第84話 大河ドラマ「新選組!」
タイトルに!マークを入れたのは、そういう題名のドラマだからです。俺自身の好みであえて入れた訳じゃないから。
2004年ーーー今から21年前にNHKで放送された大河ドラマなんだけど、その当時は観ていなかった。うん。けっこう大河ドラマが好きで観る方なんだけど、なぜか「新選組!」は一話も観てない。理由は忘れちゃったけど、主役の近藤勇を演じたのがSMAPの香取慎吾だったせいかな~。覚えてないけど「うわ……アイドルを主役にしちゃったんだ……」って思ったのかもしれない。ただね~、今現在けっこう若手俳優さんが時代劇の映画やドラマに出てて人気もあると思うんだけど、それって木村拓哉が時代劇で成功したのが大きいんじゃないかな(1998年放送の織田信長 天下を獲ったバカ)。
今年(2025年)の大河ドラマも終わっちゃったもんだから、動画配信で今更ながら「新選組!」を数日掛けて観たのだ。近藤勇役を演じた香取慎吾がどうだったか? とか他のキャストは? っていうのは後ほど触れるとして、どうしても書きたいことがあるぞ。それはドラマ全部じゃないんだけど、ガッカリしたと言わざるを得ない点だ。それは何点かあるのだが、先ずは映画版「新選組」のストーリーと似すぎてる点だ。パクリとは言わないが……
映画版「新選組」は1969年製作の東宝映画で、主役は近藤勇なのだが演じたのが三船敏郎。っでこの近藤勇がとっても良い人なのだ。うん、大河ドラマで香取慎吾が演じた近藤勇とモノの考え方や、土方歳三が「切腹だ! 切腹、切腹」と隊の規律を重視するのと意見が衝突する近藤勇の考え方が非常に似てる。そして何といっても芹沢鴨が引き起こした「本庄宿焚火事件」の顛末がまるで同じ。
浪士組が上京する際に、宿の手配から漏れた芹沢鴨が「ああ、いいよ。どうせ俺なんか野宿するからよ~。だけど寒いから火ぃ焚いちゃうんだ~」と言い出して巨大な焚火をするエピソードだ。このエピソードは明治以降も生き残った新選組二番組組長の永倉新八が、後年、口述による回顧録を記録した「新選組顛末記」に載っていて、映画や小説で描かれる新選組では必ずといって良いほど出てくるエピソードなのだ。だが問題なのは、もっと燃やせと煽る芹沢鴨に対し、手配漏れは自分の責任だと地べたに正座をする近藤勇。それは燃え盛る巨大な焚火の傍で熱さ我慢をする二人の対決で、とうとう熱さに我慢できなくなった芹沢鴨が折れるといったストーリーが映画版でも大河ドラマでも描かれている。だけどこのエピソードの元になった永倉新八の「新選組顛末記」には、芹沢鴨VS近藤勇の我慢比べなど無く、同行していた幕臣の山岡鉄太郎が巨大な焚火騒ぎを見て「こんなガキみたいな騒ぎを起こしやがって、冗談じゃねぇ! 俺は江戸に帰る!!」と言い出したもんだから、芹沢鴨は山岡の機嫌を損ねないよう大人しくなったとある。大河ドラマ「新選組!」ファンの人や三谷幸喜ファンの人には申し訳ないが、このシーンは史実ではなく、映画版「新選組」の模倣だとしか思えない。おまけに映画版で芹沢鴨を演じたのは三國連太郎。大河ドラマではというと佐藤浩市。親子だぜ親子。映画版を意識した? それとも映画版へのオマージュ?
他にも色々とあるのだが、やはりエンディングだろう。大河ドラマの最終回のエンディングは、近藤勇が新政府軍に掴まり切腹を言い渡されるのだが、腹を切った近藤勇の首を介錯人が切り落とし、そこで画面には「完」の文字が出るというエンデングのせいで、当時この大河ドラマを観ていた人は「え……こんなドラマの終わり方って……主人公が首を切られてそれで終わり?!」と驚いちゃった人も多いと思う。だけどこの終わり方は映画版と全く同じなのです。映画では三船敏郎の首が落ちたところで「完」という文字が現れます。ここまで映画と同じにした意図っていったいなんだろう?? 大河ドラマ「新選組!」って1969年の映画「新選組」のリメイク?
しかし大河ドラマ「新選組!」は1話45分程度で40話以上もあるロングドラマだから、映画版とは違った設定も多い。先ずは青春群像劇にしたってこと。それと浪士組が京に向かう以前の、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎が暮らしていた多摩での日常を描いたこと。それと近藤勇は坂本龍馬や桂小五郎と友達だったという「………なっ、なに?」という設定をブち込んでる。これね~~なんで友達にしちゃったんだろう?? そうしなければあのドラマのストーリーに問題があったとは思えないんだよね。まったくもって意味が解らなくて最後まで違和感ありありだった。
っで坂本龍馬を誰が暗殺したのかを、このドラマでは「見廻組」の犯行だったとしている点だ。映画版では犯人不明だったはず。でも史実では事件から2年後に見廻組の今井伸朗って男が「坂本龍馬を殺害したのは、見廻組与力・佐々木只三郎の指示による私を含めた7人です」と自供している。だが今井伸朗の供述があいまいだったのと、今井本人は見張り役で残りの6人が実行犯だったという供述なのだが、その6人全員が鳥羽伏見の戦いで死亡しており、あまりにも今井にとって都合が良すぎた。だが今井の供述は認められ禁固刑という軽い処分となった。だが30年後にこの今井という男ーーー60歳という当時ではそろそろ寿命か? という年齢になった時に「私は見張り役なのではなく、実行犯だった」と語り出してるのだ。そんなこともあって見廻組がヤったというのが定説っぽいのだが、とにかくそれを裏付けする証拠はなく、売名行為じゃないのか? とも言われている。だが暗殺を指示した黒幕は誰なのか? 又、なぜ坂本龍馬を暗殺しなければならなかったのか? が謎なのだ。
