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第59話 邦画「戦争と人間」

 この映画ーー「戦争と人間」は色んな意味で物凄い映画だ。うん、こんな映画は二度と作れないだろうな。というのも、この映画は東西冷戦の真っ只中で制作されたにも関わらず、監督自らソ連に撮影の協力を申し出て、ソ連がそれを了解して撮影された映画なのだ。


 中国が舞台の映画だが、制作当時は日中国交が樹立されてなく、北海道で撮ったシーンが多いらしいのだが、協力を約束してくれたソ連の好意によって、ラストシーンには本物のソ連軍戦車がゾロゾロ出てくるわ、撮影場所もソ連のボルゴラード近郊の大草原だ。とにかくスゲーーー迫力でビックリしちゃうから。戦車だって何十台出てきたんだろう……いや、桁が一つ違うかも。とにかく戦車部隊が日本軍を圧倒っていうか蹂躙だね。そんなシーンが凄い。日本の映画史上、後にも先にも無いんじゃないかな。本物のソ連軍の戦車の出演なんて。

 このシーンに出番が無かった山本圭なんて、「こんな撮影は二度と観られない」って自腹で参加して、死体役で出演しているらしい。



 この映画は戦争映画なのだ。それも日本映画史上屈指の「超大作戦争映画」なのだが、毎年8月になると戦争映画をテレビ放送するのが一種の風物詩のようになっているのが日本という国なのだが、いまだかつて「戦争と人間」を8月に放映したテレビ局はない。これって「ない!」って断言しちゃってるけど、絶対に無いと思うんだよね。


 大東亜戦争とか太平洋戦争、はたまた第二次世界大戦って、呼び方は色々なんだけど、軍に牛耳られた政府が日本を戦争に引きずり込んで、日本国民はそんな軍閥の被害者なんです。特攻に行った若い兵隊さん達は悲劇でしかないんです、って作りの戦争映画が多い。

 1960年代の西ドイツでは「国民がナチスを指示した。そういった政治的間違いを国民は認めなければダメだ」ということを知識人が働きかけを行い、現在に至っているのだが、日本ではそれがないまま現在に至っている。だから、軍が悪かったんだ、陸軍が力を持ち過ぎた結果なんだ、というおかしな被害者意識みたいなものがあるような気がする。

 実際に当時の日本人の多くはーーー数々の日記や公式記録、それに戦後の回想から読み取れる普通の人の考え方は次の通りだ。


 日中戦争の早期の終結は望ましいけど、賠償金や領土を得られないのであれば平和など望まない。

 戦争を経て日本、それに自分が豊かになることを心底期待する。


 というものであったのは明らかだ。要するに当時の日本人は、教育とか、上から強制されたものではなくって、帝国臣民としてのプライドとか民族差別を内面に持ち、領土拡大を望んでいた人が圧倒的に多く、その結果、軍が暴走して満州事変、更には日中戦争に繋がるのだが、その日中戦争は泥沼となり、引くに引けない状況下での太平洋戦争。いわば軍と国民は合わせ鏡というより、国民が望んだ勇敢で野蛮な軍、というような関係だったことを映像化したのが「戦争と人間」という映画だ。

 併せて言うが、誰が日本国民にそのような思想・考え方を根付かせたのか? 後々は洗脳的な教育なんだろうけど、日清戦争から太平洋戦争に発展する頃はマスコミだ。新聞各社がこぞって国民を煽り、軍を煽った。それが今では「我々マスコミは軍の圧力に屈し、まるで軍の手先になり果てていた」なんて被害者面した物言いをしてるが、アイツらが被害者であった時代なんて未だかつて一度だってない。唯一あるとするなら、戦況が思わしくなくなった時の検閲だろう。


 この映画に出てくる「満洲国」が当時の日本国民にとってどういう国だったのかというと「夢の国」、「最後の楽園」だ。第二次世界大戦に敗れて、満洲から命からがら引き揚げてきた人たちの話は、いろんな映画やドラマで描かれていたが、夢の国「満洲」を描いたドラマ・映画は殆どない。実際には200万人以上の日本人が満洲国に住んでいたのだから、政府だけではなく、マスコミが満洲国設立と、その国への移住を積極的に勧めたのかが解る。当時の日本は空前の満州ブームだったらしく、雑誌では連日のように満州特集が組まれ、満州旅行が人気だったという。そしてこんな歌も流行っていたそうだ。


「狭い日本にゃ住み飽きた、海の向こうにゃ支那がある」


 他国の領土なんか武力で奪い取れば良いんだ。それが日本の進むべき道なんだ。というような記事に溢れ、日本国民も「夢の国 満州」に陶酔していたのだろう。


 ちなみに俺は、左寄りの人間ではありません。真っすぐ真ん中に立っていると自分では思っているが、左寄りの人達から見ると極めて右寄りに見えるのだろう。そんな自分なのだが、偉そうに「真実を伝えるのがマスコミの役割だ」なんてほざいてる記者たちを見る度にヘドが出そうになる。


 そしてこの映画は、満州事変が起きる前から描かれ、満州事変からの満洲国の設立、おまけにノモハン事件による日本・ソ連の激突、そして第二次世界大戦、ポツダム宣言を受け入れての日本の敗戦、最後に東京裁判までを描こうとしていたらしいのだが、残念ながら、ノモハン事件という日本とソ連の激突までしか描かれずに完結となっている。

 日本映画での戦争映画といえば、真珠湾攻撃だったり、戦争末期の特攻隊を描いた映画が殆どで、満洲国設立、更には日中戦争、日本・ソ連の激突を描いたモノは皆無に等しい。そういった意味でもこの映画は貴重だし、凄い映画だと言える。


 っで、映画を観て率直に感じたのは、自分の勉強不足だった。「この当時、日本はどこと戦ったんだ?」との問いに正確に答えることが出来ない自分を改めて知った。日清戦争、日露戦争、日中戦争については、当然だが名前は知ってる。だがこの映画を観て、「ん? 清国と戦ってるのか? それとも中国か? 第三部の最後はソ連との激突だよな。ロシアではなく」といった具合に時代背景が良く解っていないのを痛感した。


 そもそも映画の中に登場する日本人たちは皆、「清国」とも「中国」とも言わないのだ。「シナ」と言うんだよね。人種名も「シナ人」、国名も「シナ」。確かに今でも中国人のことを「シナ人」と呼ぶ高齢の人はいるが、改めてシナってなによ? 「支那」と書くらしいが、中国の現在に至るまで「支那王朝」なんて国はない。「chinaチャイナ」の音訳って説が一般的らしいが、中国が「秦王朝」であった時代に「秦」の呼び方が周辺国に伝わった際、訛ってシナとなった説、はたまた雲南省にある都市「支那城」から由来したとする説など諸説あり、どうにもハッキリしない。

 そんなこともあって、この映画に描かれた時代背景なるものを改めて調べてみた。すると、満洲国設立までが物凄く複雑で、その複雑さは、ベトナム戦争以上のような気がする。だからこの映画の感想はすっげーー長くなる。


