Chapter 3
それを目にした瞬間、ブッチは思わず目を疑った。
どういう反応の起こしようもなかったから。
どうすればいいのか、分からなかったから。
アトリに何をしてやればいいのか、ブッチには分かりようなんてなかったのだから。
ばぎぃッ! というその異音は、そう対して大きいものではなかったはずだ。
けれども、ブッチの聴覚はしっかりと捉えていた。
異常を知らせる音と言い表すにはあまりにも不吉なものでしかなかった。まるで、嬲り殺しにされる女の悲鳴を間近で聞かされたようだったから。
胸騒ぎを覚えるより早く、ブッチは行動を起こしていた。
背後の扉に駆け寄る。よく見れば、きちんと閉めていたはずの扉がほんの僅か開いていた。
勢いよく開いた先にいたのは――
「アトリ……!?」
扉の先にいたのはアトリだ。
だけれども――
「アトリ、お前……」
そのアトリを、ブッチは知らなかった。
否、知っていたら逆におかしい。
その歳に似合わずひどくやつれ、傷つききってしまっている、一人の少女の姿など。
「一体、どうしたんだ?」と、声をかけることができなかった。
絶句するしかなかったからだ。それほどまでに、衝撃を受けるものでしかない存在でしかなかったのだ。
ただただ、涙を流し続けるアトリの姿っていうのは、受け入れざる存在、眼にするだけで絶句するしかない存在でしか。
けれども、よくよく思い返せば、ブッチはそれだけのことをアトリにしてしまったのだ。
「アトリ」
「…………」
「そこで、聞いていたってのか? 話を、聞いていたってのか?」
「…………」
「違うんだ……これは。違うってんだよ、アトリ。誤解させちまったかもしれねぇけど、違うんだ」
「…………」
「アトリ、俺は……そういうつもりで、言ったんじゃねぇんだ。お前がどうのこうのってつもりで、俺は言ったんじゃねぇってんだ」
「…………」
「俺は、ただ」
「…………」
「ただ、俺は」
「……ザ・サンダンス・キッドのことを、思えばこそ……言えることなんですよね」
「…………」
「……そう、ですよね。……ブッチさんがあくまで大切なのは、ザ・サンダンス・キッド……なんですよね」
「…………」
「……そう、なんです、よね。……ブッチさんがあくまで大事なのは、ザ・サンダンス・キッド……でしかないんですよね」
「…………」
「……そう、でしかないはずなんです、よね。……ブッチさんがあくまで大切で大事でしかないのは、ザ・サンダンス・キッド……だけでしかないはず、なんですよね」
絶句するブッチを前に、淡々と、アトリは言う。
涙を零しながら、淡々と。しかし、声を震わせることなく。
頬を涙で濡らしながら、しかし、声を不毛の荒野みたく乾かして。
その言葉は、ブッチに対する呪詛だ。
「アトリ、お前……」
「……そんなこと、そんなことぐらい、わたしは、わたしにだって、分かってるんですよ……でも!」
瞬間、アトリの吐く声が、熱りを帯びる。
「じゃあ、わたしは、一体、なんですか? わたしは、なんだっていうんですか? ブッチさんの記憶の中にザ・サンダンス・キッドが存在していなきゃ、わたしなんて……わたしなんて、必要もなにもないじゃないですか!」
声は、どす赤い憤怒に染まっていた。
「わたしなんて、ブッチさんにとって、必要な存在でもなんでもないじゃないですか! わたしなんて、ブッチさんにとってみれば【異世界】ってものに関しての、興味本位ぐらいにしかならない、役立たずの変な知識を持っているってだけの!」
「…………」
「どうせ、わたしなんて、ブッチさんにとって都合のいい存在じゃないですか! それ以外じゃ、わたしなんてどうせ、ただうるさい能無しの、足手まといにしかすぎないじゃないですか!」
「落ち着けってばね、アトリ」
「わたしなんて、どうせ、ブッチさんにしてみれば、ある程度の利用価値があるってだけなんでしょう! 必要なくなったらハイさようならって放ったらかしにできるみたいな!」
「アトリ、お前、少し落ち着けってばね」
「実際、そうでじゃないですかっ! どうせ……どうせ、わたしなんて、わたしなんて」
「だから、少し落ち着けって!」
「落ち着けるわけなんて、ないじゃないですかっ!!」
宥めようとしたブッチの言葉が、アトリに届くことはなかった。
逆に、ガソリンを投げ入れる羽目になる。
アトリが帯びる熱りと憤怒の炎に。
「わたしは、そもそも、落ち着いてなんていないんですよっ!」
「アトリ、お前、なにを言って……」
「落ち着けるわけなんてないって言っているんです! そもそも、一体、どこで落ち着けばいいっていうんですか、わたしは!? 【異世界】でブッチさん以外の誰も知らないっていうわたしが落ち着ける場所なんて、そもそもどこにもないっていうのに!」
喚き散らすアトリを前に、ブッチは戸惑いを隠せない。
声をあまり大きく発さず、表情をあまり変えることもなく、思考をきちんとまとめた上で振る舞いを行う――それが、ブッチが知る限りのアトリであったはず。
「アトリ、お前……」
「……もう、嫌だ……嫌ですよ、こんなの」
やがて、力尽きたように、アトリは言う
「……なんで、【異世界】なんていう知らない場所に来てしまってまで、一人っきりにならなきゃ……独りっきりでいなきゃいけないんですか、わたしは……」
正直、どうすればいいのかわからなかった。
無法者として、【ワイルドバンチ強盗団】の首魁として、ブッチが関わり合いになった人間は様々だ。
単純だったり、魑魅魍魎だったり、一癖も二癖もある連中――どいつもこいつも、渡り合うのに苦労を重ねた。
しかし、アトリはそうではない、そのどれでもない。
ブッチが今まで関わり合いになった連中とは、全く違う。
ありあまる無法者であれば、ただぶちのめしてやればいい。
敵対者であれば、ナイフや銃弾でブチ殺せばいい。
品の無い娼婦であれば、尻を引っ叩いて追っ払えばいい。
聞き分けのないガキであれば、頭からどやしつけてやればいい。
黙らせたいのなら、そうやって黙らせればいい。
だが、アトリはそのいずれでもない。
そうであってもそうでなくとも、ブッチはどうすることも出来なかった。
第一、寂しい声を泣きながら発する少女に、どうしてやればいいというのだろう?