しかし、現実では歴史の教科書から消されるっぽい存在なのが坂本龍馬だ。その教科書を見ればお分りの通り「薩長同盟の立役者であり、坂本龍馬がいなければ明治維新もままならなかった」的な事が書かれているはずで、亀山社中や海援隊を率いて大活躍、うんぬんくんぬん。その坂本龍馬がなぜ教科書から消されるかもしれないのか? 答えは簡単だ。教科書に載せるほど大したことやってないからだ。
っで俺は「新選組!」で描かれた坂本龍馬にはガッカリだった。それは、大河はあくまでもドラマだからフィクションが多少入ってたって問題ないし、史実がハッキリしない部分は脚本家の腕の見せ所で、「おおお、こうきたかい?! 確かにこんな解釈もアリだよな。スッゲーな~」って感じで、脚本家の描いたストーリーを楽しんで観てる俺なのだが、新選組!というドラマで描かれた坂本龍馬は、司馬史観の呪縛にガッチリと縛られてた。いや~~無理だったのかね? ドラマの中では「大和行幸」とか「偽の勅を出した長州びいきの公家を追放」、「長州嫌いの孝明天皇」、「御所に向かって発砲した長州藩士は天皇を誘拐するつもりだった」そして「長州藩が朝敵」だとする描写をハッキリと描いてて、観ていた俺は「おおおおお、このドラマって、もしかすると今までのタブーを破るか?」って期待してたけど、坂本龍馬に至ってはどっつり司馬史観そのものだった。それこそ司馬遼太郎の小説をそのままドラマの脚本に組み入れたって感じ。近藤勇とお友達ってのは斬新だったけど、斬新過ぎてあり得ねぇ~~
三谷幸喜が脚本を執筆した大河ドラマで「真田丸」と「鎌倉殿」は観たんだよね。かなり面白くて、独自の歴史解釈も散りばめられていたから「新選組!」を観たんだけど、ガッカリだった。でも2004年のドラマだからな~、「司馬史観こそが本物の歴史であり史実だ」って思ってる人も大勢いただろうし、そういった人達を敵に回すような脚本は出来なかったのかもね。そう言えば2010年の大河ドラマ「龍馬伝」も最近観たのだが、もう「ひぇ~~」状態。坂本龍馬を美化する為ならここまでやるかい?! って感じで、驚きを通り越し、呆然となりながら視聴を続けたぜ。大して歴史に詳しくない俺の嫁でさえ「なんだかさ~~全部が坂本龍馬の手柄になってて………こんなのヘンだよね。だって土佐と京都、それに江戸や長崎を行ったり来たりして、そこで起きてる問題全部を坂本龍馬絡みにしてるけど、どうやったの??」って言い出す始末。だから2004年の「新選組」もそうなるか。
話は逸れるが、司馬遼太郎と言えば「雲の上の坂」を思い浮かべる人も多いと思う。ドラマではNHKが2009年から2011年までの足かけ3年に渡って放送したものだが、原作である小説は産経新聞の夕刊に1968年から1972年まで連載されたものだ。
ちなみに俺は原作は未読で、ドラマ版を動画配信で3日ぐらい掛けて観たのが今年で、その後、立て続けに「映画版 日本海大海戦」と「映画版 二百三高地」を観た(全部が同じ時代設定だから)。
①小説版「坂の上の雲」 1968年~ 作者:司馬遼太郎
②映画版「日本海大海戦」1969年 東映 脚本:八住利雄
③映画版「二百三高地」 1980年 東映 脚本:笠原和夫
④ドラマ「坂の上の雲」 2009年~ NHK 脚本:野沢尚
④を観て直ぐに②を観て、また直ぐに③を観たのだが、ビックリした。全く同じ台詞があるのだ。何か所も。それも「1対1」の場面で、こんなの記録があるはずもなく、絶対に史実じゃない台詞なのに、なんで同じ?? 脚本家だってそれぞれ違うのに……
もう司馬史観に逆らえないとしか思えない。誰もが司馬遼太郎に忖度して独自の脚本を書けない?
ここから大河ドラマ「新選組!」から更に離れて坂本龍馬について書くぞ! うん、絶対に書いちゃう。でも相当に長くなりそう。
先ず結論的なことを書く。でも結論と言ってもあくまでも俺の主観が多分に入ってるんだけど、司馬史観にある坂本龍馬は、当時の薩摩藩の家老だった小松帯刀の活躍を、坂本龍馬の活躍にしちゃったんだろうと俺は思ってる。二人の歳はほとんど同じで、坂本龍馬も若くして亡くなっているが、小松帯刀も35歳で病死してるから明治新政府での活躍はない。だからパクリやすかったんじゃないのかね~。そもそも坂本龍馬って土佐の下級武士でおまけに脱藩した浪人で30歳程度。そんな人物が単独で大仕事をどうやって出来た? 誰がどう考えたってムリでしょう。司馬遼太郎は土佐の下級武士がとにかく好きだからね~。
小松帯刀って29の時に家老になってて、島津久光からの信頼も厚く、事実上、薩摩藩の宰相みたいな感じで政を取り仕切っていた。西郷隆盛が活躍できたのも小松帯刀が後ろ盾になっていたから。おまけに西郷は2度目の島流しをされた直後で島津久光からの信頼などないから島津藩の代表などには絶対になれない時期だった。英国公使のハリーパークを薩摩に招いて久光公に引き合わせ、薩英戦争のしこりを取り除いたのも小松帯刀。そして薩長同盟締結に向けて奔走してたのは小松帯刀で、西郷隆盛と桂小五郎の会談場所は小松帯刀の屋敷。そしてその時の薩摩藩代表は小松帯刀。坂本龍馬は西郷と昵懇だったようだから、第三者的な立場でその会談に同席し、合意内容を纏めた文章には、坂本龍馬が朱書きで「小松帯刀、西郷隆盛、桂小五郎、さらには坂本龍馬らが同席して話し合われた内容に、少しも相違ありません」と記していて、小松帯刀がこの会談の筆頭かつ中心人物だったと分る。