 ちなみに満州とう単語なのだが、「満州事変」とか「満州鉄道」という言葉を書く時は「州」で良いのだが、満洲国となるとサンズイの「洲」が正しいらしい。ただし、現在では「満洲国」でも「満州国」でも、どちらでも間違いではないとのことだ。


 それと俺はかろうじて知ってはいたが、「関東軍」のことを日本の関東地方にあった部隊だと思っている人が多いが、それは大いなる間違いです。もともとは「日本の鉄道会社である満州鉄道」を守るために作られた軍隊で、日本軍から派遣されてはいたのだが、歴史学者の中には「日本軍と関東軍」は別物と言い切る識者もいる。まぁ確かに、関東軍は設立当初は日本軍配下としての役割をこなしていたが、日本政府や参謀本部の指示・命令を無視して大暴走しちまうから、結果として「日本軍の指揮命令系統」と「関東軍の指揮命令系統」は違い、だから別組織だったということなんだろうね。



 この映画に描かれた背景は後に書くとして、まずは映画の内容についてを書こう。



 日活が総力を挙げてブチ上げた映画で、本来は4部作、もしくは5部作となる予定ーー15時間以上もの超々大作になる予定だったが、日活の経営状況が悪く、急遽、3部作でむりやり完結させた映画。それでも9時間20分の超大作だ。

 原作は五味川順平が書いた小説なのだが、その小説はこの映画が上映された当時でもまだ完結されていない小説のため、映画版の完結編(第三部)は小説よりも先行した、いわばオリジナル作品だ。余談になるが原作である小説版の作者:五味川は映画製作の進行を見ながら執筆を続けたらしい。それと小説版の資料収集をしていた人が映画作成にも深く関わっている。


 映画は1970年から1973年にかけて3部作が順次公開されているのだが、俺はつい最近になって初めてこの映画を観た。いや~~度肝を抜かれちまった。


 まずはキャストが凄いメンバーで、主役級の俳優・女優がガンガン出てくる。

 オープニングのキャスト紹介って、役の重さとか、その俳優・女優の有名度合いで順番が決まるのに、この映画のキャスト紹介って、あいうえお順なんだよね。そんでもって第二部はイロハ順。

 ちょっと有名どころを書くが、あいうえお順で、


 芦田伸介、石原裕次郎、大滝秀治、加藤郷、高橋悦史、高橋英樹、滝沢修、田村高廣、丹波哲郎、地井武男、中村勘九郎(子役)、二谷英明、三國連太郎、山本学、

 浅丘ルリ子、岸田今日子、栗原小巻、松原千恵子


 戦争映画だから出演する女優さんは少ないのだが、第二部以降からは、


 吉永小百合、佐久間良子、和泉雅子、夏順子が出てくる。


 夏順子という名の女優さんを知らない人も多いと思うが、1981年まで活躍した女優さんで、当時は売れっ子だったので顔を見れば思い出す人は多いはず。

 っで第二部以降で出て来た俳優さんは、


 北大路欣也、西村晃、加藤嘉、山本圭、


 っで凄いのが、大滝秀治、岸田今日子、栗原小巻、山本学が中国人役で、地井武男が朝鮮人、丹波哲夫はよくわからないけどきっとモンゴル人。だからたどたどしい日本語ーーー丹波哲郎だけは流暢な日本語で「こいつナニ人?」って思ったけど、中国語やら朝鮮語の台詞が多い役。

 その中でもチャイナドレスで中国風の髪形をした栗原小巻。実は、俺ってこの女優さんが嫌いだったんだけど、この映画の栗原小巻ってメッチャ可愛いくてファンになっちまった。1945年生れだから当時25歳~28歳なんだけど、かわいい………マジかわいいから。

 吉永小百合は、うん、この女優さんて、ほんとお人形さんみたいに整った顔してるよね。整形なんか無い時代でアノ顔は凄いと思う。この女優さんも1945年生れーーー栗原小巻と同い年なんだねーーだから当時は25歳~28歳。

 っで不思議なのが佐久間良子。映画の中では西村晃の嫁なんだけど、まだ学生の北大路欣也と恋仲になり、姦通罪スレスレまで行く役どころなんだけど、いったい幾つなの? 西村晃とは親子に見えるし、北大路欣也には若い叔母さんに見えちゃって…………1939年生れらしいので当時は31歳~34歳か。う~ん……そういう人っているよね。若い時はチョットばかり老けて見えるんだけど、年をとっていっても変わらない人。

 ちなみにだけど、松原智恵子も1945年生れだから当時25歳~28歳。浅丘ルリ子は1940年生れだから当時30歳~33歳。岸田今日子は1930年生れで当時40歳~43歳。


 っで、吉永小百合、栗原小巻、松原智恵子、浅丘ルリ子、岸田今日子の5人が映画の中でのベッドシーンがあるのだが、オッパイすら出さない。まぁ、エロい男性視聴者を喜ばせる映画ではなく、人間の営みとしてのセックスシーンなのだろうが、チョっと無理がある。というのも、絡んでる俳優さんの手でオッパイ隠してるんだぜ。不自然すぎるだろ。ただ、この映画を撮った監督が、「皇帝のいない八月」の監督:山本薩夫なのだが、どうやらベットシーンが苦手な監督だそうで、そういうシーンを撮るとなると、恥ずかしいのか照れてしまうのか、監督なのに見ていないらしい。

 そんな不自然なエロいシーンなのだが、やはり岸田今日子の醸し出すエロさは凄いね。どうにも妖怪めいた雰囲気の女優さんなのだが、いざ男と絡みだすと凄まじい。そんな岸田今日子に負けてなかったのが佐久間良子だ。裸にはならないが北大路欣也との濃厚なキスシーンがあって、「おおおおお、すげーな」と見入っちまった。



 まぁ、そんなラブシーンのことは置いておいて、この「戦争と人間」という映画では何を描いているのかを書こう。


 ここからは、まじめに、そうとうにお堅い内容となる。




 そもそも中国って現在に至るまでがエラく複雑。いろんな民族がいて、ある民族が征服したと思ったら別の民族に征服されて滅んだりと。ちょこっと纏めると次のようなありさまだ。


【夏】  但し、存在したという決定的な歴史的材料がない。しかし現在の中国では存在したとしている。

【殷】  考古学的には確実に存在していたとされている。中国では「商」と呼ぶのが一般的。

【周】  中国史上もっとも長く続いた王朝。但し、春秋戦国時代と呼ばれる群雄割拠の時代がずーーっと続く。この春秋戦国時代の末期あたりが漫画キングダムの時代背景。

【秦】  春秋戦国時代を終わらせ、中国全土を初めて統一した王朝で万里の長城なんかも造ったが、僅か15年で滅び、再び群雄割拠の時代になる。

【漢】  劉邦が群雄割拠の時代を終わらせ、中国を再び一つに統一。

【三国時代】魏、蜀、呉という三つの国が乱立し皇帝まで3人いた。日本でも超有名な三国志の時代。ゲームにまでなっていて、コアなファンが大勢いる。俺は趙雲より馬超が好きだな。但し、諸葛明孔明は存在はしていたようだが、あそこまでの天才軍師であったかというと疑問符がつく。

