第75話 十一人の賊軍
この映画、実は観る前は「どうせオチャラケた時代劇なんだろうな~」ってな感じて、全く期待していなかったのだが、いや~面白い!! 設定も、ストーリーも、迫力も、出演している役者さん達の力量・熱量も凄いわ。
2024年公開で、監督は「凶悪」や「孤狼の血」を撮った白石和彌。脚本は「孤狼の血」を執筆した池上純哉なのだが、この映画を語る上で欠かすことができないのが、今から60年前の1964年に脚本家の笠原和夫が書いたプロットを映画化したという点だ。
ちなみにプロットというのは、あらゆる創作物の下書きのようなもので、映画であれば、シナリオが設計図で、そのシナリオの設計図がプロット。
っで、一般的な映画のプロットは400字詰めの原稿用紙で10~30枚程度だそうだ。映画の企画を考えた者は、その企画をプロットをもって映画会社に持ち込むらしいが、それはシナリオだと長すぎるせいだという。だが60年前に笠原和夫が東映に持ち込んだプロットは、なんと300枚超。あまりにも長ぇ~。そんなもんで途中まで読んだ東映の人が、「………っで、最後はどうなるんだ?」と訊ねると、笠原和夫は「漏れなく全員が討ち死にで負けるんですわ」と答えた。すると「はぁぁあああああ?? 負けちまう映画作ってどうすんだよ!!」と激怒。だがもっと激怒した笠原和夫が300枚超のプロットを破り捨てて、この企画はオシャカ。
この笠原和夫という人なんだけど、もともと荒々しい性格だったらしく、「仁義なき戦い」の脚本も書いてるんだけど、広島死闘編では出番が少ないとゴネる菅原文太と殴り合い寸前までいったとか。又、「博徒七人」の脚本もこの人らしいんだけど、その脚本に監督がケチを付けたららしく、そうすると「俺はもう降りる」と、監督の目の前で100枚を超える原稿を破り捨てたというエピソードがあって、そういった笠原和夫のエピソードだけを纏めた本があるらしい。………なんかスゲー。
話しをプロットに戻すが、笠原和夫が60年前書いたプロットは破り捨てられだのだが、60年後の現在になって僅か16ページだけが残っていたのが発見され、それを読んだ白石和彌が、「なんだコレ?? すっげー面白れぇぇ」と感動し映画化に動いたらしい。だから「幻のプロットが遂に映画化」と騒がれたらしいのだが、60年前に笠原和夫が企画したストーリーとは違っている部分が相当あるだろうが、それでも映画版「十一人の賊軍」は凄まじく面白い。前年に公開された北野武の「首」はマジで面白くない時代劇映画だと思ったのだが、「十一人の賊軍」こそ世界に発信すべき日本の時代劇だと俺は強く思うぞ。
ちなみに小説版の「十一人の賊軍」は講談社から出版されているがノベライズらしい。
時代設定は戊辰戦争だ。その戊辰戦争で新政府軍に攻められた「奥羽越列藩同盟」。その同盟は結局は朝敵にされたもんで、次々と同盟を抜ける藩が出るのだが、その中で新発田藩が新政府側に付いたのが同盟側にとっては大きな痛手で、その後、長い間、新発田藩は「裏切者」呼ばわりされてきた歴史がある。その新発田藩の苦渋の選択という史実をベースに、「10人の罪人と1人の新発田藩武士」を中心としたフィクションがこの映画だ。
仲野太賀と山田孝之のW主演で、山田孝之は罪人の一人なのだが、仲野太賀が新発田藩の武士。
