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第52話 邦画 怪物

 この映画の感想はいたって真面目に書こう。だがけっこう長くなる。


 2023年に制作された映画「怪物」。

 監督は是枝裕和。配給は東宝さんだ。

 脚本は坂本裕二。

 原作はなく脚本家のオリジナル作品なのだが、是枝監督が他者が書いたシナリオを撮るのは珍しいという。

 この映画は2023年のカンヌ国際映画祭でクィア・パルム賞を受賞している。


 クィアという言葉に馴染のない人の為に書くが、もともとは性的マイノリティーの人達の総称として使われていて、昔は侮蔑的な意味合いだったのが、現代では定義不能な使われ方ををしている。

 自分が性的マイノリティーであると自覚はあるものの、LGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)というカテゴリーには当てはまらない、分類できない、謂わば「その他」になる人達を示すのがクィアという使わ方が一般的だ。

 だが従来言われていたLGBTは、今では「LGBTQ+」と言うらしい。ここで言う「Q」というのはクェスチョニングのことで、「自分でも性自認・性的志向がわからない。又は、あえて決めていない」人達を言い、「+」というのは「その他」なのだろうが、「Xジェンダー(性自認を男女の枠に当てはめず、性的志向も問わない)」、「ノンバイナリー(性自認を男女の枠に当てはめず、性的志向も問わない。更には、男女どちらの性として振る舞うのかという性表現も男女の枠に当てはめない、というのが特徴)」などの人を言う。

 だから「その他」の人達をどのように言い表すのかが解り難いのだが、しかし、あえて性的マイノリティーの人達をカテゴリー毎に分類する必要ってあるのだろうか? というのも、ある人は「自分はゲイである」と公表していたのだが、ある時期から「ノンバイナリーに変わった」と公表しており、広義としてクィアで良いような気がするのだが。

 蛇足になるが、仮に俺の嫁が「私、バイセクシャルなの」と言い出しても、「へ~そうなんだ」としか思わないだろうし、息子がもし仮に「女には興味が無い」と言い出したとしても、驚き、そして、苦労するだろうな、とは思うが、それは息子の人生だし、俺としては今まで通りに接するだろうし、そう言った意味では俺はきっと偏見は無いのだと思う、きっと。


 ちなみに俺はストレートな男性なのですが、それ故なのか、この映画「怪物」の主人公とその友人は、クィア:性的マイノリティーなのか、大いに疑問を感じた。

 是枝監督と脚本家がどのように考えていたのかによるのだが、しかし、この映画を視聴した印象は次の3点だ。


 ①詰め込み過ぎだ!

 ②放り投げ過ぎだ!

 ③ミスリードが酷すぎだ!


 多くの社会問題を詰め込んで、ミスリードによって視聴者を引き付け、だけど「あとは視聴者がどう考えるかです」というように放り投げてしまった感がある。だから映画に登場する二人の少年が性的マイノリティーだと解釈する視聴者も大勢いただろうし、カンヌの審査員の中にも大勢いても不思議ではない。


 二人の男の子は11歳という設定で確か小学5年生。この年齢設定が微妙過ぎる。

 人間学という聞きなれない学問がある。その人間学の識者の方がこのようなことを言っていたのを、何かで読んだことあがる。


「第二次性徴前の子供の心は極めて中性的である」


 これね、俺は大いに同意なんだよね。ただし、第二次性徴が始まる年齢って個人差が大きくて、平均すると、


 男の子は12~14歳頃

 女の子は10~14歳頃


 なにを言いたいかというと、第二次性徴前の子供が同性の友達同士でエッチな遊びをしていたからといって、それは決して性的マイノリティーではなく、それ以降の年齢ーー第二次性徴が始まって以降で自己認識がハッキリとしてくる、というものだ。だからこの映画の主人公ーー11歳の男の子の性的志向を決めつけてしまうのは、先ずは危険だと思うし、かなり曖昧な描写にしていたと思う。

 ちなみに俺の場合なのだが、確か、小学3~4年生だったと思うのだが、固くなったモノを友達同士で見せ合ったり、その友達が、こうすれば気持ちいいんだぜ、みたいなことを教えてくれたのを今でも覚えているし、又、その頃の男の子は変な時にスイッチが入って固くなったりして、小学6年生の修学旅行の入浴時に固くなってたクラスメイトなんかもいたが、誰もそいつのことを色眼鏡で見ることもなかった。誰もがアルアルで、あいつってデカいよなと言われていたぐらいだ。


