Chapter 4
黒く、そして、果てのない昏さを湛えた闇の中を、キエン・エスは漂っていた。
唐突に、一つの光景が映し出される。
あの夜、忘れもしないあの夜――かつての彼の最期の時が、より鮮明なものとなって蘇る。
俺は、寝室を出て歩いていた。
無性に腹が減っていたからだ。外にジャーキーの塊が吊るしてあったことを思い出して、切って食おうと思ったからだ。
何故その時、気付いてやれなかったのだろう。台所へ向かう途中に、ピートの部屋があったんだ。俺を心から慕ってくれた、協力者の一人だ。
その部屋で、ピートはきっと拳と罵声で詰問されていたはずだ。俺はどこだと。
追っ手として放たれた、俺の親友であった保安官――ギャレットに。
俺の手にはナイフがあったんだ。相手を殺すための得物は、銃でなくてもよかったんだ。
早撃ちと同時に、俺は不意打ちも得意だったじゃないか。数多くの敵を、俺はそうやって倒しきたんだから。
異変に気付いたのは、寝室に戻る途中だった。ピートの部屋のドアが開いていた。
ランプが消えた部屋の中からは、ピート以外の誰かの気配がした――誰かってのは、ギャレットのことだったんだけどな。
今となっては確かめる術はないが、ギャレットが放った銃声と俺の言葉、一体どっちが早かったのだろう。
「キエン・エス!?」
「キエン・エス!?」
「お前は誰だ!?」
俺を殺そうとするお前は、誰だ!?
いや――そうじゃない!
なんでお前が俺を殺すんだ。
そして――俺を殺したお前は、一体どこに消えた。
答えろ、ギャレット! パット・ギャレット!
……いや、待て。
俺を殺したのは、本当にギャレットだったのか?
あの時、ピートの家は真っ暗だった。ランプの灯はなかった。
唐突に、場面が巻き戻る。
一つの光景が映し出される。
これは――そうだ、あの夜だ。忘れもしないあの夜だ、俺の最期の時だ。
ピートの部屋のドアが開いている。ランプが消えているはずだった部屋の中からは、ピートとピート以外の誰かの気配がした。
誰かってのは、誰だ?
決まっている。俺を殺しやがった真犯人だ。
「お前は誰だ!?」
俺は、ドアを破らんばかりの勢いで開き、叫ぶ。
その先に、真犯人が立っていた。
ソイツの顔に、憶えがある。ソイツは――ブッチ・キャシディだった。
青鋼色の目が嘲笑の色に輝く。手には銃。
銃声が轟く。
「……なァ、キッド。俺は……」
聴覚ではなく、意識が直に、ブッチ・キャシディの声を捉える。
コイツは、俺の名を知っていやがった! ってことは――なんてことだ、なんで気付かなかったんだ。
俺は、俺を殺した真犯人を、無意識のうちに追っていたんだ!
キエン・エスは気付いていない。
なんの因果か重なってしまった偶然によって、ミスリードへと誘い込まれていたなど。
されど、そうして得てしまった間違いは大いなる啓示でしかありえなかった。
でも何故、キエン・エスはこのような間違いを得てしまったのだろう?
あくまで可能性としての話だが――脳幹に受けた著しいダメージが、キエン・エスの脳の記憶領域に、なんらかのバグを生じさせたのかもしれない。
否定したい過去の存在が現在固執する存在に置き換えられてしまうという、バグを。
もちろん、当のキエン・エスがそれに気付くことはない。
全てを誤解しきってしまったキエン・エスは、咆哮する。
咆哮は竜巻のごとく荒れ狂い、キエン・エスの意識を沈めていたものを粉砕した。
背を毒蜘蛛が這い登っていくような怖気を感じる――が、遅かった。
止めを刺したはずの、確実に死んだはずのキエン・エスの眼が、かっ! と開く。
「まずは、撃鉄をハーフコックに。そして、弾倉を上に向け、フラスコの注ぎ口から薬室に火薬を詰めやす」
「……まず、ハーフコック――撃鉄を半分だけ起こした状態にし、銃口を上に向けて……弾倉――銃の真ん中に位置する円筒部分に開いた穴に、フラスコ――火薬入れの口を差しこんで、火薬を詰める……」
「その上に、弾を入れやす。それから、このローディング・レバーで弾を奥に、こう、ぐっ……とやります。その際、グリースを塗ることを忘れちゃいけませんぜ。チェーン・ファイアが起こりやすからね」
「……火薬を詰めた後に、弾を入れ……ローディング・レバー――銃身の下の棒状の部品を押し下げ、梃子の原理で弾を弾倉に押し込む。……その際、グリース――このちょっと黄ばんだ白いねばねばの脂を塗るのを絶対に忘れてはいけない。……撃った時に、チェーン・ファイア――他の穴に詰めた火薬に飛び火するのが起こらないようにするために」
「そして、雷管です。最後にこいつを、ニップルに被せやす」
「……雷管――銅で出来た小さな蓋状のものを、ニップル――弾倉の後ろにある穴に被せる」
「これで、準備は完了です」
「……これで、撃てるんですね」
ケサダが見せる手本を、アトリは食い入るように見つめていた。
用語は、それが銃のどの部分で、どんな状態をしている意味なのか、言われれば大体分かる。
たとえそれが、初めて見る実物であったとしても。
西部劇を観るだけじゃ飽き足らず、西部劇を読み込むことを謳った読本やDVDのオマケにいてくるガイドブックの知識が、まさかこんなところで役に立ってしまうとは。
「さぁ、お嬢さん、やってみてくだせぇ」
どうやら、チュートリアルはここまでらしい。
頷くと、アトリは差し出されたコルトM1851を受け取る。ずしりとした重さが手にかかってくる。
ふと、思い出す。この銃の平均的な重量って、大体一一〇〇グラムじゃなかったっけ?
