Chapter 1
先導役の後を、二人は並んで辿っていった。
その歩調は、棺桶を担いで冷え切った沼を進んでいくみたいに重々しい。
終始、無言だった。
ブッチが満身創痍だってのもある。ただそれだけなら、どれだけよかっただろう。
ブッチは、隣を歩くアトリを見た。最早、ブッチが知るアトリとは異なってしまっている存在を。
それは、始終おどおどしっぱなしで、心が柔らかい上繊細すぎる、【異世界】からやって来てしまっただけのただの少女では最早ありえなかった
ついて来るばかりだった足取りが、しっかりしている。終始警戒するよう揺れていた目に、強い輝きが宿っている。
顔つきが、戦乙女みたく凛としている。硝煙のにおいがその身に染み込んでいる。
なにより、四六時中纏っていたボロ布が、なくなっている。
おそらく、着火を危惧して脱いだのだろう。だけど、色んな意味における危険から身を守るための鎧であったはずのそれを脱ぎ捨てたアトリは、ブッチの目には出会った頃よりずっとたくましく映っている。
雨に濡れればぶるぶる震えるだけしかできないひ弱なツグミは、今や嵐の大空を飛翔する雷の化身へと生まれ変わっていた。
だけれども、率直に「お前、変われたな……強く、さ」と言うことが出来なかった。
原因は、その頬を時折伝い落ちるものらだ。
アトリは、泣いていた。嗚咽を漏らすことなく、伝い落ちる涙を拭うことなく。
何故泣くのか、ブッチには分からない。思い当たることが沢山ありすぎるからだ。
だけど、その涙はすぐに乾く。熱と炎が、容赦なく乾かしてしまうから。
はっきり言って、見ていられなかった。
無意識のうち、手を伸ばす。
「……やめて、ください」
その手を、アトリは拒んだ。
「……涙も、血と同じ、なんですよ……」
その一言に、容赦のない現実を思い知らされる。
アトリは【不死者殺し】、【不死者】に【再生】不可能なダメージを負わせ、死者に還す血を持つ存在――謂わば【不死者】の天敵なのだ。
実際、キエン・エスはそれが塗られた銃弾で滅んだ。
「悪ィ……」
謝ったってどうにもならないことぐらい、ブッチには分かっている。
アトリは相当以上のものを既に負っている。ビリー・ザ・キッドを殺すことに、結果としてブッチは加担させたのだ。ああする以外、方法がなかったとはいえ。
本名を知っていたから、おそらくアトリにとってもビリー・ザ・キッドは【英雄】だったはずだ。
それだけじゃない。
アトリのさっきの一言は、拒絶じゃなくて気遣いだった。ブッチを傷つけないための。
今更ながら、思い出す。確か、涙と血は同じものだったはずだ。ろ過されて赤くなっているかいないかだけで。
――俺は、すぐ傍で泣いているアトリの涙すら拭ってやれねぇのかよ。
不意に、胸襟の奥が激痛を訴える。再現なく膨らむ罪悪感が、鋭利なガラスの刃となって容赦なく突き刺さってきた。
その先には、無力感という猛毒が塗られている。
遅効性らしいそれは、じわじわとブッチを蝕んでいく。
不意に、目の前が真っ黒になりかけた。
自分に対する絶望ではないと、ブッチは信じたかった。
銃声。
呑まれなかったことだけが、ブッチにとって幸運だった。
だけれども――
きゅばっ!
「クソが、ァァア……!」
青仄白の炎が上がる。胸を撃ち抜かれ、死から【再生】する際の。
倒れなかっただけ、ラッキーだったと思うしかない。
思考に沈みすぎていたせいか、教会から出ていたことに気づけなかった。
出た先に待ち構えていた存在のことも。
背後には、今なお燃え盛る終わった戦場。歩み行こうとする前方には――
「なんで、てめぇッ……生きて、いやがるってんだよ。
チャーリー・シリンゴ……!!」
「マックス?」
作業の手を止め、ケサダはマックスの方を見る。
「一体、どうしたってんだい、マックス?」
一緒に来たウェルシュ・コーギー犬は牙をむき、そのヴヴヴヴッ! あるいはガヴヴヴッ! という獰猛な唸り声を発していた。
何は分からない。けれど何か危険なものを察した、その瞬間――
銃声。
一発の銃声が、カマロンの町の夜の闇を引き裂いた。
必然的に、ケサダはその方向を睨む。なにか、よからぬものを感じ取ったからだ。
実を言うと、銃声は作業中ずっと耳にしていたし、異様な爆発音も聞いていた。
気にかけなかったのは、無視していたからだ。ただ、作業に集中したかったからだ。
そうしないと、あれらが起こすことに巻き込まれて大変なことになる。自分だけならともかく、一緒にいるマックスや別場所で同じく作業中のエメさんが。
だけれども、今の銃声は――!