そもそも薩長同盟は近年の研究では「他藩との外交的な駆け引き」、「藩内の様々な勢力」、「武器や食料など色々な事情」などが複雑に絡み合っていて、坂本龍馬に限らず、誰か一人の説得や交渉で成立するものじゃないっていうのがハッキリしてきた。そして面白いのが会談で合意された内容なのだ。坂本龍馬が出てくる小説や映画では、この合意によって薩長同盟が出来、その目的は「徳川幕府を倒す」こととして描かれ、多くの人がそれを信じてる。だが合意内容は次の6項目だ。
①長州が幕府と戦争になったら薩摩は援軍を送るよ。
②長州が幕府に攻められたら薩摩は派兵して支援するよ。
③長州が幕府に勝ったら、薩摩は長州の名誉挽回のために朝廷に働きかけるよ。
④長州が幕府に負けても、薩摩は長州を見捨てないよ。
⑤長州と幕府の戦争が終わったら、薩摩は長州が朝敵ではないことを朝廷に言ってあげるよ。
⑥会津と桑名が攻めてきたら、薩摩と長州は一緒になって戦うよ。
こんな内容なのだ。薩摩と長州が一致団結して積極的に徳川幕府と戦おうという意思は読み取れず、それどころか薩摩はどうにも戦いたくないような雰囲気が窺え、当時幕府側にいた会津藩と桑名藩が出てきたらようやっと重い腰を上げる内容だ。こんな合意内容がどうして「これで徳川幕府を倒せる」となったのだ? おまけにこの合意文章には「話し合われた内容に少しの違いもありません」と坂本龍馬が朱書きで書いてるいる。それに③と⑤は殆ど同じ内容だ。とにかく長州は朝敵という汚名を晴らしたくて、くどいほど薩摩に念を入れたのだろう。おまけに⑤の内容には、幕府との戦いに長州が負けた場合のことも含まれ、④で見捨てないと書いてあるが薩摩は高みの見物か? って思わずにはいられない。とにかく薩長同盟の真の目的は「長州を朝敵から外すこと」で、いわば朝廷対策がメインだと俺は思うのです。その「長州を朝敵から外す」までの間に幕府に長州がヤられちまったら元も子もないから、薩摩が応援するよ、ってもんじゃないのかね~。
ちなみに、この薩長同盟という絵を描いたのが坂本龍馬で、そしてこの同盟によって長州は武器を得る事が出来て第二次長州征伐を跳ね返した、と小説や映画・ドラマでは盛んに言われているが、それは全部ウソだ。これはハッキリと言える。まず中岡慎太郎が長州に亡命していた時期に、薩摩憎しに固まっていた桂小五郎に対し、盛んに薩長同盟の必要性を説いていて、それは坂本龍馬に影響されたからではない。それと明治維新後も生き残った数少ない人の中に伊藤博文と井上馨がいるが、その二人が回想録で述べている。まず伊藤はーーー
「俺と井上が長崎に派遣されたのさ。木戸先生(桂小五郎)に言われて。そんでグラバーから鉄砲を買った。うん、直接交渉して金も長州が直接払ったよ。でもさ~奉行所の目がうるさいから薩摩が買ったことにしなきゃならんくて、そこんとこは井上がうまいことやった」
っで井上馨はーーー
「まず大宰府に寄って薩摩の小松帯刀宛ての紹介状を貰った。そんで長崎で薩摩の世話になってる近藤長次郎に会ったんだ。あいつは元土佐の町人らしいげど時勢の読めるヤツで、そんで近藤長次郎の手引きで長崎の薩摩藩邸にいた小松帯刀と会った。っで俺たちがグラバーから買う鉄砲なんかは最初っから最後まで薩摩名義ってことにしてもらったのよ」
こんな話を回想録で述べていて坂本龍馬などどこにも触れられていないのだ。っでこの二人の話に出てくる近藤長次郎なのだが、元は土佐の町人だったのが勝海舟の門人となり、そこから坂本龍馬と行動を共にしているのだが、この近藤長次郎は長崎で腹を切って死亡していることを幸いに、近藤長次郎の活躍を坂本龍馬の活躍にしちゃってる小説や映画が多い。そうなのです。上に書いたように小松帯刀の活躍を坂本龍馬の活躍にして、更には、近藤長次郎の活躍までもを坂本龍馬の活躍にしちゃってるのが、司馬史観の坂本龍馬だ。
っで本を読まない坂本龍馬とは違い、近藤長次郎は勝海舟が開いた海軍操練所でそうとうに勉強しており、海運の実務は坂本龍馬ではなく近藤長次郎だ。上にも書いたが薩摩藩の家老である小松帯刀が、近藤長次郎の紹介で、朝敵である長州の二人(伊藤と井上)に会ったというのは近藤長次郎がよほど信頼できる人物だと踏んでいたのでしょう。もと土佐の町人で、その土佐から逃げてきた近藤長次郎なのだが、島津藩の家老である小松帯刀はそんな長次郎を信用してた。
ずいぶんと坂本龍馬に関する事を書き連ねてるが、止まらなくなってきたぞ。うん、もっと書いちゃう。
坂本龍馬が率いた海援隊なんだけど、その前身が亀山社中、ってことになってるけど、この亀山社中って団体が怪しい。長崎の亀山って地名のところに事務所を作ったらしいのだが、そもそも亀山社中が結成されてから解散するまで坂本龍馬が長崎に行った記録がない。勝海舟の操練所が閉鎖になってから土佐脱藩組らを薩摩に面倒をみてもらえるよう頼んだらしいから、坂本龍馬を除くメンバーが長崎にいたのは間違いないのだろうが、亀山社中という団体が何をやってたのかの記録もない。メンバーには給料みたいなものが薩摩から出ていたようだから、薩摩ーーー特に小松帯刀の指示で働いていたのだと思う。
亀山社中の存在が明確になったのはユニオン号事件だと思う。坂本龍馬が絡んできたのもこのユニオン号事件だ。
先ず上にも書いた小松帯刀と伊藤博文&井上馨の会談で、長州の軍艦を含む武器の調達を薩摩名義で行うことが合意され、その後、近藤長次郎と井上馨との間で協定が具現化されてユニオン号の購入となった。その協定内容は次の通りだ。ちなみに当時は亀山社中のことを単に「社中」と呼んでおり、社中とは「仲間」という意味。
船の旗は島津家の旗を使用する。