仲野太賀という役者さん、売れてるよね~~。色んなドラマや映画に出演してるんだけど、なんて言ったら良いのか………何処にでもいるような風貌なもんで、実はこの役者の名前を知らなかったのだ。ところがこの映画での仲野太賀は武士なもんでラストに殺陣のシーンがあるのだが、「うわ……おおおおおお!! この人の殺陣ってスゲーーぞ!!」と感動を覚えた。うんうん、とにかく凄まじい迫力の殺陣で、かなりの長回しシーンなのだ。視聴後に調べてビックリ。初めての殺陣だったので練習しました、と本人がインタビューに答えているのだが、あれって天性のものなのか? 腰の落とし方もピタっと決まってて、そして泥臭くて視聴者に痛さが伝わる殺陣なんだよね。これね~個人の好みもあるから一概には言えないんだけど、元ジャニーズ事務所所属だった岡田准一の殺陣って確かに凄くて上手い。だけど何故か軽いんだよね。うん、軽いの。真田広之や千葉真一みたいに刀から重みが伝わるような殺陣じゃないんだよね。だけど殺陣初心者だという仲野太賀の殺陣にはどうした訳か刀の重みが伝わってきた。2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の主演が決まったのも頷ける………と思ったんだけど、小一郎役なんだもんな~~………あれだけの殺陣をやってのけるのに勿体ない。
余談になるが、必殺シリーズで中村主水役をやった藤田まことの殺陣は好きだな~~。あれって何なんだろう? とにかく普段の中村主水は、とてもじゃないけど刀なんか抜いたことの無いサラリーマン武士って雰囲気をガンガン出してんだけど、イザって時になると、威厳のようなものを醸し出す。っで侍の殺陣じゃないんだよね。明らかに暗殺者の殺陣。卑怯もヘッタクレもなくって後ろからブスっとやるこももへっちゃらなんだけど、振る刀から重みが伝わってくるんだよな~。
話しを仲野太賀の殺陣に戻すが、新陰流とか神影流に詳しい剣士の人が書いたブログを読んだんだけど、その人ですら仲野太賀の殺陣を絶賛してた。
それと「十一人の賊軍」は東映の得意とする「集団抗争時代劇」だ。だから一人のヒーローがばったばったと敵をなぎ倒すチャンバラではなく、集団VS集団の死闘をリアリズムを追求ーーー腕は飛ぶわ首も飛ぶわーーの迫力ある映像に仕上がっている。
っで10人の罪人に中に「なんだこのジジイわ、えらいカッコいいじゃねぇか!!」って爺さんが出てくる。長槍を使っての立ち回りなどカッコ良すぎてビックリなのだが山本力という人らしい。現在は55歳で「東映剣会」所属の俳優さんで、数多くの時代劇に切られ役で登場しているらしいわ。
ちょっとここで映画の設定となっている戊辰戦争についてを書こうと思う。映画の話しから離れてしまうが。
先ずは「官軍VS朝敵」というように語られているが、最初は「西軍VS東軍」だった。西軍が結果的に官軍と呼ばれ勝利するのだが、戦力からいうと東軍が西軍を圧倒していた。それなのに東軍が負けた。使用した武器も西軍が諸外国から提供された近代兵器を使っていたと言われるが、イギリスとフランスは日本国内の内戦を利用して植民地化を目論んでいたから、内戦を長引かせたかった。それ故に東軍にも武器を提供していたから西軍だけが近代兵器を有していた訳ではない。それなのに短期間で東軍が負けてしまった理由は、西軍が持ち出した「錦の御旗」が大きい。
東軍は敵陣営に錦の御旗がはためくのを見て、「朝廷に弓を引く訳にはいなない」、又は「俺たちは朝敵なのか……」と戦意を失ってしまった。これね~幕末に「尊王攘夷」って叫ばれていたけど、「尊王」は天皇を尊重、っで「攘夷」は諸外国を打ち払え的なスローガンなんだけど、少なくとも「尊王」という思想・考え方は東軍も西軍も同じなんだよね。互いに自分が朝敵にされることを恐れているんだから。っで「攘夷」については東軍も西軍の諸外国の力を借りて戦ってるんだよね。
それと西軍が持ちだした「錦の御旗」は本物なのか? それとも偽物か? って議論があるんだけど、天皇が「勅旨」を出したのなら、「錦の御旗」を誰が作ろうとも本物って扱いになる。
っで京都府立京都学・歴彩館に寄贈されていた資料から貴重な一次史料が見つかっている。戊辰戦争で最初に掲げられた錦の御旗は、公家の岩倉俱視の依頼で、薩摩の大久保利通と長州の品川弥二郎が制作。これって品川が岩倉の秘書に宛てた手紙で内容は既に知られていたものだが、その手紙の原本も発見された。だから錦の御旗は朝廷が作ったものではないのだが、問題なのは明治天皇の勅旨が本物かどうかだ。