 カンヌでクィア・パルム賞を受賞した過去の作品の中で、この映画は凄いと思った作品は、フランスの映画監督であり脚本家のセリーヌ・シアマが撮った「燃ゆる女の肖像」だ。

 ちなみにセリーヌ・シアマという監督は肉体的な性別は女性なのだが、自分が性的マイノリティーであると公表していて、この映画「燃ゆる女の肖像」の主演女優:アデル・エネルは、セリーヌ・シアマの元パートナーなのだが、その元パートナーを当て書きで作ったシナリオらしく、確かにあの役はアデル・エネル以外にはムリだと強く感じた映画だ。

 そしてこの映画「燃ゆる女の肖像」には自由というものが描かれている。男が殆ど出てこない映画なのだが、アデル・エネル演じるエロイーズ。そしてエロイーズの母親の伯爵夫人から「娘の肖像画を描いて」と依頼される女画家マリアンヌを演じたノエミ・メルラン。このエロイーズとマリアンヌが恋に落ちるのだが、それともう1人、伯爵夫人の屋敷で雇われている女召使いのソフイを演じているのがルアナ・バイラミ。この3人の女性がメインの物語なのだが、伯爵夫人が屋敷を留守にする5日間における彼女ら3人の女性が、身分の隔たりなど一切ない、実に自由な関係が描かれていて、それがとても良いのだ。

 ちなみに、エロイーズとマリアンヌは元々が性的マイノリティーではなく、「恋した相手が同性だった」という造りになっている映画だ。


 その「燃ゆる女の肖像」の監督セリーヌ・シアマが撮った「トムボーイ」という映画あるのだが、主人公は10歳か11歳の女の子なのだが、「ええ?? 男の子だと思った」というくらい髪の毛も短くして、綺麗な顔立ちなのだが、その年齢特有の中性的な顔立ちなのだ。その子の一家ーーー父親と母親、そして妹がいる4人家族が夏休みに或る地域に引っ越してくるのだが、主人公の女の子は、新たな土地で「自分は男の子である」としてコミュニティーに入っていく物語だ。

 そして男の子に混じってサッカーをやるシーンがあるのだが、「暑くなると男の子は上半身裸になるんだ。そして男の子ってツバを吐くんだ」と理解し、彼女もツバを吐いたり、上半身裸になって駆けまわるのだが、見事に胸が発達していないこともあって、「この役って男の子にやらせてるんじゃないのかな」と思ったりもした。だが、海に泳ぎに行こうと誘われ、彼女は家で水着を着て、それを姿見に映すのだが、うん、水着を着た股間が女の子だった。いや~~フランスの子役って凄いのが出てくるんだけど、彼女の演技は末恐ろしいの一言だ。

 っで、この「トムボーイ」という映画をなぜここで書いたのかというと、この映画もけっして性的マイノリティーを描いた映画ではないからだ。きっと……これは俺の想像なのだが、監督のセリーヌ・シアマが、自分がまだ少女であった頃ーーまだ自分が性的マイノリティーであると自覚していない、「男でも女でもない自由な年齢の頃」を描いた映画だと思う。

 そうなのです。「燃ゆる女の肖像」も「トムボーイ」も形は違えども自由というものが描かれていて、それが利いた映画なのです。

 併せてなのだが、「トムボーイ」で男の子としてコミュニティーに入っていった主人公は、サッカーも上手く、妹を守るために仕掛けたケンカでは男の子を捻じ伏せ、地域の男の子達から認められ、更には女の子からカッコイイ男の子だと思われキスを迫られる。その時の主人公の表情が、なんとも困惑しながらも嬉しそうなとても良い表情なのだ。

 なぜ主人公が男の子のふりをしたのかは明らかにされてはいないが、2つあると思う。1つは、とにかくサッカーなど男の子が好むヤンチャな遊びが好きなのだが、前に住んでいた地域では、女の子であるというだけで入れてもらえなかったのではないだろうか。それと彼女は6歳の妹をとても愛している。その妹が言うのだ、「私のことを守ってくれるお兄ちゃんがいい」と。そんなささいな理由のような気がする。

 そして映画の後半で、主人公は女の子であることがバレてしまうのだが、それは娘が名前を偽り男の子として振る舞っていることを母親が知ったからだ。母親は娘に言う、「これからどうするつもりなの!」と。そして嫌がる主人公にワンピースを着せ、腕を引っ張って連れて行く。主人公が捻じ伏せてしまった男の子の家、それとキスをした女の子の家に。