船は脱藩浪士の社中が操船をして長州藩士2名が乗船する。
船を長州藩が使用しない時は薩摩藩が使用することを可能とする。
船の経費は全て長州藩が負担する。
以上のように薩摩藩有利の協定の為ーーー先ずもって坂本龍馬を含めた土佐脱藩浪士って、この時点では薩摩藩に帰属してるんだろうね。だから薩摩有利の条件になっていた。だけど長州藩首脳陣が納得せずに揉め始め、坂本龍馬の仲裁案(京都にいる小松帯刀と桂小五郎が協議するという案)を近藤長次郎は拒否し、船の引き渡しまでもを拒否する。ここで脱藩浪士たちは近藤長次郎に同調し、亀山社中としてまとまった。それまでの社中は「薩摩名義で購入した軍艦を、薩摩の指示で運航していた土佐の脱藩浪人集団」であり、商社でもなければ株式会社でもないという見解が現在は有力だ。だってさ~~商社とか株式会社としての実績って全然無いんだぜ。笑っちまったのは大河ドラマ「龍馬伝」ではカステラを作るんだよね。当時オランダから輸入されてたカステラ食って「これは美味い!!」って感動した長次郎が亀山社中で作って売ろうって考えるの。でも作ったはいいけど不味くてポシャン。何かをヤったって記録がないから無理やりカステラ作りをやったって設定ぶち込んだんだろうけど………
話が横道にそれたが、船の引き渡し条件で揉めたおかげで、亀山社中というまとまりというか結束が出来た。っで引き渡し条件は「船は長州藩籍、乗務する社中のメンバーは長州藩の指示に従う、経費は薩摩藩の負担」という長州有利の協定が提示され、それに対して近藤長次郎は、長崎に回航することを条件に同意する。そうなんです。合意したのは坂本龍馬ではなく近藤長次郎なんです。ここでも薩摩の家老:小松帯刀からの信頼が厚いと分るんです。
そして坂本龍馬が出てくるんですが、彼が船長として乗り込んだユニオン号が長崎を出港し、長州藩に船を引き渡す為に下関に向かうのですが、幕府による第二次長州征伐が始まっていて、ユニオン号は高杉晋作の要請により幕府に攻撃を仕掛ける。大河ドラマ「龍馬伝」では、この時の坂本龍馬は「幕府を倒せええええ!!」と絶叫してるんですよね。もう何が何だかわからない。ちなみに「龍馬伝」での坂本龍馬は、自分でも何をしたいのか解らないまま脱藩して、江戸で勝海舟に会い、そこでスゲーことを教わった。だけどバカだから何がスゲーのか理解できないんだけど、今は外国と戦う時じゃない。外国の進んだ技術を取り入れて日本を強くし、それからじゃないと戦えない。ってことだけは理解した。そして日本国内でいがみ合ってたら外国に侵略されてしまう、という勝海舟の考えに同調してたはずで、それがなんでユニオン号に乗った途端に「幕府を倒せえええ!!」って絶叫するのか理解不能だったわ。だってそもそも平和を説いてたはずなのに、いきなり内戦の火種を振り撒いてんだぜ。スルっと展開しちゃってたけどアレって「二枚舌」だよね。
それと坂本龍馬って土佐の郷士であって上士ではないのは間違いないのだけれど、坂本家はそもそも旧長曾我部臣下ではなく、山内家が土佐を納めるようになった以降に武士になった家系。
そして土佐では山内家が納めるようになってからも旧長曾我部臣下であっても優秀な人材は上士として召し抱えられてた事例が多くあり、それらの人材は「白札郷士」という上士待遇だったというのが史実であり、坂本家は、庄屋→郷士→上士といった具合に家格が上がっていった「白札」だった。だからかなり裕福。司馬史観にたびたび登場する設定で「土佐の郷士は上士から酷い差別を受けていて、一様に貧しく、上士から手打ちにされても文句の言えない立場」というのはウソです。武市半平太も白札の家で、坂本龍馬とは親戚の間柄です。
武市半平太が出たついでに土佐勤王党のことを書くが、この政治結社が土佐に出来た切っ掛けは全く別のところにある。夜道を歩いていた中平という郷士が、山田という上士にぶつかってしまい、口論の末に切り合いとなった。中平の連れが慌てて池田寅之助(中平の兄)を呼びに走った。だが池田が現場に到着すると中平は既に切られていて、激高した池田が山田を叩き切る。池田に切り殺された山田は上士だ。大勢の上士が山田邸に集まり復讐を計画。だが郷士たちも池田邸に集まり、土佐藩を二分する一大抗争に発展。
郷士たちは悔しい気持ちがあったのでしょうし、この事件による郷士の団結が土佐勤王党結成に繋がっている。
ちなみにこの事件の直後、郷士の代表が上士たちと交渉して事を納めるのだが、小説や映画・ドラマでは坂本龍馬がその代表役として描かれ、「龍馬伝」では坂本龍馬が土佐藩の重役である吉田東洋に直談判までしているが、それらは全部ウソだ。この事件の郷士代表は大石弥太郎という人物で、この事件以降は郷士のリーダー格になっているが、土佐藩にとっては目障りだったのか、藩命により江戸へ向かい、そこで勝海舟塾に入り、桂小五郎ら維新獅子とも交わるようになっていく。併せて、坂本龍馬は吉田東洋と会った事など一度もない。
そして武市半平太なのだが、彼も坂本龍馬と同じく白札の家系で裕福だったせいで江戸に剣術修行に行っていて、そこで土佐の郷士リーダーだった大石弥太郎から桂小五郎ら維新の志士を紹介される。っで武市半平太は江戸で土佐勤王党を結成するのだが、結成文を書いたのは大石弥太郎。おそらくは大石弥太郎が起案した後に武市半平太を仲間に引っ張ったのだろうが、武市半平太は白札、だが大石弥太郎はただの郷士。そんなこともあって大石弥太郎はナンバー2に留まった。っでその頃の坂本龍馬は土佐に帰っていた。だが龍馬も江戸に剣術修行に来ていた時に、土佐藩邸では大石弥太郎と同室だった。土佐に戻ってきた武市半平太は自分の親戚でもあり、大石弥太郎とも昵懇であった坂本龍馬を位の一番に土佐勤王党へ誘った。誘われた坂本龍馬はホイホイって具合に参加。だから土佐在住の者の中で最初に土佐勤王党に入ったのは坂本龍馬だ。