【晋】  魏の武将であった司馬一族が魏を乗っ取って作った国。そうなのです。三国志で有名な曹操一族、劉備一族、孫権一族のいづれもが中国統一という偉業を達成できていない。酷いね。

【五胡十六国】 匈奴や鮮卑など5つの異民族によって晋は領土の北半分を奪われ、16もの国が乱立。

【南北朝】南に逃げた晋は国力が低下し、王朝を「宋」に渡すが、宋→斉→梁→陳に王朝が変わっていく。

 北では16もの国が乱立したが鮮卑が治め「北魏」という国を造るが、東魏と西魏に別れ対立。だが東魏は北斉に、西魏は北周に乗っ取られ、最終的には北周が勝つ。

【随】  南は陳が、北は北周がそれぞれ支配していたが、随は北周から出て来た王朝で、その随によって中国は300年ぶりに統一された。

【唐】  隋は結局は乗っ取られてしまい、唐という王朝ができた。だが唐も将軍であった朱全忠に乗っ取られて終わる。

【五代十国】唐を乗っ取った朱全忠は「後梁」という王朝を造るが16年で終わる。そして次の王朝は「後唐」だが13年で終わり、次の「後晋」は8年、次の「後漢」は3年、最後の「後周」は9年と、短期間で目まぐるしく王朝が代わった為に、ひとまとめに五代十国時代と呼ばれている。

【北宋】 唐が滅亡した後はグチャグチャだったのを纏めたのが北宋。

【元】  モンゴル人による王朝で、皇帝チンギスハンが登場。なぜ北方にいたモンゴル人が中国を支配できたのかは、五代十国時代の「後晋」が元凶。そもそも後晋は北方移民の援助を受けて建国していたため、その見返りに万里の長城の一部を渡していた。北側からの外敵を防ぐために造られた万里の長城を渡したらダメだろ。案の定、チンギスハンは楽々と侵入してきて「北宋」を滅ぼし、その後100年に渡りモンゴルによる中国統治が続く。鎌倉時代の日本に攻めてくる。

【明】  再度、中国人による統治が「明」によってなされるが、独裁に近い政治となり、豊臣秀吉が攻め込んでくる。

【清】  満洲族という少数民族によって建国された国。海外との貿易や接触を盛んに行うが、戦争に負け続け、列強の食い物にされる。だが、過去の王朝から引き継いだ領土を格段に広げた王朝でもあり、その領土は現在の中国と変わらない。だから現在の中国を作り上げたのは、中国人ではない満洲人が作った清王朝だとも言える。

【中華民国】辛亥革命によって清王朝を倒したものの、あまりにも広い中国を統治出来ないまま、中国共産党に敗れ、台湾に逃げた。

【中華人民共和国】中華民国を破り、1949年に誕生。



 映画の話に戻るが、「戦争と人間」と言う映画は、清王朝が滅んでからが時代設定なのだと思うのだが、上にも書いたように、清王朝を倒した中華民国は中国全土を支配していないのだ。なので、満州鉄道が爆破された当時、なんという国が当時の中国を支配していたのかとなると、政府はあるものの全土は支配していないという、ちょっとした空白期間だったのかもしれない。

 ちょっと清王朝について詳しく書いておこう。


 1616年、ヌルハチという人物が女真族を統一して「後金」という国を造った。二代目皇帝の時に国名を「清」と改め中国へ侵攻する。三代目皇帝の時に「明」を滅ぼし、北京を新しい都として中国全土を支配する。清王朝は女真族ーー満洲人という異民族が支配した国なのです。

 1840年にイギリスの侵略戦争ーーアヘン戦争に負け、清国はヨーロッパ勢のアジア植民地の第一歩となる。1856年に第二次アヘン戦争が起きで清国はボロボロにされる。だが漢民族の独立意識の目覚めにもなる。1894年に日清戦争が起こり敗れ、朝鮮半島の影響力を失い、台湾を日本に割譲、そして巨額の賠償金。っで1912年に清王朝は滅ぶ。

 だから中華民国が設立されたのも1912年なんだけど、その数年前に起きた日清戦争で清国が敗れたことによって、諸外国からは「清国は眠れる獅子」と称されていたのが「眠れる豚だ」とか「東洋の病人」と見下される結果となり、中華民国となってからも列強からの干渉は続き、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアなどによる中国分割支配の動きは加速していく。


 そんな情勢だからなのか、上にも書いたが、日本が戦っていた国って、いったなんていう国だったの? が妙に分らないのだ。

 そして映画にも盛んに出てくる「満洲国」ーーー国連には承認されなかった日本の傀儡国なのだが、この国が出来たのが1932年だ。っで建前上は女真族ーー満州人の国だから、その20年前に滅んだ清王朝と同一民族。清王朝の最後の皇帝が満洲国の執政に就任している。よく殺されていなかったもんだよね。ラストエンペラーって映画で、この清王朝最後の皇帝かつ満洲国の執政の生涯が描かれている。


 ここまで書くと、書いた俺ですら発生したイベントがイマイチ解らんし、この映画ではどこからどこまで描かれたのかが解り難いから、ちょっと書き直す。



 先ずね~、映画とは直接関係しないんだけど、日本陸軍と海軍、それと関東軍の設立にちょっと触れることにする。


 日本陸軍が誕生したのは1871年。長州藩の大村益次郎ーー確か大河ドラマ「花神」の主人公ーーが天皇の護衛を目的に作った護親兵が陸軍の始まり。

 海軍は江戸時代からあったとされる説もあり、陸軍とは設立に違いがある。輸送船や貿易船の護衛が主な役割。

 関東軍は上にも書いた通り、一応はに日本軍の配下であった……はずだった。というのも日本軍には総帥権というものがあって、天皇が総帥権を有する大元帥で、軍を動かす権限みたいなものが総帥権なんだけど、関東軍もその権限が及ぶ組織だから、勝手に戦闘を開始したら死罪なんだけど、結局は勝手にヤっちまう。



【日清戦争】1894年~1895年。朝鮮半島の支配権をめぐっての戦争。だが日本の建前では「朝鮮の独立」を掲げていたから朝鮮王朝は実質的に清国の属国だったのでしょう。というのも、朝鮮王朝の王様が死んで、その父親と、死んだ王様の嫁が権力争いを始め、親父が清国に、嫁が日本に擦り寄った。そして親父の方が一気にカタをつけうとクーデターを起こすが、後ろ楯の清国が「そりゃ~ヤりすぎだべ」ってんで嫁の方を応援。嫁による政治が始まったものの、その嫁は「なんだか日本って頼りにならないわね」って感じたらしく、あっさり清国に擦り寄る。この頃から日本と清国は朝鮮の支配権をめぐって対立していたのだが当の朝鮮王朝はな~んにもしないで、どっちかに擦り寄るだけ。