 このシーンで多くの視聴者は、「あまりにも理解のない母親に泣けた」と言っているが、俺はそうとは思わなかった。母親は娘のことをしっかり見て、そして知っていたと思う。まだ性認識が固まっていないと。そして、「これからどうするの!」という台詞が全てを物語っていると思う。というのも、夏休みが終わり学校が始まれば否応なく全てが明らかになる。それなのに、「どうして嘘で固めた姿で新たなコミュニティーに入って行ったの? 堂々と入っていきなさい」とたしなめたのだと思う。それ故に、捻じ伏せてしまった男の子の母親と、それとキスをした女の子の母親と、時間を掛けて話し合っているのが窺い知れた造りになっている。

 映画のラストがまた良いのだ。キスをしてしまった女の子が主人公に「あなた、なんて名前なの?」と聞いて終わるのだが、それは映画の最初の方でも全く同じ台詞があり、ここからが全ての始まりだと言っているようなエンディングなのだ。


「怪物」とは別の映画の話になってしまったが、10歳や11歳の性を扱うのなら、「トムボーイ」のような描き方が正解だと思う。「怪物」に出てくる男の子2人も、まだ曖昧な性認識に描いているようにも感じたが、いかんせん、他の社会問題などを詰め込み過ぎたせいで、そこらへんの描写が足りな過ぎる。


 蛇足になるが、俺が小学1~2年生の時に同じクラスになった女の子で、もの凄く「オテンバ」な女の子がいた。上に書いた映画の題名「トムボーイ」の意味は「おてんば」とか「ボーイッシュ」とか「男の子の遊びを好む女の子」という意味だ。だから、小学1~2年生のときに俺と同じクラスにいたその女の子は、まぎれもなく「トムボーイ」で、走るのも男の子より速く、それこそ男の子と取っ組み合いのケンカなんてしょっちゅうやっていて、それも強くて、その勲章なのか頬に傷がある女の子だった。それから同じクラスになったことはなかったのだが、小学4年生頃まで「オテンバ」だったのは知っている。そしてその子と何故だか同じ高校に入学した俺は1年生の時に同じクラスになった。9年ぶりだったのだが、その子から告白された。「好きです、付き合って欲しい」と。俺は3年間その子と付き合ったのだが、普通の可愛らしい女の子に成長していた。

 又、中学3年生の時に俺が好きだったクラスの女の子。結局は告白も出来ずにそのままなんの進展もなかったのだが、絶対にスカートを穿かない女の子だった。今考えると、もしかすると性的マイノリティーだったのかもしれないが、別々の高校に進学したのでその後の彼女がどうなったのかは知らない。



 蛇足やら余談やらが長くなったが、映画「怪物」に話を戻そう。

 この映画は3つの視点で描かれていて、それも余計だ、と俺は思っちまった。


 ①母親の視点

 ②教師の視点

 ③主人公:男の子の視点


 このように何人かの視点で構成される映画って、黒澤明の「羅生門」が最初じゃないのかな~。ま~1950年の映画だから、羅生門より古い映画でこのような構成があったとしても、そんな古い映画を観たことが無いから、知らない。

 だが羅生門は、一種の裁判映画だ。だから、証言する3人が自分に都合の良いように事実を曲げて喋る。そのため誰もが嘘を言っていて、視聴者も誰か正しいことを言っているのか全然分からなくて、それはミスリードーー作り手側の騙しとは違うから面白く視聴出来る。そして羅生門は、最後に全く利害関係が無いと思われる目撃者? もしかするとコイツの話も怪しいのだが、その目撃者の話を聞く限り、3人の証人の話は誰一人として本当のことを言っていなかったというオチなのだが、嘘という「誰かの思惑」がそれぞれの視点の元になっている。

 だが「怪物」は、全体を知らない、言い換えると、物事の一面しか知らない人の物語を最初に見せ、次に別の一面しか知らない人の物語を見せ、最後に「ぜーーーんぶが誤解でした!」という映画の造りは、いささかチョットって感じがする。


 そしてミスリードが、なんとも酷すぎるだろ、この映画は!


 ①の母親の視点

 ひとり息子が学校で虐められていると思い込む。これね〜あの状況で、息子がどういった訳か知らないが、本当の事を言わないから親なら虐められてると思うわ。そこで学校に苦情を言いに行く。だけど冷静だよこの母親。尊敬しちゃうくらい冷静に苦情を言うんだけど、それに対峙する校長と先生達が、「頭おかしいの?」ってくらいな対応しかしない。だからキレかかるんだけど、それでも我慢する母親。そして学校の隠ぺい体質に腹を立てる。


 ②の先生達の視点

 苦情を言いに来る母親がシングルマザーってこともあり、モンスターペアレントだと勝手に思い込み対応する。そして担任は、主人公の男の子が「イジメの被害者」ではなく「イジメの加害者」だと誤解している。


 だけどね、この校長と先生達の対応って作り過ぎだよ。あまりにも現実離れしていて、ちょっと視聴者をバカにしてないか? そう思う理由は3つある。


 先ずは担任。

 付き合っている彼女に「飴を舐めたら肩の力が抜けるんだよ」と教えてもらったこともあり、苦情の内容を説明している母親を前にして、飴を口に入れる。それを見た母親がキレる。こんな大人いる? TPOって知らないの? 時と場所、場合などを考えて行動するってことが全く出来ない担任って、教師にむかないというより、なんか障害もってるキャラ設定?