勤王の獅子ってけっこうインテリジェンスの人が多い中で、坂本龍馬だけが異質なんだよね。どうにも一人だけ大ぼら吹きの無知って感じ。
っでこの頃に吉田東洋暗殺という大事件が起きたのだが、それは土佐藩の保守派と手を組んだ武市半平太の指示での暗殺であり、結果として武市半平太は土佐の実力者にのし上がった。土佐の保守派って吉田東洋によって冷や飯を食わされてたから、吉田東洋が邪魔だってことでは勤王党と共通してたんだよね。そして重要なのが土佐藩主の山内豊範も冷や飯を食っていたってこと。土佐藩主って山内容堂をイメージしてる人が多いと思うけど、山内家の本家は豊範。だけど14代目藩主が亡くなった時に幼すぎて、15代目藩主は分家の容堂がなった。でもその容堂は安政の大獄の影響で謹慎・隠居。っで16代目は豊範(土佐藩最後の藩主)。だけど隠居の容堂と重臣の吉田東洋が中心の藩政で、土佐の殿様だった山内豊範も吉田東洋が邪魔だったってこと。だから武市半平太が土佐でのし上がったていけたというのは、土佐の内情の微妙なバランスの上に立っていたんだけど、そこんところを正しく理解できていなかったのか、のぼせあがったのか、中央で三条実美らと組んで尊王攘夷派のスターになっちゃう。っで当時は公武合体論者だった岩倉具視を追放して、尊王攘夷に異を唱える者に対して天誅を加えていく。ここで有名な「人斬り以蔵」なんかを使っていく。だけど隠居した山内容堂って掴みどころのない人で「酔えば勤王、冷めれば佐幕」と言われてたくらいに勤王派であり佐幕派なんだよね。そんな容堂は隠居後も土佐では大殿って呼ばれてて、中央では「四賢侯」の一人と言われる実力者だから、その容堂がソノ気になったら土佐勤王党はひとたまりも無いってことには気づかなかったんだろうね。実際に「八月十八日の政変」が起きて山内容堂の思いは勤王党大粛清に傾く。
っで笑っちまう坂本龍馬に関する史実があるんだけど、水戸藩の住吉虎之介って武士が土佐の国境の番所で入国を拒否された。そこで坂本龍馬に入国の斡旋を頼んで来た。龍馬が剣術修行をしていた江戸の千葉道場ってところは水戸藩とも交流があって、坂本龍馬の名前を知っていたらしく、龍馬が番所まで出向いて話をしたそうだ。勤王思想って元々が水戸学から始まったとされる思想だから、水戸藩の住吉虎之介は「土佐の武市半平太は勤王獅子の中のスターだ。確か坂本龍馬も土佐勤王党に入ってると聞いた」って考えたんだろうけど、実際に坂本龍馬と話してもみても、話が噛み合わなかったらしく、「龍馬は誠実な人物でなかなかの剣豪だが、世情に疎く、老中の名前すら知らなかった。正直がっかりした」と書いている。要は、上にも何度か書いたんだけど、坂本龍馬の大志って本人もなんだか解ってなくって、武市半平太や勝海舟に影響されてはいたんだろうけど、ロジックとしては全くダメだったんだと思う。
っで坂本龍馬がいつ誰と一緒に勝海舟を訊ねたのかは諸説あって定かではなく、後年、勝海舟が「松平春獄の紹介で坂本龍馬と初めて会った」と書いているから、松平春獄とはどうやって会えたのかが問題となる。だが龍馬が家族に送った大量の手紙を読み解くと、間埼哲馬という土佐の医師の息子が江戸で長州の維新の志士らと既に交流していたらしく、そこで龍馬と哲馬が出会い、歳も近かったせいで付き合いが始まる。哲馬は龍馬とは比べ物にならないくらいの秀才で、その才によって様々な人脈を持っていて、ある日、哲馬が松平春獄に会いに行くと聞いた龍馬が付いて行ったらしい。そこでどういった訳か松平春獄は龍馬を気に入り、勝海舟と会うことを勧めた。っで勝海舟と会った龍馬は、勝海舟の持つ見識に圧倒され「弟子にしてくれ」と頼むと「ああ、いいよ」との返事。っでそこに既に弟子入りしていた近藤長次郎と再会ってことらしいが、間埼哲馬という人物がどうして松平春獄と会えるくらいの人脈を持っていたのかは不明。そして哲馬は後の土佐内政改革に絡んで死んでしまっている。
小説や映画・ドラマで語られる坂本龍馬の活躍は次の3人の功績を龍馬の活躍としていると俺は思う。
近藤長次郎(龍馬伝では大泉洋が演じている)
小松帯刀(龍馬伝では滝藤賢一が演じている)
大石弥太郎(龍馬伝では省略されている)
特に土佐勤王党を語る上で大石弥太郎は不可欠な存在で、明治以降も「古勤王党派」の実力者として政府から警戒された人物。
もう一つあるのが、大政奉還は坂本龍馬が発案し、そしてそれは坂本龍馬が作成した「船中八策」にも盛り込まれていて、土佐藩の後藤象二郎と坂本龍馬が山内容堂に「新政府綱領八策」を進言した。だから坂本龍馬は明治維新の立役者なんだ。それを示す証拠が、坂本龍馬の直筆の原本ーー「新政府綱領八策」が国立国会図書館と下関市長府博物館に所蔵されてて、あれは紛れもない一次史料だ! って説。
確かに「新政府綱領八策」は2通あって、いずれもが坂本龍馬の直筆だと認められてる(彼が書いた膨大な手紙が残ってて、それらと筆跡が同じ)。っで内容は下記の通り。
①政権の返上(大政奉還)について
②議会政治について
③行政機構の近代化について
④外交・条約の再設計について
⑤国家の大典・憲法制定について
⑥海軍・陸軍再整備について
⑦親兵創設について(新兵ではなく親兵)
⑧金銀比較の是正と通商是正について
この8っつが「新政府綱領八策」なんだけど、凄まじいよね。これを坂本龍馬が考えて作った?