 しばらくすると朝鮮半島でおかしな宗教が流行り出す。「東学」という宗教で、その中身は、儒教、仏教、キリスト教、道教、さらには民間信仰までがッゴッタ混ぜの訳の分からない宗教なのだが、すごい勢いで流行り出し、ハラが立った朝鮮王朝は開祖をブっ殺すが、そのせいで余計に流行る。

「東学」という宗教は諸外国による侵略に対して反対運動を始め、1894年に大規模な反乱に発展。鎮圧できない朝鮮政府は清国に「助けて~」と抱き着く。抱き着かれた清国は直ちに軍を派遣。この時の清国は紳士的で、日本に対しては条約に基づき「困ってる朝鮮を助ける為に軍を派遣したから」と知らせを送ってきている。その知らせを受けた日本も速攻で軍を派遣。そして朝鮮半島上で両軍は睨み合い、清国への交戦の口実が欲しい日本は、朝鮮王宮を占領し「清国軍に撤退要請文を書け」と迫り、朝鮮王朝は「はいはい、了解」と直ぐに書くが、撤退しない清国軍に日本軍が攻撃を開始して日清戦争が始まった。

 戦争の前半では朝鮮半島が主戦場だが後半では清国内が戦場だ。でも朝鮮王朝は中立。「東学」という宗教団体が起こした反乱は、日本軍と朝鮮軍でボコボコにした。

 日清戦争は日本の勝利で終わり、清国は日本に巨額の賠償金を払い、台湾や遼東半島などを割譲する。そして清国は朝鮮の独立を認め宗主国ではなくなった。これが下関条約。


【三国干渉】1895年、南下を目論むロシアが日本にイチャモンをつけ始めた。「遼東半島取られた清国ってかわいそう過ぎるだろ。返してやれって。台湾だって貰ったんだろ、欲張るなよ」と。そのロシアのイチャモンにドイツとフランスも乗っかった三国干渉となり、日本は折れざるを得なかった。だが清国に返したはずの遼東半島は、ロシアの租借地となる。租借地って、領土は元の清国の領土なんだけど、統治権は借りたロシアの権利。ロシアにしてみれば「俺、借りてるだけだから。植民地なんかじゃねーから」って感じで上手くやられた。

 ロシアは一年じゅう凍らない不凍港を手に入れて貿易を活発化したく、とにかく南下政策に力を入れていたのだが、日本では「ロシアの野郎、ふざけんじゃねーーー!! 日本軍は腑抜けの集まりか? ロシアなんぞ叩きゃーーいいんだ!!」という国民感情が高まる。そんな声に押され、清国から貰った賠償金の98%を軍事増強につぎ込む。

 朝鮮王朝は「俺たち独立したんだもーん。けど日本ってロシアの言いなりじゃん。意外と弱いんじゃね?」と親ロシア派が形成され、その派閥の中心人物は王妃として実権を握っていた閔妃。それを知った日本公司の三浦なる人物が宮殿に忍び込み、閔妃をぶっ殺して、死体を焼き払っちまった。

 この事件ってね~~、共謀した者が何人かいて、その1人が小早川って新聞社に勤める民間人なんだけど元は熊本で小学校の教師らしい。っで凄いのが、暗殺に加わった日本人全員が「閔妃暗殺は日本の将来に大いなる貢献をする快挙である」と信じていて、こんな暴挙は日本を窮地に追い詰めるかもしれないなんて、これっぽちも考えてないの。そんな考えが当時の日本人の大半だったのだろうね。というのも、一国の公司が、その在任国の宮殿に忍び込むだけでもメチャクチャなのに、王族を殺して焼いちまったって………でも日本国内では、「公司の行動は愛国心からきたものだ」と理解され非難めいた声は上がっていない。だけどさすがに諸外国からの非難が凄くて、日本国内で三浦なる人物を裁判にかけたけど、関係者には大した証言もさせてないから無罪放免。そんなことでこの事件は日本では闇に葬られた事件なんだよね。


【大韓帝国】1897年。下関条約で近代的な独立国家として認められた朝鮮王朝は「俺たちは清国や日本と対等んなんだぜ」ってことで国号を「大韓帝国」とした。っで国王は皇帝に格上げ。帝国を名乗る根拠は、古代の三韓や高麗といった複数の民族が朝鮮半島にいて、そういった韓民族を統治する国家だから帝国を名乗るのがふさわしい、というもの。だが、ロシア帝国と日本との抗争に巻き込まれ、急速に独立国家としての存在が怪しくなっていく。


【義和団事件】1900年。清国の山東省で生まれた宗教団体「義和団」。義和団のスローガンは「清国を助け西洋を滅ぼそう!!」だ。これがキリスト教の布教を侵略と捉えていた清国民からの支持を得て、キリスト教の教会や大使館を襲撃する事件が増えていった。っで、ヨーロッパ諸国が作った鉄道や電柱を破壊し、ついに20万人の義和団が北京を占拠し、外国人外交官を殺しまくった。日本やヨーロッパの主要国は義和団と戦う事に。

 清国を統治していた西太后は、当初は義和団の暴動を鎮圧するはずだった。だけど全然鎮圧できない西太后は、「やばいかも………このまま暴動が続いたら、ウチの国はもっと分割されちゃう……」って思い悩み、キレテツの作戦を打つ。イギリス、フランス、オーストリア、ロシア、英国領のインド、アメリカに宣戦布告をしちまった。義和団と手を組んで欧米列強を排除しようって考えたんだろうけど、この女、頭こわれたんじゃないのかね? 唯一の味方が義和団だぜ。農民の集まりだぜ。素人集団だぜ。かたや当時の世界最強の陸軍勢ぞろいだ。どうやって勝てるんだよ? 俺さ~~義和団もそうとうに驚いたと思うんだよね。「なに? 宣戦布告って……どこに? ………はい? 8カ国全部だ?? おっ、おめぇ……どうすんのよ?」って感じで。っで案の定、清国に宣戦布告された列強連合軍は北京に猛突撃。この戦いってどれくらいで決着ついたんだろう? まさか1日や2日ってことはないだろうけど、ギネスに載ってないかな?