「一つの大きな物語が終わろうとする時、嵐ってのは来るんだよ……ばかでかいのが、必ずね」
不意に、エメさんの言葉を思い出す。
あれは、お嬢さんが新しく生まれ変わることへの祝福だった――はず。
だけどもし、受け取り方を変えてしまえば、不吉な文言になる。
杞憂であってほしいと、ケサダは思わざるをえなかった。
東の空を見る。夜明けはまだ来ない。まだずっと遠い。
「何度も言わせるな、ブッチ」
得物のウィンチェスターM1873を構えつつ、シリンゴは言い放つ。
「どこまでも追い、軛にかけ、その死に様を見届けてやるまで、たとえ天命を終えていようとも、僕はひた走り続け、引き金を引き続けるつもりですよ」
「たとえ亡霊に成り果てようが、追いかけてくるってか? そのご執念、ご立派なことですなぁ。お仕事熱心も大概にしとけや。そんなんだから結婚する都度毎回毎回奥さんに逃げられて、不名誉なバツばっか増えてくんじゃねぇの?」
「やかましい!」
ブッチの揶揄を、シリンゴは罵声で叩き潰す。
「お前にだけは、そういうことを言われたくないな! 亡霊以前に【不死者】などに成り果てた、今のお前にだけは!」
「ッ!?」
図らずも動揺せざるをえなかった。よもや、シリンゴの口から【不死者】という言葉が飛び出すとはとても思えなかったからだ。
「ァー……悪ぃけど、俺ぁ学校マトモに行ってねぇんだよ。だから、シリンゴ先生がおっしゃられるそーゆー難しいこと、全ッ然分からないんですどー?」
「シラを切るのも大概にしろ! いっそのこと銃弾に詳細を全部刻んで、そのふざけた思考に直接教え込んでやりましょうか!? 【不死者】ブッチ・キャシディ!」
浴びせられた罵声に、ブッチは思わず黙りこむ。【不死者】であることは、最早隠しようがない。
シリンゴの行動は、実に合理的だった。
【再生】の際の炎を引きずり出すことにより、ブッチが【不死者】であることを外ならぬ自分の眼で確認したのだから。一撃でその命を奪える箇所に向け、銃弾を放つことで。
「答えてもらいましょうか、お前は一体いつから【不死者】だった?」
「…………」
「【不死者】であったから、ボリビアの地で死ぬことなく生き延びたのか?」
「…………」
「そもそもの話、どうやって【不死者】に成り果てた?」
「…………」
「答えろッ!」
「誰が答えるか!」
「そうですか、ならば……」
シリンゴは、得物の狙いを少しだけずらす。
意味することがなんであるのかを知ったブッチは、思わず叫びかけた。
銃声。
放たれたそれは、目の前の地面を抉っていた。
アトリの目の前、ブーツのつま先ぎりぎりの位置を。
「てめッ!」
「ならば、お前の連れ添いに答えてもらうしかないですね」
「お前……まさかッ!?」
狙いは、アトリの眉間に定められている。
「では、代わりに答えてもらいましょうか。【不死者】ブッチ・キャシディに連れ添う者。ブッチ・キャシディは、ボリビアの地を踏む前より【不死者】だったのか否か。
そして……!
かつて【ワイルドバンチ強盗団】を率いた無法者、ブッチ・キャシディと共に在り続けているお前は、一体、何者……なのだ!?」
ところで、シリンゴはあの状況をどうやって生き残ったのだろう?
普通に考えれば、胸に銃弾が命中すれば誰だって死ぬ。【不死者】という例外を除けば。
だけどシリンゴは【不死者】ではないただの人間だ。普通に考えれば、死んでいなければおかしい。
じゃあ、どうやって?
