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第30話 伊豆の踊子

 ここで感想を書こうと思っている「伊豆の踊子」は1974年製作の山口百恵バージョンについてだ。

 この映画は俗に言う「ゴールデンカップル 百恵・友和」の記念すべき第1作目なのだ。だが俺は、山口百恵が出演した映画やドラマは今まで一切観た事が無かった。どうせアイドルが主演の映画なんてオチャラケで中身なんざな~~んも無ぇものだろ、ってんで見向きもしていなかったのだが、いやいやいや、この映画は「アイドル目当ての人だけをターゲットにした映画」ではなく、正直かなり驚いちまったぜ。普通の映画ファンの人が観ても十二分に耐えられるどころか、原作:川端康成の名前に恥じない「良作」に出来上がってた。うん、いい映画だ。


 監督は西河克己、脚本は若杉光男。

 主な登場人物は、三浦友和、中山仁、それと石川さゆりが出演している。



 ちなみに「伊豆の踊子」は過去に幾度も映画化されていて、踊り子役は次の通りだ。


 田中絹代(24歳)  1933年(昭和8年)公開  監督:五所平之助

 美空ひばり(17歳) 1954年(昭和29年)公開  監督:野村芳太郎

 鰐淵晴子(15歳)  1960年(昭和35年)公開  監督:川頭義郎

 吉永小百合(18歳) 1963年(昭和38年)公開  監督:西河克己

 内藤洋子(17歳)  1967年(昭和42年)公開  監督:恩地日出夫

 山口百恵(15歳)  1974年(昭和49年)公開  監督:西河克己


 そして最高傑作と言われていたのが1967年の吉永小百合バージョンなのだが、それを撮った西河克己監督が再びメガホンを取ったのが山口百恵バージョンだ。なお脚本は吉永小百合バージョンの時は三木克己と西川克己の共同。山口百恵バージョンは上記の通り若杉光男。


 話を戻すが、山口百恵がヒロインの「伊豆の踊子」は冒頭にも書いたがビックリしちゃうほど良い映画で、俺はその後、潮騒、絶唱、春琴抄という山口百恵&三浦友和主演の映画を立て続けに視聴しちまった。


 配給は東宝、そして山口百恵の所属はホリプロ。

 当時の山口百恵は1973年に「としごろ」という映画に出演し、同名の曲で歌手デビュー。映画の方は「脇役ながらちょっと目立つ女の子」的な役で、歌の方は「歌唱力が十分ではない」と判断されていて、ホリプロの社長が西河克己監督に次のような相談をしたらしい。


「うちの百恵はさ~、歌の方は歌唱力がイマイチなもんで大して売れてないんだけどさ、少女雑誌の表紙になったり、ファンレターなんかもゴッサリくるし人気あんだよな~。だから役者に転向させようって考えてんのさ。ちょっと力かしてよ」


 それで西河克己監督は東宝の社長と相談の結果、「伊豆の踊子」を山口百恵で撮ることにしたらしいが、三浦友和の起用については色々あったという。東宝の社長は現役東大生を起用しようと一般公募までやったのだが、何故か西河克己監督は三浦友和に拘った。どうやら監督が三浦友和を気に入っちゃったというのが起用の理由のようだ。だが東宝サイドは三浦友和起用には大反対で…


 売れない役者なんて絶対に起用したらダメだ。

 とにかく東大生だ、東大生。

 まずは訛を直しやがれーーどうやら三浦友和は訛っていたらしい。


 そんな東宝社長の大反対を西河監督が押し切ったというのが真実で、三浦友和に決まった直後「一般公募なんてヤラセだ! 」って大批判に晒されたのだが、ある意味その批判は当たっているとも言えるし、ヤラセではない、とも言える。東宝が行った一般公募は新聞広告まで出しての大々的なもので4,000人ーー山口百恵と共演できるんだぜ! ってなもんだから「我こそは」って男子大勢が応募したらしい。そして取って付けたように1名の本物東大生が採用され、「見知らぬ高等学生」役でほんのチョット出演している。映画の終わりに近い部分だったと思うが、山口百恵が駆け寄ってくる相手役ーー実は人違いの為に会話も無い役なのだが、百恵ちゃん大好き野郎だったろうから良かったんじゃね。