明治天皇の前の天皇ーー孝明天皇は大の長州嫌いだったのは有名だ。それは長州と長州に組する公家がやり過ぎたのが原因で、偽の勅を出す事までやらかしていたのがバレ、孝明天皇が激怒し、長州討伐の勅旨を出している。いわば長州が朝敵だったのだ。
教科書には載っていないと思うが、大和行幸計画というものがある。その内容は、天皇に大和の春日社に行幸してもらい、親征の軍議を開き、伊勢神宮に参宮するというもの。だが内情は、幕府に対し攘夷の勅旨を伝え、幕府が実行しなければ直ちに違勅の罪を課すというのもで、大和行幸計画の目的は倒幕にあった。
孝明天皇は攘夷派ではあったが、直ちにそれを実行できる状況にないことは分かっていて、そして攘夷の際は幕府と朝廷が一体となる、いはわ日本全部が一枚岩になってやらなければならないと考えていたので、大和行幸計画の目的を知って激怒。っで長州過激派と7人の公家を追放。更には「禁門の変」が決定的で、長州は何を考えたのか御所に砲弾を撃ち込んだ。そんなもんだから、朝敵も朝敵、とにかくトンデモナイ奴らだとの烙印が長州に押された。
そして長州討伐は2度に渡って行われたのだが、真面目な名君といわれた徳川家茂の死亡で幕府はグタグタに。後々幕臣に中には「あの時、長州の息の根を止めてさえいれば……」と悔しがった者も多いという。
徳川家茂が亡くなったのが1866年7月20日(享年は21歳)死因は脚気なのだが、翌年には長州嫌いの孝明天皇が崩御。
孝明天皇が崩御したのは1867年1月30日で、満年齢は35歳。
記録では1月16日に風邪のような症状が出始め、1月30日に急に崩御。死因は天然痘。
しかし……しかしながらなのだが、孝明天皇は暗殺されたという噂が当時からあり、現在でも「毒殺」だったと主張する歴史研究家が多く、「病死」を主張する歴史研究家との議論は平行線のまま。
ここで整理しよう。
1863年8月25日 大和行幸に関する勅旨
1863年8月30日 大和行幸計画の内容を知った孝明天皇が激怒
同日 長州過激派とそれに親しい公家7人の追放令発令
同日 大和行幸中止の勅旨
(上記が八月十八日の政変と呼ばれている。但し旧暦)
1864年6月5日 池田屋事件
(長州過激派が御所を燃やし天皇を誘拐する計画を知った新選組が踏み込んだ事件)
1864年8月20日 禁門の変
(長州過激派が御所に砲弾を撃ち込むという完全なるテロ行為)
1864年 第一次長州征討 しかし戦わずに休戦。
1866年5月 徳川家茂が陣頭指揮を執るが、薩長連合のために薩摩が出兵拒否。幕府側は各地で敗戦。
1866年7月20日 徳川家茂病死。
1866年8月21日 孝明天皇の休戦勅令が出される。
1867年1月10日 徳川慶喜が第15代将軍に就任。
1867年1月30日 孝明天皇崩御
1867年2月13日 明治天皇が皇位継承。13歳。
1867年11月9日 大政奉還
同日 倒幕の密勅
1867年12月9日 新政府樹立。大政の復古の大号令。
1867年12月25日 薩摩の挑発にのった旧幕府が薩摩藩邸の焼き討ち。慶喜の不在時。
1868年1月3日 鳥羽・伏見の戦いが勃発。
1868年1月27日 戊辰戦争
1868年4月11日 江戸城無血開城
但し、この無血開城は勝海舟と西郷隆盛の会談が実現したからなのだが、薩長のバックにいたイギリスのバークスという外交官が「もう徳川は降伏すると言ってるのに攻撃するのは国際法違反だ。それでも攻撃するのなら、もう新政府には協力しない」と圧力を掛けたから会談が実現したというのが後々の世で明らかになっており、そんなイギリスの圧力がなければ江戸は火の海になったと言われている。このバークス外交官の圧力なんてものも教科書には載っていないんだろうね。