 敗戦国となった清国は、列強との講和交渉に全権を李という人物に与え、その際西太后は「清国と私の地位さえ無事なら、あとはなんだっていい!!」と言い放ったとか。締結された北京議定書は法外な賠償金、それと北京周辺への軍隊駐留権と大使館周辺の治外法権。そしてこの議定書を基にして清国の更なる分割が加速。

 義和団事件で最も頑張った国が日本とロシアで、この2国が北京議定書で最も利益を上げた国だ。日本は北京占領にあたって規律ある行動と皆勤賞的な働きに「東洋の憲兵」と呼ばれるようになる。かたやロシアは満州や外蒙古一帯を占領し、日本が影響力を強めていた朝鮮と敵対する位置まで進出。

 だから義和団事件が「日露戦争」の直接的な原因を作ったと言える。そうなのです、言い換えると、頭こわれた西太后ってババーが日露戦争の原因。


【日露戦争】1904年~1905年。映画には直接関係ないからから大半を省略するが、ちょこっと触れておこう。1900年にやっぱりロシアと仲が悪かったイギリスと同盟を結んでいた日本は、着々と戦争準備を進めていて、日本側からロシアへの宣戦布告。物凄い犠牲者を出しながら203高地を占領した日本軍はロシア軍の要塞:旅順に攻め入り、旅順に陣を張るロシア軍が降伏。続いて満州を確保するため24万人もの大部隊を組織した日本軍は奉天を占領。ちなみにこの奉天会戦は両軍合わせて60万人もの大規模な戦闘となった。そしてあの有名な日本海海戦だ。バルチック艦隊の目の前で日本海軍の150度の大カーブといった奇襲が大成功し、バルチック艦隊は軍艦1船がかろうじてウラズオストクに入れたという完全なる壊滅。かたや日本海軍はわずか軍艦1船が沈没という被害状況。

 ロシアの希望であったバルチック艦隊の壊滅。それとロシア国内で血の日曜日事件が起きたこともあって、これ以上の戦争継続は不可能となったロシア。かたや日本も金が無かった。っでアメリカの仲介でポーツマス講和条約が締結。その内容は、韓国を日本の影響下と認める。旅順港を日本の租借地とする。南樺太を日本の領土としオホーツク海での漁業権を認める。賠償金は支払わない。戦争自体は引き分けのような格好だが、実質、日本の勝利。日本に負けたロシア国内ではロシア革命に繋がっていく。だが勝った日本も無事では済んでいない。国民の怒りが爆発したのだ。「勝ったのになんで賠償金取れてねぇんだ! っざけんじゃねぇ!! もういっぺん攻めて来いや!!」と暴動が起きた。有名なのは「日比谷焼き討ち事件」だ。東京の日比谷公園に3万人もの怒れる群衆が集まり、東京都の交番が多数破壊され、17人が死亡、約千人の負傷者を出し、当時の内閣が倒れた。


 日清戦争後の三国干渉もそうだし、日露戦争の講和内容にも、日本国民は怒り狂ってた。その怒りの根っこにあるのは、「もっと戦って来い!」、「他国の領土と金を奪いとって来い!」なのだ。だから上にも書いたように、軍が勝手に暴走して日本国民を戦禍に引きずり込んだ、というのは全然違う。国民感情に突き上げられた軍が大して考えもしないで戦争に突き進んだ、というのが真実だと俺は思うぞ。だってさ~、203高地だって映画になってるけど日本軍は強烈な犠牲を払ってる。そしてその訓練の八甲田山だって、訓練なのに全滅でしょ。ロシアには絶対に勝たなきゃならないって悲壮な決意が窺えるんだけど、その決意の裏には「怒ってる国民」がいて、もう「ヤらなければ日本には帰れない」って感じだったと思うな。


【南満州鉄道会社設立】1906年。元々はロシア帝国が作ったシベリア鉄道の支線ーー東清鉄道の一部と言ってしまえるほど簡単ではなく、三国干渉によって遼東半島を返還させた見返りにロシアは東清鉄道の敷設権を獲得。そしてシベリア鉄道から分岐させて満州を横断しウラジオストークに繋がる清国の鉄道なのだが敷設権と経営権はロシアだった。更には遼東半島南部をロシアが租借し、ハルビンから旅順までの南満州支線の敷設権をロシアが獲得。それがポーツマス講和条約によって南満州鉄道の経営権が日本のものとなった為に、日本は「南満州鉄道会社」を立ち上げた。

 ところがこれにアメリカが反発し、南満州鉄道の共同経営を申し出て、当時の日本国首相と合意し仮締結までいった。これって至極まっとうな判断で、日露戦争で金を使い切った日本としては、列強の一つであるアメリカさんとは上手くやっていこうとするのが当たり前なんだけど、日本国内の強い反対で仮締結は破棄。これってね、やっぱり日本国民なんだろうね。「はぁあああ?? アメリカと共同経営だ?? なめんじゃねーぞ! そったらアメリカなんぞ叩きゃ~いいんだ! ほら行けよ、攻めろって、宣戦布告だ、バッキャロー!」ってなもんだろうな。っで結果としてアメリカと対立。そこで日本は超ウルトラCの外交を展開する、なんとロシアと日露協定を締結してアメリカに対抗したのだ。すげーよな。つい数年前に互いに何十万人を殺し合った敵国同士が手を結んだんだぜ。ヤるじゃん。


【辛亥革命】1911年。清国政府軍の兵士が反乱を起こし、それがどんどんと広がり、蜂起軍は清国からの独立と共和国樹立を宣言。


【中華民国の建国】1912年。孫文が臨時の大統領となり中華民国が成立。アジアで最初の共和制国家。首相であった遠世凱が大統領となり、清国を滅亡させた。最後の皇帝は溥儀。退位した時は6歳。

 だが遠世凱大統領と孫文に溝ができ始め、孫文は国民党を作るが、遠世凱大統領は国民党を解散させる。日本に亡命した孫文は東京で中華革命党を組織する。


【第一次世界大戦】1914年~1918年。世界大戦なのだが基本的にはヨーロッパの戦争だ。だがイギリスと同盟を結んでいた日本は喜んで参戦しドイツに宣戦布告。ドイツが占領していた中華民国の一部を攻撃して占拠。ちなみに遠世凱大統領率いる中華民国は中立なのだが、日本はその中華民国に「二十一カ条の要求」をつきつける。この要求って凄いんだよね。もうメチャクチャ。


 ①ドイツが持ってた中国での利権全部をよこせ。

 ②関東州と南満州鉄道を借りてるけど、その期間を99年間延長しろ。

 ③中国最大の製鉄所の共同経営者にしろ。

 ④中国の港と島々を他の国に譲るな。

 ⑤中国の警察・兵器製造・鉄道の権利全部を譲れ。


 さすがに⑤は他国から猛バッシングを浴びて削除された。当の中華民国はこんな要求など跳ね返したかったのだが、そんな力もなく、又、世界大戦の真っただ中でもあり、中華民国に構ってる暇のある国はいなかった。それにイギリスもフランスも、ドイツを追っ払った日本に対する見返りという意味合いがあったらしい。っで泣く泣くこの要求を受け入れたのだが、中華民国では大規模な反対運動が起き、それを収めようと遠世凱大統領は皇帝となる。これって凄いよね、どうしていきなり皇帝なんだろう。共和制を辞めた訳じゃないんだよね。でも国内からの反発、それとイギリス・フランス・日本・ロシアが「なにが皇帝だ。眠れる豚の分際でバカじゃねぇの」と反対したもんだから、遠世凱皇帝は失意の内に死亡。