 続いて校長

 女校長なんだけど、反社会的な行動を躊躇わない良心が欠けた人なの? ソシオパス? 心底そう思ってしまう奇怪な行動しかしない、怖い女。


 そして数人の先生

 苦情を言いに来た母親に対し、異常とさえ思える謝罪を繰り返す輩。要は、学校に苦情を言いに来る親に対する「基地外じみたマニュアル」でもあるのかと思うような行動をするのだ。それは「親に喋らせない」ってマニュアルで、どうやって黙らせるかと言うと、


 親が喋り出したら全員で立ち上がって頭を下げる。

 決して頭を上げない。

 頭を下げる場所は、相手の顔に頭がぶつかりそうになるくらい接近した場所。

 下げる角度は150度以上。

 それを相手が喋り出す都度繰り返す。


 こんなマニュアルでもあって、それが成功体験に繋がってるんじゃないのか? ってなバカバカしいことを考えてしまう対応を先生達はやるんだよね。これね~~、確かにカスタマーハラスメントって社会問題になってるし、実際の教育現場で先生達の苦労って並大抵じゃないと思うけど、アレは無いわ。余計に燃料投下になるだけでしょ? 案の定、まともな対応をしてくれない学校に対し、母親は弁護士に相談し、それをマスコミが嗅ぎつける。とにかく小火を大火にしてしまう学校運営なんだけど、そのヤリ方が馬鹿げているっていうより現実離れしてる。それをこの映画にぶち込んだ意図はナニ?


 そして意味不明なのが何点かある。


 主人公の数少ない友達がクラスメイトにイジメられているのだが、その理由は「女みたいだから?」それとも「学習障害でもあるの?」が分らない。


 それと、結局は担任は学校を追われてしまうのだが、その切っ掛けになるのは担任が受け持ったクラス全員へのアンケートだ。そのアンケートでどの子も担任のことを「暴力教師」のような回答を出すのだが、それはなぜ? 生徒による先生イジメなの? あまりにも唐突すぎて理解できなかった。


 もう一つが、ソシオパス校長が映画の最後の方に見せる「いい人っぽい」のはなにを意味してるの? 十分に狂ってる描写をあれだけやっといて、「人は多角的なものですから、一面だけでは全てを理解する事はできません」な~んてことでも表現してるの? いやいやいや、仮にそうだとしても、あの校長の異様さというのは絶対に消せません。入院させるべき対象でしょ。


 それと、主人公が母親が運転している車からーー動いている車から飛び降りるシーンがあるのだが、あれは母親が言った事柄に地雷があったの? 「あなたも大人になれば普通の家庭を持って、子供を持って……」というような台詞だったと思うのだが、その台詞が地雷なのであれば、「僕は男が好きなんです。だから普通の家庭なんて……」ということなの? だとするとやっぱり性的マイノリティーがベースにある映画なの? いや~~だとしても小学5年生でそんな発想するかな〜。俺がストレートなせいなのかもしれないけど、あの行動だけでこの映画がそうだとはどうしても思えないし、だとすれば、余計な社会問題なんか入れないで、更にはヘンテコな三部構成なんて止めて、しっかりとその問題を掘り下げるべきだ。というのも、この映画で描かれた社会問題が幾つもあって、次の通りだ。


①学校にとって極めて厄介なモンスターペアレント

②重大な問題が起きても外部に漏れることを極端に拒む隠蔽体質の学校

③無気力で無責任で事なかれ主義の教師たち

④病んでいる教師

⑤良い子に見える子供たちによるイジメ

⑥親による虐待

⑦男の子は男らしくなければいけないという時代錯誤な道徳観


上記7つが盛り込まれた物語に、それプラス性的マイノリティーだぜ。全部が中途半端だ。




 この映画は最後まで視聴したが、もう一度観たいとは思えない映画だ。というのが俺の率直な感想で、これを読んでくれた皆さんには、是非「トムボーイ」を観てほしい。

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