簡単な話だ。あの時、銃弾がシリンゴに直接命中していなかっただけだ。
シリンゴの胸に確かに命中していたとしても、そこにあったもの――ジャケットの胸ポケットに偶然入っていたあるものに阻まれたのだ。
そのあるものとは、懐中時計の留の部分、盾のチャームである。
【ピンカートン探偵社】の一員であり、無法者の敵対者であることの証明が、死の速度を纏った銃弾を受け止めて、シリンゴの命を救ってくれたのだ。
はっきり言って、奇跡である。もしそこに何も入っていなかったら、入っていたとしてもあとほんの僅かずれていれば、冗談抜きにシリンゴは死んでいたのだから。
ちなみに、この奇跡とやら――胸ポケットにある程度硬度と厚みがあるもの――たとえば、懐中時計とかペンダントロケットが入っていて、銃弾がそこに当たって受け止められて助かるっていうのは、シリンゴがそもそも知り得ぬ【異世界】では西部劇だけでなく、アニメやラノベでもよく扱われるネタである。
俗に言う「コイツが敵の銃弾を受け止めてくれなかったら、俺は死んでいた」だ。
だけどこれ、偶然であれ本当に起こりうることらしい。
シリンゴが知ることのないその【異世界】における西部劇のある作品で、主人公が胸ポケットに入れていたお守りの銀貨に銃弾が偶然命中し、受け止めてくれたことで命が救われたっていうのがある。
それを観た熱心なファンがこのシーンを再現したところ、なんと、本当に銃弾を受け止めることができたという話があったりするのだ。
実験の結果だけを信じるのであれば、ある程度距離が絶対に必要になるけれども、五百円玉くらいの硬度と厚みがあるものに運よく当たってくれれば、銃弾を受け止めることは可能であるらしい。
なにはともあれ、シリンゴは奇跡的に助かった。
とはいえ、助かったのは命だけだ。防げたのはあくまでも着弾だけで、それに伴う衝撃を防ぐことができなかった。おかげで、一時的にだが意識を失う羽目になってしまった。
「奇跡じゃよ、本当に」
元気付けのテキーラをシリンゴに渡しながら医者は言う。
「あんた、余程運がいいんじゃな」
「実力に運が並走してくれているだけですよ」
「へッ! よく言うわい」
「それ故、死ななくてすみましたよ」
「死ななくてすんだだけじゃ。肋骨は何本かイっとるぞ」
「だとしても、儲けものですよ。無法者が放つ銃声の代価に、こちらの命を払わずに済んだのですから。それ以前の話、【ピンカートン探偵社】の名と象徴を、無法者ごときに簡単に吹っ飛ばされてたまります、かッ……ァ」
そう言い放った直後、シリンゴはむせた。気をふと抜いてしまった今、胸部で突然、痛みが暴れだしたからだ。
「言っておくが、しばらくは絶対安静じゃ」
そんなこと、分かっている。自分の身体なのだから。【ピンカートン探偵社】の探偵として食べていく上で、一番の資本は自分自身の身体なのだから。
けれどはっきり言って、これはちょっとやばいかもしれない。呼吸をする都度肺がぎりぎり傷むし、気管に変な熱を感じるし、呼吸からは血のにおいと味がする。
とりあえず、【ケルビム】と接触しなければならないだろう。
悔しいが、分かっている。【コードÀ】――【不死者】の出現への対処に、こんなザマでしかも一人で当たることなどできやしない。
ブッチ・キャシディにだって。
事が事だから、応援――否、交代要員として他の探偵が大至急寄こされるはずだ。
そうなれば、あとはその探偵が万事解決するだろう。
【ピンカートン探偵社】のうちの探偵の誰かが、シリンゴがもたらす情報を元にこの件を引き継ぎ、うまく立ち回り、うまく解決へと向かっていくはずだろう。
今度こそ、【ワイルドバンチ強盗団】の首魁を軛にかけることができる。
【ピンカートン探偵社】の悲願が叶う、【ピンカートン探偵社】がその悲願を叶えられる。
ガキの使いみたく、つまらない案件のついでで。
「ふざけんじゃ、ねぇ……!」
故に、シリンゴはここにいる。
ブッチの前に立ち塞がり、ウィンチェスターM1873を構える。
しかし、銃口の先に立つのは、照準を定める相手は、それ以上に厄介な相手。
【ピンカートン探偵社】の探偵が総がかりになってもその存在を感じ取ることすらできなかった、【ワイルドバンチ強盗団】の主幹メンバーの十人目。
おそらくブッチに最も近き存在。ボリビアの地まで――否、もしかすれば、更なるその先を目指し征こうとしたかもしれない者。
他の誰よりも深い結びつきを持った、唯一無二の相棒。
シリンゴは、今、誤解に至っていた。
かつての【英雄】を斃した先、待ち構えていたのは、現在の最悪。
そいつは、あろうことか撃ってきやがった。
銃声。脅しで、アトリを。
銃声。その前に、ブッチを。
三度目の銃声は、まだだ。
けれどもそれは、そう時を経ないうちに放たれる。
ブッチだけでなく、アトリをも軛にかけるためのものが。
完全に、詰んだ。
否。
「探偵ごときがッ、俺たちに問うか!?」
「!!?」
我が耳を疑う。あまりのことに口がきけなくなる。
はっきり言って、背後から突然撃たれるより余程効果がある。
正直、否定したかった。今起こっていることは、全部虚構だと。
ブッチの許にいるのは、ただの少女だったはずだ。それが無法者として立ち上がったのだ。
そして、無法者そのものの言葉を放つ。立ち塞がる敵対者に対して。
ブッチは混乱し思考が迷路に囚われる。
それ故、問いただすための言葉を見失う。
アトリ、お前、一体、なにを考えている!?
当の本人は、自嘲していた。一体、わたしはなにを考えているんでしょうね、と。
だって、アトリは無意識のうちに叫んでいたのだから。
「探偵ごときがッ、俺たちに問うか!?」
ああ、これは――西部劇の無法者が敵対者に叩きつける言葉そのものだ。
退路への三行半そのものだ。
これで、助命を乞うことは出来なくなった。誤解を解くための方便も、使えなくなってしまった。
もう、戻れないし、戻ることもできない。前に進むしかない、進む他ない。
アトリには、もう――明日なんて喪い。