなこと言われたかねぇよ!」
ゴッ!
渾身の一撃を、返される。衝撃を叩きこまれ、山高帽子が吹っ飛んだ。
「言ったな、シスコン!」
「ンだと! この石部金吉!」
「やかましい! ドブネズミ!」
「屍肉漁りに言われたかねぇよ!」
「だったらお前はスカンク野郎だな!」
「ドラゴンどころかスカンクがまたいで通るような探偵にンなこと言われたかねぇわ!」
罵り合いはそのまま、拳と拳の応酬による報復戦となった。
共に、互角。
両者、譲らず。
双方、折れず。
止まれぬ、留まらぬ。
互いの信義が相容れられぬものだから。
互いの仁義が受け入れられざるものだから。
正義は、根本的に異なる。
無法者と探偵であるがため。
否。
男の意地、ただそれだけのこと。
だけれども、それは唐突に終わる。
「ブッチ、退け!」
そろそろだと、アトリは叫んだ。
「頃合いだ、ずらかるぞ!」
直後、轟音が砂塵を蹴立てて乱入をかましてきた。
拳のやりとりを中断し、飛びのいていなければ、ブッチは撥ね飛ばされていただろう。
「ジャストタイミングだぜ! お前ら!」
それは一見、人の移動や金銭の移送に使用される駅馬車に見えなくもない。
全体が黒く塗られ、防弾用の鉄板で覆われ、側面に銃眼が設けられていなければ。
牽くのは、月毛、白毛、薄墨毛、葦毛雲雀の、美しく逞しい荒馬たち。
「装甲戦闘駅馬車だと!?」
それは、一応、駅馬車である。
ただし、特注品だ。
駅馬車強盗と戦うために造られた、戦闘用の。
先導役を努めるのは、栗毛の雌馬と、フォーンホワイトのウェルシュコーギー犬。
「クラレント、こっち!」
アトリの声に応え、クラレントが駆け寄ってくる。口に、ボロ布をくわえている。
受け取り、手早く身に纏う。
準備は全て整った。
あとは、征くだけ。
「出立だ!」