元凶を作ってしまったのは、ブッチだというのに。
やがて、アトリは袖口で顔を拭う。流した涙を、乱暴に拭い取る。
その際、目が合う。その目に、もう、涙なんてない。
あるのは、虚無。まるで、荒涼とした闇を見ているような。
「……ッ!!」
アトリは、今にもよろけて転びそうになりながらも、その場から逃げ出した。
その途中で、潰れて壊れたお守りを拾うことはしなかった。
ただ、どこかに向かおうともせず、けれどもどこかへ去っていってしまったアトリを、ブッチは見送るだけだった。どうにも出来なかったからだ。
その時、何かが足許を転がるように走り抜けていく。
マックスだった。脇目もふらず、アトリを追う。
しかし、ブッチが動くことはなかった。
むしろ、動くこと自体が出来ないまま、そこに立ちつくすしかなかった。
ブッチが戸惑い、逡巡していた間に、ことは既に終わってしまっていた。
あまりにも呆気なく、唐突に。
「いいんですかい?」
それまで蚊帳の外だったケサダが、重く長い溜息を吐く。
「アタシゃ、あのお嬢さんが首魁にとってどういうお人か知りやせんので、どうとも言えやせんが」
「追いかけて、それで、どうしろってんだ?」
ブッチは、額を押さえた。そうしないと、思考がばらばらにほどけてどうにかなってしまいそうだった。
「追いかけて、それで……どうしてやりゃあいいってんだよ、なぁ?」
「元はといえば首魁が蒔いた種でしょうに。ってか、話はそれ以前ですぜ。「どうしてやりゃあいい?」ってお言いになられる前に、お嬢さんを「どうしてやって」あんな取り返しがつかねぇようにしちまったのは、他ならぬ首魁じゃねぇですか。無責任にも程がありやすぜ。無法者の道義に堅気のお嬢さんを引き込むだけ引き込んでおいて、用無しの用済みって勝手に見なしゃあ、おっ放り出して終わりにしようってのは……許されざることじゃ、ありやせんかね?」
「そうさ、なァ」
自己弁護出来なかった。
実際、ブッチにとってアトリは、布石でしかなかったはずだった。
こことは全く違う【異世界】の知識をうまいこと取り入れて、それを己の知識として使いこなすことで、唯一無二の相棒の【存在】――ザ・サンダンス・キッドを取り戻すためだけの。
なのに、いつの間にか余計な情を擁してしまった。
で、結果的にはこうだ。ブッチはアトリを失ってしまった。
否――この場合、アトリがブッチを失ってしまった、というのが正しい。
絶対の信用を置く存在。縋り頼れる人物。なにより、アトリにとっての【異世界】――どうあったってアトリが部外者にしかなれない孤独の中、唯一得ることが出来た安らぎを、全部。
理由はどうあれ、理不尽に。
どこまでも、手前勝手な理由でもって。
他ならぬブッチが、アトリから強奪したのだから。
我が儘を言ってしまえば、テキーラをジョッキ一杯やりたかった。
摂取したアルコールが、脳内を駆け巡る痛みを沈静化させてくれるだろうから。
痛みのみならず、赫怒さえも。
得体の知れぬ方法を用い、不意打ちをかました上、まんまと逃げおおせてくれやがったブッチ・キャシディへの。
そうすることを許してしまった、自分への。
「それにしても、随分派手にやりましたね」
「無法者の拿捕を、貴婦人の扱いみたく繊細にやれとでも? まぁ、仮に女だとしても、無法者であれば僕は容赦なく手を上げますが」
「容赦ないですね」
「当然でしょう」
部下から渡された気付け薬代わりのブランデーを舐め、シリンゴは言う。
「実際、僕は容赦しませんよ。【山賊女王】ベル・スターだろうが【毒華の舞姫】ローズ・オニール・グリーンハウだろうが、相対するようなことがあれば、鎖骨を叩き砕いてでも拿捕してやる所存です」
「…………」
「なんですか、ワイルド?」
「いえ、別に」
返されたブランデーの小瓶をしまいながら、ワイルドと呼ばれた男――シリンゴの部下の一人は、気まずげに言う。
「流石、シリンゴさんだなーって」
「それより」
シリンゴの視線が向く。
今この場の全員に、駆けつけてきた部下たち、【ピンカートン探偵社】の探偵たちへ。
