Chapter 5
不安そうにいななき、気をつかって速度を落とそうとしたクラレントに、アトリは「……大丈夫」と返す。
でも、本当は全然大丈夫なんかじゃない。身体の感覚が、どこかおかしい。なんていうか、無性に軽い。
勿論、それが誤った認識であるってことぐらい分かっている。
肩の傷、これから成さねばならぬこと、死地へと向かう恐怖。
アトリが背負うものらは、想像を超える重みしかもたらしてくれないはず――なのに、それを感じることは一切ない。心身共に、自分でもびっくりするぐらい、すっきりしていた。
ずっとびくびくしながら生きていた。周りをじっと窺って、どうしたら誰もが満足してくれる正しいはずの結果が出せるのかだけを、ただひたすら思考して。
テストである程度点数を稼げば先生は満足してくれたし、慇懃に振る舞えば交流関係はとりあえずであっても築けた。
言われるがまま察するがまま、周囲にただひたすら合わせていけばいい。自分の気持ちなんて全部後回しにして、胸中にきちんとしまっておけば、「それでいいんだ」って曖昧な笑顔で言ってもらえるし、多分一応でしかなくったって、仲間・友人・隣人として認めてもらえる。
それが正しい人生であるはずだ――秩序に忠誠をただひたすら誓って生きて、人生ってこんなものなんだ、で終わっていくだけの。
それでいいはずだって思っていた――ブッチと出会う、前までは。
己が力と自由を法とする無法者である前に、ブッチは義理を重んじ建前より信念に忠実に生きる、一人の大人の男だった。
だけど、どうしようもなく不器用なところもある。
保身に走らないところとか、嘘をつかないところとか。
だってあの時、ブッチはアトリを選んでくれなかった。だからって、ザ・サンダンス・キッドを選ぶこともなかった。
きっと、かつての存在であるザ・サンダンス・キッドと現在の連れであるアトリの間で板挟みになっていたに違いない。
そうでなければ、いくらでも自己弁護できただろう。言葉巧みに上手いこと丸め込んでアトリを納得させることぐらい、やろうと思えば出来たはずだ。
心からの謝罪を、形にして残さなかったはずだ。死地にだって、向かわなかったはずだ。
「……わたしって、すごく……嫌な人間だったんですね」
馬上で、一人、ごちる。だけどそれは、後悔と自己憐憫じゃない。
訣別だ。
なにもできないと思っていた、なにもできないと感じていた――なにもできないと信じたかった、浅倉アトリという少女への――ただ一人の少女でしかありえなかった【存在】への。
瞬間、身体にふっ、と重さが戻る。だがそれは、アトリを押し潰す軛になることはなかった。
するり、と――身体が、なにか纏ったような気がした。
「クラレント!」
呼応するかのように、クラレントは走る。
アトリにとって、それは、おとぎ話に登場する騎士を守る鎧であり、天使が宙空を飛翔するための翼であり――決戦の地を目指し、終焉へと去り往く定めを背負う西部劇のガンマンが戦装束のように纏うダスターコートであった。
だけど、分かっている。それが、都合のいい幻覚ってことぐらい。
目を閉じて、意識する。形のない重さは、丁度アトリの腰のあたりで、形のある重さとなる。
意識を現実にちゃんと向ければ、そこに銃が在る。
アトリが得た、牙であり爪――相手に死をもたらす、獰猛な鋼の武器が。
馬蹄が夜闇を引き裂き、轟く。
アトリは、ブッチの許へ征く。
そして、【不死者】キエン・エスを――【英雄】ビリー・ザ・キッドを、殺しに行く。
本名、ウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニア。
敬称、ビリート・ウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニア。
冠する異名は【少年悪漢王】。
それが彼だ。時のアメリカ西部開拓時代に実在し、その名を馳せた無法者が一人、ビリー・ザ・キッドだ。
はっきり言って、メジャーもいいところの人物である。
ガンマンの代名詞、ガンマンといえばビリー・ザ・キッド、ビリー・ザ・キッドといえばガンマンってくらい。
西部劇ではよく題材にされ、数多くの往年の名優たちが演じたことで有名な人物だ。
だけれども、西部開拓時代をそもそも知らない、そもそも西部劇なんて観たこともないって人の方が、実はその名をよく知っているのではないだろうか。度々、アニメや漫画やラノベのキャラクターのモチーフとしてネタにされていたりするし。