 大戦終結後のパリ講和会議で中華民国は、「オレ中立だったんだぜ、参戦なんかしてねーし。なのに何でこんな目に合わなきゃならんのよ。おっかしーべや」と盛んに申し立てたが、イギリスやフランスは日本との関係を優先して中華民国を無視。っで中華民国は泣き寝入り。でも日本国民は大喜び。


【ロシア帝国の崩壊とソ連の誕生】1917年~1922年。第一次世界大戦の最中の1917年。血の日曜事件やらで日露戦争に実質的敗北したロシア帝国は、もうグッチャグチャになっちまって臨時政府が樹立。皇帝のニコライ2世は「俺がいるのに何が臨時政府だ!」と武力鎮圧をするけど失敗。っで「俺もうヤ~めた」って退位。そして弟のミハイルに譲位を発表したんだけど、当のミハイルが「冗談じゃねぇ! こったらボロクソ帝国の皇帝なんか出来るか!」って拒否。っで1917年にロシア帝国が終わった。でもそれ以降もすったもんだが続いて、ソビエト社会主義共和国連邦が成立したのは1922年。


【中国国民党と中国共産党】1919年。中華民国では民族の主権回復運動が盛り上がり、日本で中華革命党をつくった孫文が帰ってきて大衆政党としての国民党を立ち上げ、それとは別にマルクス主義を基にした中国共産党が結成される。

 中華民国の政府は、というと、遠世凱が死んだ以降はこの孫文って人が「中国の革命の父」って呼ばれてて、実際に凄い人だったみたいで、「国共合作」ってスゲーことをやってのける。要は、中国共産党員であろうと「俺達の国民党に入れるんだぜ」ってことなんだけど、それが実施されて国民党と中国共産党の連携が始まる。だけど孫文さんが死んじまった以降は蒋介石が国民党の実権を握った。この蒋介石さん、実は大の共産党嫌いだった。そんなもんで国共合作なんてものは耐えられないもので、「国共分裂」となる。そんで南京に「南京国民政府」を樹立し北伐を進める。だが日本軍ーー関東軍は「おいおいおい、国民軍のやつら俺たちの満州にも来るんじゃねぇの」と考え、国民政府軍に攻めかかり、打ち破るという「済南事件」が起き、これが排日運動を強めた。

 ただし、この南京に樹立された「国民政府」なんだけど、清国が滅んだ以降の政府は北京にあるんだよね。この北京の政府がいつの間にやら「軍閥政府」になってたもんだから、それに対抗して作ったのが「国民政府」。この経緯もややっこしくて、清国が滅んで直ぐに臨時大統領になった孫文は南京を首都にして中華民国を立ち上げた。だけど北京で実権を握っていた遠世凱が孫文らを弾圧して、自らが中華民国の正式な大統領に就任。この時の中華民国の首都がどこなのかはハッキリしないんだけど、政府は北京にもあった。

 っで「南京国民政府軍」は北伐を推し進め「北京の軍閥政府軍」と激突。日本軍に局地戦で敗れた南京国民政府軍であっても「北京の軍閥政府軍」には勝利する。負けた軍閥政府軍のリーダー張作霖は満州に逃げ込み日本に助けを求めるが、日本軍ーー関東軍はこれを無視。金も軍事力も持っていないヤツなんか利用価値はないと考えたんだろうね。これにハラを立てた張作霖は、あろうことか蒋介石の軍門に下り、満州に国民政府軍の旗を立てた。これで国民政府による北伐は終了。

 国民政府は建前上は中国全土を統一をした。この段階で中華民国の首都は南京であると名実ともにハッキリした。だが、中国全土の統一と言っても実際は、満洲は日本が押さえ、そこらじゅうが欧米諸国の租借地ーーー実態は植民地でもあり、統一には程遠い実態なのだが、蒋介石は中国共産党排除という内戦に情熱を傾けた。とにかく共産党をそうとうに嫌ってたんだろうね。もう、憎んでる状態。そんなんだから蒋介石に追いかけられまくった中国共産党は逃げに逃げて、その間に、毛沢東が共産党の主導権を握り、周恩来が補佐をするという体制が出来上がった。


【張作霖爆殺事件】1928年。爆殺って凄いよね。元々は北京にあった軍閥政府のリーダー的な人物が張作霖なんだけど、国民政府軍に敗れて、日本軍からも相手にされなかったのを根に持って蒋介石に擦り寄った人物なんだけど、乗っていた列車もろとも爆破されちまって細切れの肉片に。これって日本軍ーー関東軍の仕業。

 日本政府は張作霖のことをドンドン嫌いになっていたのは間違いないようなんだけど、だからと言って殺せなんて命令は出していない。関東軍が単独で勝手にヤった。それも列車を爆破するという荒業。統帥権を無視して軍を動かした関東軍のトップは本来なら重罪。だから関東軍はこの事件を公にはしていない。だがこの事件は昭和天皇の耳に入り、激怒した昭和天皇は当時の首相に「これはテロだ! すぐさま犯人を捕まえて厳重に処罰するように!」と厳命。だが関東軍が猛反発してどうにもできなかった首相は、昭和天皇に対し、テロを起こした犯人より警備責任がある関東軍が悪い、というような言い訳をした。それを聞いて更に激怒した昭和天皇は「話が全然違う!! もうお前の話など聞きたくない! 出て行け!」と追い出し、天皇に嫌われた首相が首相を続けられる訳など無く辞任。


【柳条湖事件】1931年。蒋介石率いる国民党が勢力を伸ばし、徐々に満州にも及ぼうとしていた。そこで関東軍は満鉄の一部ーーー柳条湖付近を自ら爆破し「やりやがった! 国民党がやりやがった!!」と発表。この爆破の被害は実際は大したことなくって爆破直後に急行列車が通行しているが無事だった。だがそんなことはどーだっていい関東軍ーーー急行列車が通る時間帯を把握していなかったんじゃないのかねーーーは直ちに中国軍に対する攻撃命令を出す。満州にいた中国軍はごく少数なのに、関東軍は朝鮮にいた日本軍にまで応援を依頼。統帥権なんて完全無視の独断先制攻撃。この時点で関東軍は日本軍とは別組織だと言えなくもないんだろうな。しかし日本国民は関東軍の暴走を英断と捉え、熱狂的に支持をした。新聞各社も戦争待望論を打ち出し、国民を更に煽った。

 かたや中華民国はというと、相も変わらず分裂&内紛。要は蒋介石は中国共産党が憎くて憎くて、日本との衝突は避けていたのだが、それでも国連に提訴はした。だがその国連は、中華民国内での共産主義やナショナリズムを脅威に捉え、日本に対してはスルー。