なにかに例えるなら、その重さは大体電話帳一冊分ぐらいだ。正直、両手でずっと持ち続けるのはしんどい重さである。
しかし、話はそれ以前だ。
手に取ってみて、初めて分かったことがある。コルトM1851って銃、でかすぎやしないだろうか?
でも、考えてみれば無理もない話だ。
第一、アトリは、クリント・イーストウッドでもスティーヴ・マックイーンでもチャールズ・ブロンソンでもフランコ・ネロでもないのだ。
往年の西部劇スターで見た感じすんげぇガタイのいいおっさんである彼らが手にしてもなおごつく見える代物が、普通の日本人のJKでしかありえなかったアトリの手にぴったりと合うなんてありえない。
「……今更ですけど、みんな偉大なお方だったのですね」
なんとなくごちると、アトリは作業に取り掛かった。
撃鉄を完全に起こさない程度起こし、銃口を上に向ける。
次に、銃の真ん中に位置する弾倉の穴にナスみたいな形をした金属製の火薬入れ――フラスコの口を差しこみ、火薬を適量詰める。
それから、小さな球形の弾を入れ――る前、ふと、作業の手を止める。
おもむろに、纏っていたボロ布とジャケットを脱いだ。
唖然とするケサダとエメさんを余所に、下に着ていたシャツをはだけると、肩を覆っていた包帯を破る。
そうして露わになった傷口に、これから込めるものをぐっと押し付けた。
きゅばっ!
青仄白の炎が、噴き上がる。
それは炎幕となり、ブッチの視界を遮る。
怯みかけていた隙に、キエン・エスは立ち上がっていた。その手には、先程止めを刺された際に生やされたナイフが、既にある。瞬時に間合いを詰められ、鋼の輝きが一閃。
バックステップを踏んで、ブッチはそれを、振るわれたナイフの一撃を回避――出来ない!
ナイフの刃が、ブッチの喉頸をざっくりと抉る。
不意打ちで食らった衝撃に、たたらを踏むも、しかし、辛うじて転倒だけは免れた。
青仄白の炎は、噴き上がらない。どうやら、動脈に当たらなかったようだ。
だが、状況はブッチを地獄に突き落とすこととなる。
「……!?」
異変に、気付く。
今、悪態を発しかけたはずだった。なのに、言葉にならなかった。発したはずのものは、びょぅうっ、という奇妙な異音にしかならなかった。
キエン・エスが振るったナイフが抉ったのは、咽喉仏だった。人体構造上、声帯の機能に直結するものだ。そこを、ナイフで思い切りざっくりとやられるってことは――
キエン・エスはそのまま、ナイフを投げ捨てた。
そして、空いた利き手でブッチの右手首を引っ掴み――そのまま、握り砕く。
「……!!」
声帯をやられていたおかげで、苦鳴が生成されることはなかったが、ブッチからは声にならない苦鳴が上がる。
肉体的に受けたものより、心神的に受けた方が勝っていた。【不死者】としていくらでも代わりがきく命ではなく、ガンマンとしての命を吹っ飛ばされたのだから。
ある程度時間が経過すれば【再生】することは可能だろう。ただ、外見はともかく、元通りきちんと動いてくれるかどうか。
そんな危惧を覚える直前、視界がいきなり反転。
続いて襲ってきたのは、浮遊感――からの、衝撃。
視界が激痛の赤一色に塗りつぶされる。襲ってきた衝撃で我が身が砕けなかったのが、いっそ不思議だった。ただ投げ飛ばされただけだっていうのに、身体中が悲鳴を上げまくっている。
落下の余波を受けてもうもうと舞う埃と木屑に、ブッチは思わず咳き込んだ。
直後、銃声。
銃声、銃声、銃声。
放たれた銃弾は、倒れたブッチの身体を容赦なく食い破る。
視界の先に、キエン・エスが立っていた。
構えているのは、見覚えのある銃だ。
ブッチが携えていた得物だった。
ブッチが取り落とした銃を、キエン・エスは拾い上げた。
奇妙な形状の銃だ。全体的に角張っている。それに、やたらと軽い。
触れて調べてみる。ダブルアクション式だ。コルトM1877・ライトニングと同じ作動機構だ。
放たれた銃声の数は、きちんと記憶している。あと、四発撃てる。