最近じゃ、過去の英雄・英霊たちを召喚してバトルするっていう人気スマートフォン向けゲームにも登場したっけ。
特筆すべきは、若くして天才ガンマンの称号を手にしたことだろう。早撃ちの射撃技巧であれば、西部開拓時代最高といっても過言なかったっていうし。
されど、そんな伝説もやがて終焉する時が来る。
一八八一年、二十一歳の時、逃亡先の隠れ家で暗殺されるのだ。
と、これがアトリが元在た世界における、ビリー・ザ・キッドの最期であったとされている。
【生存説】があるから、「これが絶対確かな真相だ!」とはいえないのだけれども。
「……だけれども、【異世界】では、死んだわけじゃなかった。……【不死者】に成り果て、生きていた」
「【異世界】じゃ、どう、か知らねェ、けどよ……貴殿、は死んでなんざ、いなかっ、た。【不死者】に成り果て、生きて、いた」
ブッチが知るビリー・ザ・キッドは、実在の人物である。
かつて新大陸に実在した無法者、【少年悪漢王】の異名を持つ【英雄】。
その存在は、ガンマンの代名詞そのものだ。
早撃ち、射撃の名手、決闘者という言葉は、ビリー・ザ・キッドのために存在していると言っても過言ではないくらい。
いや、【英雄】そのものと言ってもいいかもしれない。本名の一部であるウィリアムは、旧大陸の古語で【英雄】を意味する言葉なのだから。
「ンでもって……得体の、知れ、ネェ、殺人鬼に、堕ちていた」
否。
ブッチは察する。ビリー・ザ・キッドは【不死者】に成り果て、死んだのだ。
望まぬ【不死者】としての生を押し付けられて。かけがえのない【存在】を喪わされて。
そもそも、理不尽の度を超越しすぎている。
「つーかよ……虚構にさせられたヤツ、貴殿を【不死者】に成り果てさせた元凶、ってのは、貴殿を殺した奴なんじゃねぇ、のか?」
否。
アトリは察する。ビリー・ザ・キッドは【不死者】に成り果て、壊れたのだ。
望まぬ【不死者】としての生を押し付けられて。かけがえのない【存在】を喪わされて。
むしろ、マトモでいろっていう方が残酷でしかありえない。
「……パット・ギャレットですよ」
アトリは断言する。それは、ある人物の名だ。
ビリー・ザ・キッドの暗殺実行犯の名だ。
この【異世界】において、ビリー・ザ・キッドが【不死者】に成り果てる要因、【存在】が虚構にされたであろう人物の名だ。
「……キエン・エスって、そもそも名前じゃないんですよ。……パット・ギャレットに向けて発せられた、最後の言葉だったんですよ」
Quen Es――それは、「お前は誰だ?」を意味する、スペイン語だ。
諸説は色々ある。突然の闇討ちに対して反射的に発したとか、夜盲を患っていた時の突然の襲撃に驚いて発したものだとか。
「……それ以前に、常識的に考えれば、最初から気付けるはずだったんですよ」
よくよく考えてみれば、常識以前の問題だ。あの夜だってそうだ。ブッチを問答無用で撃ち殺していたじゃないか。ドア越しに、顔を合わせることもせず。
でも、そうでもしなきゃ、ブッチを一撃で殺すことなど出来やしなかっただろう。いくら知らなかったとはいえ、ブッチはかつて、新大陸にその名を轟かせた伝説的な無法者だったのだ。殺られようがタダで起きてやるもんかと、殺り返していたじゃないか。
それはともかく、だ。あれって、完全に不意打ちとして成立していると思う。ただ「殺す」ことだけを第一目標とした。
故に、ここで疑問が生じる。
不意打ちで相手を殺すことを目的に動くような奴が、これから殺そうとする奴を相手にわざわざ乗るなんてご丁寧な真似をするだろうか?
この疑問に、ある意味決定打的なものをかけることになる出来事もあった。
ブッチの不在時、ケサダと話した時だ。
「……だとしたら、パット・ギャレットなんてよっぽど慕われてなかったんでしょうね」
無法者ジェシー・ジェイムズを背後から撃って殺したっていうフォード兄弟の話題が出た際、アトリは何気なくこう言った。
だけれども、ケサダはそれに対し、なんて言った?
「なんですかい、そりゃあ?」
パット・ギャレットっていうのは、人名だ。
なのに、ケサダは「誰ですかい」じゃなくて「なんですかい」って返した。
これって、すごくおかしいことじゃないだろうか? パット・ギャレットがどういう人物かどうか知らなくても、あの時のことを思えば流れ的にここは「パット・ギャレットって名前の人物」の話題が振られているってことにならないだろうか?