同年代を生きた人物の坂本龍馬に対する評価は、「本を読まない。だから間違うことが度々ある」、「愛嬌のある人。だが世の中の事情に疎く、何も知らない人」だそうで、「アホだった」とも読み取れるのだが、地頭が悪い訳ではなかったらしく、陸援隊(土佐藩には海援隊だけではなく陸援隊もあった)の隊長になった中岡慎太郎は「龍馬は才知に優れた人物」というように、妙に端的だが、高評価をしている。
だが、どのような人物であれ、議会政治とか行政機構というような当時のイギリスの政治と行政に詳しい人物でなければ作れず、金銀の比較是正は、当時の日本で流通していた金と銀の量、それにそれぞれの掘削状況などを把握している幕府の役人がいなければ作れず、そして親兵と言えば帝を守る軍のことだろうから「それって朝廷から任命される征夷大将軍と、その征夷大将軍が組織する幕府のことか?」って当時の水戸学であれば考えるはず。そして全体像は近代日本を先取りした画期的な国家像だ。これはチームで作成したものであると見るのが正しいだろね。土佐の下級武士が脱藩した以降に猛勉強したところで作れる代物じゃない。イギリスのロンドン大学に留学した長州ファイブと、薩摩藩からもイギリスに渡った人たちがいる。彼等じゃなければ「新政府綱領八策」は作れない。っで清書したのが坂本龍馬だろうな。
ここまで読んだ人の中には「でも……船中八策は? それはなに?」って思ったでしょう。船中八策はおそらくはフィクション。先ずね、なんで「船中」って言葉が使われてるかというと、船の中だったの。詳しく言うと、長崎から京都・大阪へ向かう「夕顔丸」って船の中で坂本龍馬が何も読まずに口頭でベラベラベラ~って「八つの策」を喋ったの。それを長岡兼吉が書き留めたとされてる。
ところがその「船中八策」の原本は無く、そして当時を生きた人の中で「俺は船中八策を読んだぜ」って記録が一切ない。
そんなもんだから坂本龍馬直筆の「新政府綱領八策」はあるものの、「船中八策」を基にした「新政府綱領八策」を将軍に建白したということを、史料を基に論証されたことは一度もない、そうです。
そこで疑問になるのが「じゃ~大政奉還って誰の発案?」なのだ。これに関しては土佐藩の後藤象二郎の発案だ。いやいやいや、やっぱり坂本龍馬の発案に違いない、と言う人も多い。確かに1867年の6月に後藤象二郎が山内容堂に大政奉還の進言を行い、同年10月には土佐藩から大政奉還を含む「新政府綱領八策」の建白書が幕府に提出されている。だがそれ以前に松平春獄や大久保一翁が大政奉還を述べていて、大久保一翁はその主張により左遷、松平春獄はその主張を受け入れてもらえなかった。だから大政奉還って「こんな手もありまっせ」というように、それを実施すれば少なくとも徳川は新政権の中枢に残れると説く人も多かったのだと思う。そもそも大政奉還論は後期水戸学の考えだとも言われてる。だけど14代将軍の家茂は孝明天皇と公武合体を模索しながらも大政奉還には否定的だったのでしょう。動いたのは15代将軍の慶喜。彼は何でも一人で決めるクセがあったらしく、土佐藩からの進言はあったでしょうが決断したのは慶喜。この点だけは大河ドラマ「新選組」でも慶喜が一人で決めたように描いてた。
蛇足になるが、14代将軍の徳川家茂が亡くなったのが1866年7月20日で20歳。死因が虫歯とか脚気とか。暗殺のウワサもあって、その犯人だと疑われていたのが一橋派。いや~、もう大河ドラマ「べらぼう」の世界だよね。
っで孝明天皇が亡くなったのが1867年1月30日で35歳。とにかく急死。風邪で体調を崩していたところ突然天然痘に罹患。毒殺されたという噂があっと言う間に広まった。
上記の二人って公武合体論者で、長州を朝敵にした二人。それが僅か半年の間に二人ともが亡くなるって、まぁ都合のいい偶然だよね~。ちなみに続く明治天皇が即位したのが数えで16歳だが満14歳。っで薩長側は大政奉還の後に「王政復古の大号令」を出す。これって幕府は勿論廃止なんだけど、摂政や関白も廃止で「これからは天皇が自分で政治をやる」って宣言。徳川慶喜が新政府のナンバー2として雄藩連合をつくるシナリオを阻止したものだ。
話を坂本龍馬に戻すが、意外なのが、当時の有力者の日記や手紙の中で坂本龍馬についての記述がそれほど多くないのだ。そして西郷隆盛や桂小五郎が坂本龍馬に信頼を置いていたという記録はあるにはあるが、その大半が後年の回想によるもので、「ああ、今思い出してみると……」的なものであり、実際に難題にぶつかった時に「坂本龍馬が言うのだがら、それを信じよう」というものではない。
坂本龍馬は筆マメな人だったらしく膨大な手紙が残ってて、彼の行動も詳しく書かれていてーーー自己評価が過剰で、自分の影響力を大きく見せたのだと思う。
ちなみに豊臣秀吉も筆マメな人だったようなんだけど、妙に似てるな~って感じる。まずは「人ったらし」、「図々しいほど積極的」、っで坂本龍馬って土佐の下級武士だってせいで立身出世が夢だったんじゃないかな~。上にも書いたように坂本家は下級武士なんだけど「白札」で裕福だ。そして父親が死んでから兄夫婦が家督を継いだが男子に恵まれず、龍馬が坂本家を継ぐ存在だったから、次男なのに養子に出されることもなく、江戸に剣術修行といった遊んでいるような生活。自分の将来像など見えていなかったのだろうけど、現状には満足しておらず、当時の流行に影響されて土佐勤王党に入り、そこで時代の変化を感じ、「こんな田舎にいたんじゃダメだ」って脱藩。そして勝海舟と出会い過激な勤王思想を捨て、勝海舟が解く近代日本に憧れる。要は、単純に「俺は絶対にビックになってやるぜ!」って人だったような気がする。
ついでに坂本龍馬と新選組の接触についても書いておく。「龍馬伝」や「新選組!」では、道一杯に広がる新選組隊士の前を、道にいた猫を抱きかかえた龍馬が、新選組の中を悠々と堂々と歩き抜けるように描かれている。だが龍馬が家族に書いた手紙によると、猫ではなく犬で、相手は新選組ではなく会津藩士だ。会津藩士は当時では公務員だから切り合いなどしたくないお役人。だが超法規的な警察組織である新選組なら相手かまわずだ。そんな新選組を見掛けたのなら真っすぐに逃げるのが当時の坂本龍馬であり、京にいた勤王獅子たちだ。実際に坂本龍馬は新選組と出くわしたことがあったらしく、その際は当たり前のように逃げ、一緒にいたおリョウが上手くさばいてくれたらしいが、後からおリョウに「女を置いて逃げるなんて……」と怒られたと手紙に書いている。