【満州事変】1932年。関東軍は満州全部を制圧。満州事変を立案・実行した中心人物って関東軍の参謀で石原ってヤツなんだけど、「世界最終戦争論」っていう予言めいた考えの持ち主。その予言というか考えは次の通りだ。


 西洋の代表であるアメリカと、東洋の代表である日本が最終戦争を行い、勝った方が世界の覇者となり、それ以降は戦争はなくなる。日本が勝つためには資源が豊富にある満州がどうしても必要だ。そして最終戦争は航空機での戦闘が主流となる。


 その頃の日本はというと、戦線を拡大せずに収める方針の若槻首相だったが、関東軍はそんな首相を振り切って戦線を拡大、若槻内閣は総辞職。次の犬養首相も関東軍の暴走を止めようとするが、五・一五事件で暗殺される。次の斎藤首相は「満洲国」を承認。ここで関東軍の暴走は、暴走ではなく日本政府が認めた正式な行動であったことになっちまった。

 日本国内の新聞は「守れ満蒙、帝国の生命線」と書き、関東軍を擁護し続けた。

 っで満洲国は関東軍が支配した国なのだが、辛亥革命によって清国最後の皇帝だった溥儀を担ぎ出す。よく生き延びていたもんだよね。実際は遠世凱との取引によって北京の紫禁城に幽閉されていたそうだ。それが1912年。その20年後に満洲国の執政となる。26歳の時だ。っで28歳の時に満洲国皇帝になってんだよね。清国の皇帝時代は宣統帝って呼ばれていたが、満洲国皇帝の時は溥儀と呼ばれてたみたい。関東軍がなぜ溥儀を担ぎ出したのかは、満洲人の漢民族への反感を利用しようとしたことと、満洲人による満洲国を演出するためだ。余談だが、第二次世界大戦が終結後、溥儀は中国側に戦犯として収容された時期もあるが、特赦によって出所後は、政治協商会議の全国委員を務め、最後は一市民として北京植物園に勤め、1967年に71歳で波乱跳んだ人生に幕を下ろしている。

 話を戻すが、国際社会は満洲国を認めなかった。更には中華民国が国連に「満洲国なんてふざけてるだろ。溥儀が皇帝だ? あんなの日本の操り人形だ」と異議を申し立て、リットン調査団が満洲国に派遣された。調査の結果「日本が満州で特別な権利を持つことは認めるが、満洲国設立は認められない」との結論が出され、日本は国連を脱退。


【盧溝橋事件から日中戦争勃発】1937年。中国共産党をひたすら憎んで追い回していた国民党の蒋介石が監禁される「西安事件」が1936年に起きた。監禁したのは日本大嫌いの張学良。この人物って関東軍に爆殺された張作霖の息子なんだよね。そりゃ~嫌うわ。っで、監禁された蒋介石は、「国民党と共産党が手を組む国共合作」を認め、抗日民族統一戦線が組織された。その後、中国国内で日本人が殺される事件が頻発。そういった最中に盧溝橋で軍事演習をしていた日本軍に中国軍が発砲。これ自体は大した発砲じゃなかったんだけど、それと同時期に上海で日本軍人が中国軍によって殺される事件が起きる。ブチ切れた日本軍ーーー関東軍が北京に侵攻。そして北京を占領。これを切っ掛けに7年にも及ぶドロ沼の日中戦争に突入していく。


【ノモハン事件】1939年。満洲国設立によってソ連と国境を接することになった日本。両国間でしばしば紛争が起きていた。前年の1938年に豆満江河口付近で日本軍とソ連軍が衝突している。この地域は満州とソ連と朝鮮の国境が複雑に絡み合う地域で、それぞれの国が主張する国境は食い違っていた。そんなデリケートな地域でソ連軍が国境を越えてきたとの情報が日本軍に入った。日本の参謀本部は朝鮮にいた師団に「威力偵察」を命じるが戦闘が本格化する。そして戦車やら戦闘機まで動員してきたソ連軍にボコボコにされた。だが満洲国にいる関東軍は「俺達が戦えば勝った。朝鮮に駐屯してる日本軍が弱すぎだ」と負けた要因の分析など一切しなかった。そして関東軍自体が、自分たちは日本軍とは違う軍隊と考えていたふしが窺える。

 っで1939年にノモハン事件が起きる。これってノモハン戦争とも呼ばれる大規模な戦闘なんだけど、当事者である日本とソ連の両国に、この戦争を記した記録が極めて少ないせいで詳細が解っていない。休戦協定がソ連側有利に進められたところを見ると、日本ーー関東軍の敗退が濃厚なのだが、ソ連軍の損害も甚大で、ソ連が日本を圧倒したとは言えないのだろうが………



 ようやっと映画の話に戻るが、このノモハン戦争が「戦争と人間」第三部・完結編のラストなのだ。

 ちなみになのだが、ノモハン戦争が起きたのは1939年の5月なのだが、同じ年の9月に、ヨーロッパではドイツがポーランドに攻め入り、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告をして第二次世界大戦が始まっている。だから、この映画ーー結局は日活の財政難で第4部と第5部は制作されてなく、ノモハン戦争がラストシーンであり、結果的に太平洋戦争ーー第二次世界大戦に日本が参戦していった状況は描かれてはいないのだが、これがかえって良かったんじゃないのかな? というのも日露戦争や第二次世界大戦を描いた日本映画はあるが、満洲国にからんだ関東軍を描いた戦争映画は殆どないからだ。


 冒頭にも書いたが、この映画を観て俺は「日本軍がソ連と戦ってるけど、これって日露戦争? でもこの時期ならロシアなんて滅んじまってソ連だよな。いったいどこと戦った戦争映画なんだ?」って、自分の不勉強を痛感した。


 映画のラストでは関東軍の大隊がボロ負けをする。3割がやられたら全滅、5割がやられたら壊滅、殆ど全部がやられたら殉滅って言われるけど、あの映画のラストはほとんど殉滅状態。

 上にも書いたが1939年に起きたノモハン戦争ーー関東軍VSソ連軍の詳細は不明だ。だが前年の1938年に起きた日本軍VSソ連軍の衝突は日本軍のボロ負け。映画ではその1938年の衝突と全く同じ結果をノモハン戦争として描いていることもあって、「左翼映画だ」とか「自虐映画だ」との批判がある。

 それでもあのシーンには目が釘づけになったぞ。北大路欣也は新興財閥の御曹司役なんだけど、戦争によって儲けていく実家に嫌気がさし軍に入隊し、あえて一般国民と同じ境遇に身を置く。そしてノモハン戦争で自分が所属していた大隊が殉滅してしまうが奇跡的に生き残り、味方がいない戦場を彷徨う。その時の北大路欣也のやつれながらも鬼気迫る表情と異様にギラギラした目は、恐ろしいの一言。うんうん、凄いラストだ。


 この映画はノモハン事件までしか描かれていないため、1937年に始まったドロ沼の日中戦争の行方も描かれてはいない。どうして7年間も戦うはめになったのか? 相手は中華民国といっても蒋介石の国民党と毛沢東の中国共産党がくっついたり離れたりしてようやっと出来た統一戦線だ。映画には関係ないが簡単に日中戦争の行方を書いておく。