考えてみてほしい。知らなかったり、はっきり分からなかったりする人物のことを相手に尋ねる場合、普通、「誰」って言わないだろうか?
これと同じようなことが、あの夜も起こっていたとしたらどうだろう?
アトリたちが、相手が名乗りを上げていたって、単に勘違いしていただけだったのなら?
その際使われた言葉が、大陸共通言語っていう言葉以外の、なにか別の言葉――アトリが元いた世界で言うところのスペイン語だったとすれば?
ブッチはボリビアの地で最期を迎えたことになっているはずである。そことアトリが知っている実在のボリビアが同じものか分からないけれど――ボリビアって確か、スペイン語が主に使われている場所じゃなかったっけ。
それ以前の話、アメリカ大陸の最初の入植者たちはスペイン人だったはずだ。
これと同じようなことが、この【異世界】にもあるとしたら、スペインっていう国がこの【異世界】に存在しているかって言われたら――可能性として、有り得るんじゃないだろうか?
ブッチの話を聞く限り、この【異世界】にはアトリが知るような国、イギリスとかロシアみたいな国は存在していないらしい。
だけれども、もしかすれば、イギリスとかロシアという「名前の」国が存在していないってだけなんじゃないだろうか。
文化とか言語はイギリスとかロシアだけど、なにか別の名前で呼ばれているだけとか。例えば、イギリスだったらブリタニアとかキャメロット、ロシアだったらルーシとかキーテジみたいな感じで。
それと同じで、アトリが知る「スペインではあるけれど、スペインという名前ではない」国が存在していたとしたら?
そう考えると、辻褄が合うのだ。だって、ビリー・ザ・キッドが育ったのと主に活動していた場所って、英語よりスペイン語が使われている地域だし。
全部、この【異世界】における事実としてありえないわけじゃない。ただ、アトリが何も知らないだけで、
今思えば、知ったかぶりもいいところだったかもしれない。大体、アトリはこの【異世界】について、全部知り得ているってわけじゃないのだ。ただ、自分が持ち得ていた西部開拓時代と西部劇の知識で勝手に枠を固めて、多分こうなんだろうなって、勝手に思い込んでいただけなのだ。
気付くのがここまで遅れたのは、それだけが理由なんかじゃない。
ただ、信じたくなかっただけなのかもしれなかった。
狂気の殺人鬼キエン・エスの正体が【英雄】ビリー・ザ・キッドだったっていう現実を。
アトリが知るビリー・ザ・キッドは、西部開拓時代と西部劇における【英雄】の一人なのだ。
それがたとえ、虚構であったとしても。
返事の代わりに、軋るような絶叫が迸る。それは、爆発した憎悪そのものだ。
銃など捨ててやる、もう用はない。弾を六発撃ち終えた銃に、他者の命を吹き飛ばす力などないのだから。
耳を引き千切るか、目を抉ってやるかして、戯言をいけしゃあしゃあとほざきやがる口に突っ込んで黙らせてやりたかった。
幸運なことに、ナイフがある。利き手に持ち替え、握る。
更に幸運なことに、相手は動けない。両手をやられ、銃を撃てない。
昏く渇いたどす黒い感情が、背筋を蛆虫の速度で這い登っていく。
憎悪に塗れたおぞましい悦びだ。だが、キエン・エスには心地いいものでしかない。
悲願がようやく叶うのだ。かつての彼を暗殺し、【不死者】に貶めた真犯人への報復が。
羊や豚を殺すより、ずっと面白く殺してやる。
いたぶっていたぶり尽くて、拷問して拷問し尽くして、責め苛んで責め苛み尽くして、凌虐して陵虐し尽くして――そして、嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り嬲り殺し尽くしてやる。
知り得る地獄という地獄を。全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部――叩き込んでやる!
嬲り殺しに――とはいっても、【不死者】であるため殺されて死ねない不運な運命にある相手が、その鬼気に慄くように身じろいだ。
まずは、その目を片方抉ってやろう。【再生】すれば、幾度でも。
そして、残る方の目で、耳を、鼻を、唇を、指を、歯を落とされるのをじっくり見るがいい。頭皮をはぎ取られ、性器を落とされるのも。
憎悪と狂気の赴くまま、キエン・エスはブッチにナイフを振り下――