いや~随分と坂本龍馬についてを書いちまったが、まだ書くぞ。
とにかく司馬史観で描かれた坂本龍馬像は次のようなありさまだと俺は思ってる。
龍馬は組織というものが嫌い(性に合わない)なのに、組織というものを理解した上で利害関係を調節していくように描かれ、司馬史観にある龍馬を簡単に言ってしまうと「アホでマヌケで頭の固い組織人を、自由な発想の龍馬が一喝してブチ破り、そして巨大な山を動かした」という展開で、一つ一つの史実を完全に無視した上に成り立っており、いくら江戸時代の末期であろうと、藩の行く末を左右する重大案件に、何処の馬の骨とも分からぬ浪人ふぜいの説得に応じる藩などあるはずがなく、荒唐無稽な「解決マン」として描かれたお話し。
では当時の坂本龍馬がなぜ有名人になったのか? なのだが、それは間違いなく「いろは丸沈没事件」だ。
いろは丸というのは大洲藩が所有していた蒸気船だが、その船を土佐藩の後藤象二郎が借りたいと申し出て、大洲藩は土佐藩に対し、一航海(15日間)で500両で貸し出す。そして操舵は坂本龍馬ら海援隊。
そのいろは丸が紀州藩の明光丸という蒸気船と衝突してしまい、いろは丸は積荷ごと沈没。ちなみに薩摩預かりだった「社中(亀山社中)」が何故土佐藩に引き取られたのかの理由は一次史料は存在しない。何らかの理由によって合意されたのでしょう。だから、いろは丸沈没事故は亀山社中時代だったとする説もあるが、どっちにしろ交渉には土佐藩の後藤象二郎が出てくる。
っで土佐藩(主に坂本龍馬と後藤象二郎)と紀州藩の交渉が始まったのだが、まず最初に坂本龍馬は「万国公法に基づき非は明光丸にある!」と宣言した。
坂本龍馬は勝海舟の塾生だったから万国法という法律が存在していることは知っていたのでしょう。だけどこれは勉強が苦手で大して本など読まなかった坂本龍馬の「紀州藩は万国法など知らんはずだ」というハッタリです。この時には既に近藤長次郎は死んでましたので、もし近藤長次郎が生きていたら国際法など持ち出してはいないと思う。というのも、船同士が衝突しそうになった時には互いに面舵ーーー要は右に旋回して衝突を回避することが万国法に定まっていて、紀州藩の明光丸は右に旋回しているが、海援隊のいろは丸は左に旋回し、そして衝突している。だからなぜ左に旋回したのかを説明する義務があるのは海援隊の方であり、更によほどの緊急避難的な理由でもない限りは、いろは丸に非があるのは明白。
坂本龍馬も第1回目の交渉後には万国法に目を通し、自分たちに非があるのを知ったのだと思う。それ以降の交渉では万国法を持ち出さず、ひたすら怒鳴り、脅すことに終始する。ちなみに現代でも一定数の学者などは「事故当時は酷い濃霧のせいで、いろは丸は緊急避難的に左に旋回した」と言ってるらしいが、紀州藩も海援隊も航海日誌を提出しており、そのいづれにも「霧」という言葉は書かれていない。霧が出ていた、と言い出したのはきっと明治政府だろうね。
交渉の順を追って説明すると、万国法を持ち出し紀州藩側に非があると宣言した坂本龍馬に対し、紀州藩側は「藩に報告の後、藩命に従う」と返答し、万国法を知らないのは明らかだった。そこで坂本龍馬は急場の難を救うために1万両を要求する。すると動揺を隠せない紀州藩側は「1千両出す」と答えるが龍馬は「なんじゃ、そいは!」と突っぱねた。焦った紀州藩側は「一万両を建て替えて払う。すぐには用立てられないから返済期日を決めよう」と提案。だが龍馬は「1万両は損害賠償額の一部に過ぎない。それなのに返済期日を示せとは何事だ!」と怒鳴りつける。
これらの交渉に議事録みたいな記録はなく、いわば交渉に関する一次史料はない。だが交渉テーブルについた海援隊側と紀州藩側にはそれぞれ「このようなやりとりがあった」という記録を残していて、それらの記録は海援隊側はいたって簡潔で、書かれている項目も少ないが、紀州藩側の記録は詳細に渡っている。
紀州藩側で交渉に当たった勘定奉行の茂田一次郎という人物が、どうにも気の小さな、ただのお役人だったみたいで、坂本龍馬と後藤象二郎に脅され、萎縮していて、まともな交渉とは言えない内容だったらしい。
ちなみに紀州藩側が書いた坂本龍馬という人物については次の通り。
時と場所によって言う事をコロコロと変え、デタラメなくらいにモノを言い放つ人物。相手が温和な人物だと見れば苛烈なことを言い、粗暴な人物だと見れば事を温和に説き、昨日と今日とでは全く違った言葉を吐く。
話を第2回目の交渉に進めるが、その交渉は一ケ月後に行われたが、上にも書いたように坂本龍馬は万国法の話は一切せずに、今度は、この交渉が上手く行かなければ藩と藩の戦争に発展することを仄めかし、結局7万両の損害賠償額で決着する。7万両というのは当時の貨幣価値を現在に置き換えると100億円以上というとんでもない金額。それは海援隊側が「積荷には膨大な金塊と数千丁の銃があった」という説明から算出された損害額なのだが、時代が移り変わり「平成」になってから「沈没船いろは丸」の潜水調査が行われた。しかし金塊も1丁の銃も発見されず、見つかったのは顔料とか皮製品。坂本龍馬の主張は全てがデタラメだった。
だが御三家の一つである紀州藩を相手に巨額な損害賠償を勝ち取った坂本龍馬は一躍有名になった。
ちなみにこの賠償金の分け前を得る前に坂本龍馬は暗殺されており、賠償金は大洲藩と後藤象二郎と岩崎弥太郎で分配され、岩崎弥太郎はこの賠償金により三〇財閥を興してる。そしてキ△〇ビールの設立資金にも活用されたらしく、あのビールのラベルに描かれてる架空の動物は、「龍」と「馬」のあいの子みたいな動物で、それは坂本龍馬という名前の二文字から取ったとされる、坂本龍馬へのオマージュ説もあります。