キエン・エスは鹵獲品のそれを携え、歩む。
もうもうと舞う埃と木屑の向こうに向け、引き金を引く――引く、引く、引く。
銃声。
銃声、銃声、銃声。
着弾の衝撃に、呼吸が詰まる。意識が、吹き飛びかける。
反撃しなければ、やられる。
外見は既に元通りだ。だが、感覚は完全に壊れきっている。
S&W モデル3スコフィールドをオシャカにした時とは、比べようがなかった。最早、銃を撃つことなど出来やしないだろう。
咄嗟に、もう一方の得物を抜く――こともできない。
キエン・エスが放った銃弾は、ブッチの左手の人差し指と中指を吹っ飛ばしていた。
完全に、終わりだ。この状況だけでなく、ブッチの無法者どころか、ガンマンとしての人生すらも。
それ以前の話、今の今までもってくれたのが不思議なくらいだった。
【不死者殺し】を受けて負った【再生】不可能なダメージを切り離すべく、文字通り腕を斧で斬り放してきたのだが、どうやら徒労だったようだ。
無理であったかもしれないが、それでもなんとか押し通そうとしたのに。
きゅばっ! という青仄白の炎が上がる音。それは、どこか遠くから聞こえる。
激痛のせいか赤く霞む視界に、キエン・エスが立っていた。
狂気に加え、その双眸は憎悪に濁りきっている。
僅かに開いた唇の間からは、なんの意味もなさない異様な唸りがびょうびょうと洩れている。
おそらく、もう、言葉すら必要なくなってしまったのだろう。
今だからこそ、ブッチは思わざるをえない。彼もまた、【不死者】へと成り果てたのだ。大切でかけがえのない【存在】を、失って。そしておそらく、このように狂う道しか残されていなかったに違いない。
第一、正気でいられるわけなんてない。狂わなければ、狂ってしまわなければ、果てのない絶望に打ちひしがれ続けるだけ。それこそ、永遠に。
残酷もいいところだ。理由も分らずに押し付けられたものを大人しく受取り、理由も分らずに生きていかなければいけないなんて。
孤独は、己が魂を、破壊するというのに。
「無……様、じゃなく、て……よ。逆に、憐れ、で……しかあ、りえね、ぇって、ば……ね。マ、ジ……でよ」
故に、そんな彼に憐みを抱く。
「けど、よ……。ア、ンタ……いや、貴殿は、一つ……だけ、運がいい、かもしれねぇ……な。なに、せ……アイツ、は……アトリは、貴殿、のことを……【異世界】に、おいてし……か、知らねぇ、ハズなん、だか、らよ」
ブッチは言う。今や立ち上がることすらままならぬおかげで、弱々しく途切れがちだったけれど、これだけは言っておかないとどうあったって後悔する。
「多、分だ……けど、よ。アトリ……の奴、は……貴殿のこ、とを、きち……んと、知ってく、れていた、ぜ? 悔しい、けど、よ……貴殿、の名、は……同じ【キッド】で、あって、も……有名、すぎる、にもほど、があるん、だよ……なァ。【異世界】に、おいて、も……おそら、くなァ。ザ・サンダンス・キッドより……ずっ、とずっ、と」
キエン・エスは答えない。ただ、狂気と憎悪に濁りきってしまった目に、ブッチを映しているだけ。
おそらく、欠けてしまった誰かの【存在】の上に、どういうわけか上書きして。
「けど、よ……実際、そう、なんだぜ?【英雄】たる、貴殿の名って、いうのは。
ビリート=ウィリアム・ヘンリー・マッカーティ・ジュニアの、名は」
キエン・エスの視線が、僅かに、揺らぐ。もしかすればそれは、【英雄】として謳われていたかつての彼の残滓が反応したものだったのかもしれない。
「それとも……【英雄】、として謳われ、る通り、かつての名を呼ばれ、ることを望むか?
真実と経歴《Truth and History》。
二十一人を殺した《21 Men》。
【少年悪漢王《The Boy Bandit King》】
彼は彼らしく生きて死んだ《He Died As He Lived》。
それが、貴殿だ。そう、だよなァ?
【英雄】ビリー・ザ・キッド」