それとね、倒幕の密勅が出されたのと、大政奉還が同じ日なんだよね。どっちが先なのって話も重要なんだけど、大政を奉還したことによって幕府は存在しないから、密勅の内容が更に重要となって、「徳川と、徳川に組するやつらを討て」という内容でなければ戊辰戦争の大義は無い。だから1867年12月25日に、薩摩の挑発に乗って薩摩藩邸焼き討ち事件は、見事に「短気は損気」を絵に描いたようなものなんだよな~。大政奉還によって幕府は無くなったんだけど、薩長にとっては、新政府の要職に残った徳川慶喜、京都守護職の松平容保(会津藩主)、京都所司代の松平定敬が目障りで、排除したかったんだろうね。だけど自分らから戦闘を仕掛ける訳にもいかず、旧幕府側からの開戦を待ちに待っていた、というのが真相だろうね
。
それにしても明治天皇の密勅がどんな内容だったのかがメチャクチャに重要だ。
ところがこの密勅、長州藩毛利家に保管され、「門外不出の非公開」とされた。はぁああああ? だよね。
っで密勅の原本が公開された事はないのだが、原本の写真が明治維新70周年を祝った「維新資料聚芳」(1936年)に掲載されたのだ。
これね~、よくもまぁ公開したもんだわ。深く考えてなかったんだろうね。というのも1936年って「二・二六事件」が起こった年で、満州事変が1931年に起きて陸軍というか関東軍がどんどん暴走して、国民もそれを歓迎して1937年の日中戦争に突入していく時期だからなんだろうね。
写真公開された密勅は翻訳すると次のような内容。
【徳川慶喜は武力で政治を奪い取った大悪党だ。これを武力討伐すべし】
なに? なんで? と思うよね。慶喜って15代目の将軍だぜ。武力で政治を奪い取ったって、もしかしたら徳川家康のことい言ってるのか? 確かに、大阪城の豊臣秀頼を攻め滅ぼしたのは家康で、秀頼は関白にはなれなかったけど正二位の右大臣だったから…………
まぁ、そんな書かれてる内容のことは置いといて、この密勅は、「偽物だ、とは断言できないが、明治天皇が認めた本物だとも言い切れない」と言われてる。
「勅」って天皇が自らの意思で誰かに書かせることもある。しかし大抵の場合はそれを奉じた者がいて、それを天皇が承認して勅旨となる。この密勅には、中山忠能、正親町三条実愛、中卸門経之といった三人が奉じた者として署名がある。
但し、ただしなのだが、天皇自身の承認印である「可」の文字がない。
それと天皇自身がこの書類を見た、中身を理解した、とされる日付がない。
そんなもんだから、岩倉具視の秘書である玉松操が草案を書き、中山忠能と正親町三条実愛の二人が分担で執筆したという見方が根強く囁かれているらしい。うん、囁かれてるの。流石に「あの密勅はインチキだ」と大声で言うヤツはいないよな~。だって「勅」だもん。
ずいぶんと映画から離れた余計な話が長くなったが、「十一人の賊軍」という映画の背景にある戊辰戦争は、「悪である幕府を倒して新しい時代を作るための戦争」ではない。だからと言って幕府側が「善」だったとも言えない。要は権力闘争だったと俺は思う。
そして教科書にあるようなーーー明治維新こそが日本を近代に導き、明治維新がなけれ日本は植民地にされていた」ということは有り得ない。上の方にも書いたが、当時の列強の植民地化は、対象となる国を借金漬けにして、そこから「借金返せねぇんなら租借地な」と持って行き、ゆくゆくは対象国全部を植民地にするという方法だ。最初っから武力でもって攻め込んで植民地にしてしまうというのは、先ずは無理だ。当時の列強であっても、せいぜい船から大砲を撃つぐらいしか出来ない。