だから坂本龍馬暗殺の黒幕は、俺は紀州藩だと思うんです。紀州藩側の交渉担当だった勘定奉行の茂田一次郎さんは、交渉失敗で「お役御免」になっちゃってるんですね。すっげー気の毒。だけど紀州藩が黒幕なのかを明らかにするには、坂本龍馬の交渉術があまりにも乱暴で、茂田一次郎さんを委縮された末のことだから、坂本龍馬英雄伝説に傷がつく。だからあまり表立った話にならなかったんだろうと、俺は勝手に思うのです。
それともう一つの黒幕説に挙げられるのはイギリスです。
当時のイギリスの駐日大使ハリー・バークスは高杉晋作とも会っており、そして薩摩藩や土佐藩にも赴き、あの江戸城無血開城の際に、西郷隆盛と勝海舟が土壇場で会談して江戸が火の海になるのが避けられたと言われているが、その直前に勝海舟はハリー・バークスと会っている。
「バークス伝」という書籍があるのですが、ハリー・バークスが日本に駐在した日々のことが書かれているのですが、その第四章の冒頭に次のようなことが書かれてます。
1986年と1987年のすべて、および1988年の大部分の日本に関係する公文書は公表されていない。したがって、バークスの生涯におけるこの期間は、重要であり興味深いものではあるが、公文書による情報はほとんど入手できない。ーーー(中略)ーーー幕府を倒そうとする大大名の強い欲望があったことは確かである。彼らは富と権力において十藩以上の実力があり、外国貿易の利益の分け前にあずかるためには、幕府は大きな邪魔物になっていた。
そしてイギリスの外交官だったアーネスト・サトウという人物が書いた日記には、ハモンド外務次官からバークスへの公信が引用されていて、それは次のような内容だ。
日本において体制の変化が起きるとすれば、それは日本人だけから端を発してるように見えなければならない。事実、その変化は我々の考えと異なる仕方で起きるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。
こんな文章なのだが、当時のヨーロッパ諸国がヤった手口というのは、その国に内紛が起きれば体制側とは反対の勢力を裏から応援し政権を転覆させ、新政権樹立後に自国の影響力を強めていくというヤリかたで、当時のイギリスは日本に対し、同じ手法で幕府を転覆させようと、見えないところで明治維新に深く関わっていたのだろう。
薩摩や長州が大量の武器を購入する財源をどうしたのか? とか、そこに武器商人のグラバーと坂本龍馬がどう絡んだのか? そして誰にとって坂本龍馬は邪魔になったのか? う~~ん、この時代は謎に満ちてる。
追記
大河ドラマ「新選組!」の感想を書き始めたはずが、横道に逸れ、坂本龍馬についてを10,000文字以上も書いちまったぜ。まぁ「新選組!」にも坂本龍馬は出てたし、時代背景が同じだから全く関係ないとは言えないが……
文字数も20,000文字となり誤字脱字のチェックすら容易ではないから最後になるが、大河ドラマ「新選組!」のキャストについてを書きましょう。
先ずは主役の近藤勇を演じた香取慎吾だ。ドラマ序盤あたりでは、彼が台詞を喋る直前に大きく口を開けて息を吸うのがとっても気になり、その変な癖もドラマ中盤以降は減っていったのだが、やっぱり最後まで抜け切れていなかった。だが、新選組局長になったあたりから凄くいい顔をするようになってーーー但し、台詞があまり無い時の厳しい表情なのだが、おお、いいじゃん、って見入ったわ。それにガタイがいいから刀を振り下す動作が迫力があって、なかなかの近藤勇だった。香取慎吾って剣道やってたのかな? 腰が決まってて格好良かった。
次に滝本捨助役を演じた中村獅童。調べてみると滝本捨助は実在の人物らしい。だがこのドラマでは全くの架空の人物設定で最終回に死んでしまうのだが、そこんところは、近藤勇の斬首時に共に死んだ無名隊士をモデルにしたとか。だけどね~~中村獅童のあの役作りはどうなの?? そもそも中村獅童の演技って振れ幅が極端だよね。ぐっと抑えた演技で寡黙な役を見事に演じたかと思えば、うざくて超やかましい変なヤツを演じる時があって、このドラマでの捨助は見事に後者なんだけど、俺はあの役作りには耐えられないんだよね。あれって演出家とか監督の指示なんだろうか? 悪いけど、捨助が登場した途端「うぜぇぇ、早いとこ死んじまうか、それとも近藤勇とは関係ないところで生きて、このドラマから退場してくれ」って思いながら視聴を続けたのだが、そんな俺の願いをあざ笑うように最終回まで出ていやがった。勘弁してくれ……
その次に原田左之助役を演じた山本太郎。いや~~なんで山本太郎を起用したんだろう? このドラマ以外でも山本太郎が出演した映画を観たことあるんだけど、妙にテンションが高い演技ばかりで、観てるのが辛かった。だってさ~、新選組10番組組長が原田左之助だぜ。あれはねぇぇだろう。それに棒演技だとは言わないけどさ~、永倉新八役を演じたグっさんの方が安心して見てられるってドーよ?
っで最後のトリは沖田みつ役を演じた沢口靖子だ。このドラマの序盤では沖田みつがヒロイン的な設定で、沖田総司の姉だから若くて独身なんだろうと無理に思おうとしてたのだが亭主持ちだった。っで沢口靖子は1965年生れだからこのドラマが放映された当時は39歳。俺ね~沖田総司の母親なのかと思ったもん。だって沖田総司役が藤原達也で当時22歳で童顔。どう贔屓目に見ても姉弟には見えない。若い母親だな~って思うって。それとね、沢口靖子って女優さんなんだけど、彼女は絶対に名女優ではない。朝ドラ「澪つくし」の主役で凄まじい人気が出たと言われる一方、とんでもない素人演技だった沢口靖子がだんだんと上手になっていく様を国民が温かく見守ったドラマ、と言われてたらしいのだが、それから上手くなったのか? 大河ドラマ「新選組!」での沖田みつは、かなりのオテンバで、陽気ではっちゃけた設定なのだが、どうしてか沢口靖子の演技が痛すぎて目を背けたくなったのは俺だけか? でも沢口靖子主演の「科捜研の女」って第一シリーズが始まったのが1999年で、2024年にはシーズン24が放映されてるらしいな。まるで水戸黄門か遠山の金さん、又は大岡越前状態。俺は一度も観た事がないが、現在の沢口靖子ってどんな演技をするの? 世間に大勢いる沢口靖子ファンには申し訳ないが、一切の表情が無くて絶えず能面みたいな顔をした女の役ならドンピシャだと思う。