 軍事力が圧倒的に有利だった日本軍が優勢に戦いを進めていた。「中国だってバカじゃないんだから、俺たちに勝てないことぐらい解ってるはずだ」、「ある程度追い詰めて、こっちにちょこっと有利な条件の和平を提案すれば終わるだろ。ハハハハ……」てなもんで和平交渉の提案をしたのだが、中国は交渉自体を拒否。和平の条件なんかじゃなく日本との徹底抗戦を主張。

 っで今度はドイツを仲介者に立てて和平交渉を提案するが、中国はこれも拒否。

 日本は「あ~そうかい」って感じで、上海を占領、その翌月には首都の南京も占領。っで「これでどーーよ。もういいだろ? 和平交渉するべや」と提案したが、中国は拒否。

 っで日本は「ほぉぉぉぉぉ……そこまで俺たちとヤりたんだ。ならヤってやろうじゃねぇか!!」てな具合。これって関東軍の暴走じゃなく、当時の日本の首相までが「中国との和平交渉なんてもんはもうヤらん! 武力で中国を制圧する!」と言い切っちゃう。「シナの野郎どもはシオドキって言葉を知らんのか」って感じでアッタマにきたんだろうね。

 一方の中国は首都の南京が日本に制圧されたもんだから、首都を南京→武漢→重慶と中国の奥地にどんどん移していったもんだから攻める日本軍は苦戦する。補給路が物凄く長くなってしまって、その補給路を防衛する為の戦力も必要。

 その次に日本がやった作戦は、中国政府の中にも日本との和平を望んでいる和平派がいて、その和平派のリーダー:汪兆銘に接近する。調べると汪兆銘は徹底抗戦派の蒋介石と対立していた。っで日本軍は汪兆銘に作戦を授ける。


「汪兆銘さんよ、あんた蒋介石と上手く行ってないんだろ? どうすんの? 今の中国政府にいたって、先が無いのはアンタが一番よく分かってるはずだ。俺たち日本があんたをバックアップしてやるから新政府を立てちまえって。………そうよ、汪兆銘政府よ。いいだろ? そしたら日本が汪兆銘政府と速攻で和平を結んじまうからよ。へっへっへ、どうだ? やるだろ?」


 この和平工作ーー汪兆銘工作って呼ばれてるらしいが、当の汪兆銘がその気になって実行した。日本が占領していた南京に新政府が立った。だが、この御仁、中国国内であんまり人望がなかったらしく、新政府を樹立したものの、汪兆銘について行く人がとても少なくて、立ち上げた新政府は上手く機能しなかった。更には中国国民からの支持は得られなかった。いわば失敗。


 当時の日本はアメリカから経済統制を受けていて、日中戦争ーーーもういいかげん止めたいのだが相手が折れてくれないために継続せざるを得ないのだが、その継続に必要な軍事物資が不足してきた。っで誰が言い出したのか知らないが、「だったらよ~、ドイツとイタリアと組んで、アメリカを脅すってのはどーよ? ビビって経済統制解いてくるぜ」

 そうなんです。日独伊三国同盟の当初の日本の目的はアメリカを牽制するためだった。だがアメリカを牽制するどころか、ブチ切れられた。「日本がそうきたんなら、こっちは日本への石油全部止めてやっからな!」と石油の輸出完全停止措置を食らった。


 っで日本は中国とヤり合いながら真珠湾攻撃に踏み切り、太平洋戦争に発展してく。

 この真珠湾攻撃って海軍なんだよね。日本陸軍でも関東軍でもない。

 結局、日独伊三国同盟結んでアメリカに対抗したことだって、日本国民は大喝采で新聞各社も英断だとの記事を書きまくった。っでアメリカとの緊張関係がどんどんと高まって、「海軍はいつ決断するんだ!! やられっぱなしか? アメリカを叩け!!」と追い詰めていったのは、陸軍と日本国民、それと新聞各社だ。


 ちなみに日中戦争は最後まで日本が優勢だったのだが、ポツダム宣言を受け入れたことで、日中戦争ーー大東亜戦争でも敗戦となった。



 映画の話から脱線しまくっちまったが、脱線ついでもこうちょっと書く。

 第二次世界大戦と太平洋戦争って言葉なのだが、諸外国では第二次世界大戦の太平洋戦場と呼ばれている。いわば太平洋戦争は第二次世界大戦の一部だという意味なのだ。

 では大東亜戦争って言葉はどーーして使われなくなったのか、というと、GHQが大東亜戦争という言葉を使う事を禁止したからなのだ。

 戦中の日本で使われていた大東亜戦争という言葉は、日中戦争と太平洋戦争を合わせてそう呼んでいた。

 そして大東亜戦争の目的ーーー建前でもあるのだが「大東亜共栄圏を設立し、アジアの植民地支配からの解放」だ。戦勝国となった連合国側としてはアジア諸国を植民地にしていた訳だから、大東亜戦争という名称は都合が悪い。だから使用禁止にした。それに新聞社が乗った。まるで手のひら返し。

 但し、アジアを植民地支配から解放するという目的。だか実際には侵略行為まで行っていたのが日本だ。その侵略行為の正当化に使われることを異様に毛嫌いする人たちによって大東亜戦争という名称は死語になりつつあるが、あの戦争でアジア諸国が独立したのも事実であり、いまだに大東亜戦争に関する論争は続いている。


 だが俺は言いたい。日本国民は、暴走した軍の被害者などではない。他国の領土を侵略することを強く望み、それを軍にやらせた。新聞各社も「もっと、もっと」と煽り続けた。

「戦争と人間」という映画は、当時の日本人のことを否応なく考えさせられる映画だ。


 追記


 五代家の当主を演じたのは滝川修って俳優さんで明治39年生れで平成12年に亡くなっているので知らない人が多いと思う。だけど映画だけでなくテレビドラマにもスッゲー沢山出てるから、顔を見たら「あ~あ~、この爺さん知ってるわ」って思い出す人は多い。

 この俳優さんはリアリズムを徹底的に追求した人で「新劇の神様」って呼ばれた人。この映画の中では「貧乏は本人にも責任があるんだよ」という台詞や「法は私たちには間違っていないのだよ」と息子や娘に諭したりして紳士的な父親でもあるが、企業経営のためなら戦争であろうと徹底的に利用するという非情で冷酷な経営者という役柄を見事に演じ切っている。

 原作者の五味川は、そんな滝川修の放つオーラと演技に敬服したという。そして「映像は強烈です。生の人間が姿と動きと声と顔もって出てくるわけですから。名優滝川修が、たまに眼鏡を触るぐらいで殆ど動かず、胸から上だけの芝居で、風格のある資本家の役を演じた。小説家が何十行書いても悲しい事に実在の人物には及ばない」と述べている。

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