「なにか、掴むことは出来ましたか?」
「ニーニョとクチーロとサンチョは外れクジを引きました」
「では、お前かブラッキーが?」
「当たりを引いたのは、ブラッキーの方です」
「その肝心のブラッキーは?」
五人だったはずだ。バックアップとして召集をかけた部下たちは。なのに、四人しかこの場に揃っていない。
「ブラッキーの奴、こっぴどくやられちまっていまして」
「と、いうと?」
「ブラッキーの奴、女にのされたんですよ」
「……まさか、娼婦といざこざでも起こして、デリンジャーで撃たれたんじゃないでしょうね?」
「酒場の女将にぶっ飛ばされたんですよ」
ワイルドの後を、ニーニョが引き継ぐ。
「客に失礼をはたらいたからだと聞いてます」
「馬鹿じゃねーノ、ソイツ」
微妙な空気になりかけていた場に、声が滑り込んでくる、彼もしくは彼女である存在の声、肺を毒された老人と舌足らずな童女の声が入り混じった奇妙なそれは――
「【ケルビム】?」
居合わせた全員の視線の先には、プレーリードッグの巣穴サイズの穴。
「失礼するヨ、盛り上がっているところ悪いんだけどヨ、伝えることがあって馳せ参じたヨ」
「出来れば、手短にお願いします」
「ジゃア、手短に済ませるヨ。ブッチ・キャシディの拿捕ハ、今を持って後回しダ」
「なに……!?」
【ケルビム】の言葉は、耳を疑うものだ。ブッチ・キャシディの拿捕は、シリンゴのみならず【ピンカートン探偵社】の長年の悲願であったはず。
それを、後回しにしろだと?
「どういうことですか?」
「発令だヨ、【コード:À】ノ」
瞬間、シリンゴのライトブラウンの双眸が、剣呑なものを帯びる。
「オ前に当たれとのお達しだヨ。コの近くデ【不死者】の出現が確認されタ」
「なん、だと……!?」
「ナんだもクソもないヨ。【コード:À】は【ピンカートン探偵社】が最優先すべき案件だろウ?」
「しかし!」
「納得いかねぇなんて言わせないヨ、チャーリー・シリンゴ」
【ケルビム】の声が、触れれば痛みを感じるような冷たさを帯びた。
「確かニ、ブッチ・キャシディの拿捕は長年の悲願ダ。オ前だけではなク、【ピンカートン探偵社】にもおけル。シかシ、【コード:À】は全うすべき誓願ダ。ソしテ、一存でもあル【ピンカートン探偵社】だけではなク、オ前にもおけル。ソれニ、大義と名誉で飯をいくらでも食って酒を飲みまくれる黎明の時代じゃないんだヨ、現在における時代の【ピンカートン探偵社】ハ。無法者相手に仕掛ける闘争、紛争、抗争、戦争……ソの全部が全部だっテ。チャーリー・シリンゴ、オ前は組織に属する人間なんだヨ。無法者でモ、聞き分けなく走りまわるガキでモ、オとぎ話のリップ・ヴァン・ウィンクル――過ぎる時代に取り残された者でもねぇんだヨ。ヤりたいこト、ヤらなけりゃいけないこト……ソの分別ぐらいついているだろうがヨ」
「…………」
「文句が言いたきャ、ウィリアム・ピンカートン現総代か、その補佐たるラッカー卿にでも言うんだナ」
言われずとも、分かっている。
法執行官である以上、行動に融通がきかなくなることぐらい、ましてや、自分なりのやり方に軛がかけられることぐらい分かっている。
ただ獲物を追い続け、狩りたいのであれば、賞金稼ぎにでもなればいい。
殺し屋でも、傭兵でも――それこそ、無法者にでも。
「ドうするヨ、チャーリー・シリンゴ」
けれども、しかし――
「全員、残弾に十分な余裕はありますか? それと、誰か馬の鞍に差している銃で、出来ればS&Wモデル2・アーミー……いや、ライフルを一つ貸してもらいたい」
シリンゴの言葉に、部下たちの間に緊張が駆け抜ける。その言葉が意味するのは――
「先の発言を、撤回する。拿捕より目的を剪滅せんめつへと変更。【ワイルドバンチ強盗団】首魁より、標的を【不死者】へと変更!」
分かっているつもりだ。弁えがない正義に、大義がないことぐらい。善と悪のはっきりしない混沌が未だ満ちるこの新大陸において、それらを分かつ境界線を踏み違えていないから。
そうでなければ、シリンゴは【ピンカートン探偵社】に在籍などしていない。