武力で征服するとなると地上戦が必要で、遠い本国から数万人単位の兵隊を投入しなければならばいし、当時の日本は列強国が驚いてしまうくらい攘夷思想が蔓延してて、長州など一つの藩だけでイギリス・フランス・オランダ・アメリカという四列強とヤり合うデタラメな集団で、薩摩では藩の行列を横切ったイギリス人をぶっ殺す生麦事件が起き、列強側にしてみれば「凄まじく切れる刀を絶えず腰に差している強烈な戦闘民族」が当時の日本人だ。うん、紳士じゃないの、めちゃくちゃに野蛮。だってさ~生麦事件の時に切られたけど逃げたイギリス人がいて、それを追いかけた薩摩藩士。逃げ切れなくって息も絶え絶えの瀕死のイギリス人が「ヘルプ、ヘルプ」って言ってたらしいんだけど、これは助からない、早く楽にしてやらねば……って、いきなりブスッだぜ。
だからイギリスとフランスは日本の内戦に武器を提供しながら煽ったのだ。
ここまで明治維新とか戊辰戦争を書いて改めて思うのは、奥羽越列藩同盟がなぜ出来たんだろう?って疑問だ。確かに新政府側の総督府参謀の世良って野郎があまりにも傲慢で、その態度にブチ切れた仙台藩士が世良を叩き切ってしまい同盟側につくしかなくなった、ってのもあるんだろうけど、大政奉還で幕府は無くなり、徳川慶喜は降伏。それなのに戦い続けた藩があって、新選組三番隊長の斎藤一は「会津を見殺しにするのは正義にあらず」といって部隊を率いて会津戦争に参戦。新選組副長の土方歳三は負傷によって会津戦争には参戦できなかったが函館に渡り五稜郭戦争に参戦。幕府も無く徳川も降伏した状況で誰の為に戦ったのか? これって武器を提供していたイギリスやフランスも驚いたんじゃないかな~。「こいつら自分が死ぬことを目的に戦争してんのか?」って。
唯一考えられるのが「新政府のヤリ方には我慢ならねぇ」って、憤りというか武士の誇り。それだけだったんじゃないのかね。
だが会津戦争は悲惨だったらしい。進軍してきた新政府軍がやった民間人に対する残虐行為は、女、子供に対しても容赦のないもの、というより、女とみればあえてヤった行為で、とてもここには書けない内容だ。そういった新政府軍の残虐行為に関する記録は不思議なくらい残っていない中で、「会津戊辰戦史」と「戊辰見分万筆」は極めて貴重な史料だと言われている。
追記
映画の話しとは全然違った内容を延々と書いてしまったが、「十一人の賊軍」という映画は凄く面白い。60年前に書かれた幻のプロットというのが先ずもって凄い。
なんせ全員死亡というバッドエンドの時代劇だ。そんなストーリーを昭和の30年代に映画化するのは無理だろうな。当時の日本映画で興行収入ランキングを調てみると、椿三十郎、赤穂浪士、用心棒、宮本武蔵、忠臣蔵などの時代劇があったが、どれも主人公が死ぬストーリーなどではなく、正義のヒーローが悪をやっつけるといった、視聴者が思わず喝采をおくるような映画だ。うん。そんな時代に「十一人の賊軍」というストーリーを考え出した笠原和夫というオッサンは凄い。
ところでだが、赤穂浪士、忠臣蔵、四十七人……題名は様々だが、現代の20代の人に言わせると「逆切れしたヤツらが集団で老人を襲いに行く話しのどこに感動するの? バカじゃない?」だそうだ。あはははははは………確かにさ~~完全武装した47人が夜中に押し入るんだよな~人様の家に。そう完全武装なの。鉄の鎖でできた鎧みたいなものを火事場衣装の下に着込んでるから切られたって死なないの。そんな奴らが夜中に刀を振り上げ、雄叫びを上げならら襲ってきたんぜ。ひっでーー話かもね。
最後に、「十一人の賊軍」には共通の正義はない。うん、これって解り難いんだけど、新政府軍を正義に描いてはいないし、新発田藩を正義に描いてもいない。そして最後まで新政府軍と戦う決意をした藩を正義に描いてもいない。皆が己の正義を信じているんだけど、そんな正義VS正義に巻き込まれた11人の「ふざけんじゃねーーー!! 俺はぜってーーに生き延びてやる!!」という、生きるための戦いを描いた映画だ。