 それと西河監督が「なぜ山口百恵で伊豆の踊子を撮ろうとしたか」の理由が面白い。


 10年前に吉永小百合で撮っているから準備が短時間で済む。

 西河監督は山口百恵の事をほどんど知らない為に「このお姉ちゃんはちゃんと台詞しゃべれるのか?」と思っていたらしく、だったら「台詞が極端に少ないヒロインは伊豆の踊子だ」と考えた。


 だが東宝の社長を始めとした幹部たちはこの映画にあまり期待をしていなかったというのが本当で、劇場公開も1974年11月という中途半端な時期を予定していたのだが、試写を観た東宝幹部達は「こっ、これは……」とあまりの出来の良い作品に驚き、劇場公開を「12月28日」という正月映画に急遽格上げをした。そしてその後、山口百恵は7年連続で正月映画の主演を張ることになる。



 ヒロインを演じた山口百恵についての感想は後に書くが、先ずはこの映画ーー「伊豆の踊子」の感想を書こうと思う。


 とにかく不思議な印象を受けた映画だ。

 原作が「ほどんどの説明を省いた小説」で、更には、川端康成が若い時分に経験した一人旅での事を書いた小説の為に、全ての視点が「私」であり、ヒロインの心情などは殆ど表現されていない原作ゆえに映画でも不思議な印象を受けたのかもしれないが、どうにもそれだけではないような気がする。


 俺は「伊豆の踊子」という映画を観て【寓話】のような印象を強く受け、そして何故だか「したきり雀」という昔話を思い出してしまった。




 映画「伊豆の踊子」の主なキャスト。


 ①川島(旧制一高生)三浦友和

 ②かおる(踊子)  山口百恵

 ③栄吉(かおるの兄)中山仁

 ④千代子(栄吉の妻)佐藤友美

 ⑤のぶ(千代子の母)一の宮あつ子

 ⑥百合子(雇いの女)四方正美


 上記の②~⑥の5人が旅芸人一座で、一人旅をしていた川島がその旅芸人一座が芸をしているところを偶然見て興味を覚えーー特にかおるに対して興味を覚え、旅芸人一座と共に旅をする。

 そして映画では次のような、俺にとっては不思議なシーンがある。


【1】

 激しい雨を避けるために茶屋で休憩をする旅芸人一座。

 旅芸人一座の後を追いように付いて行った川島もその茶屋で休憩をする。

 茶屋を営んでいたオシャベリで薄汚い婆さんは、川島だけを室内に招く。そこには中風の爺さんがいる。

 雨があがり茶屋から出て行った旅芸人。それを追うように川島も出て行くのだが、何故か50銭という茶代以上の代金を払う。

 必要以上の代金を貰った薄汚い婆さんは川島の鞄を強引に持ち、トンネルの入り口までついて行く。

 見送りのあいだ薄汚い婆さんは川島に対し「あんな奴らと一緒にいてはダメだ」としつこく言い続ける。


【2】

 旅芸人と一緒に旅をする川島。

 ある村に差し掛かると「物乞い旅芸人は通るべからず」という看板がある。

 その看板を見て山道へ行こうとする旅芸人たちだが、今日は書生さんと一緒だからと言い、看板を無視して村を通り抜ける。


【3】

 山道に差し掛かり始めた所に「さお竹」がたくさん立てかけられていて、それを見たかおるは、手ごろな1本を抜き取り、前を歩いている川島のとこまで走って持っていき、杖代わりに使ったらいいと手渡す。しかし兄の栄吉に「そんな太いのを持ってきたら盗ったとすぐにバレてしまうだろ」と言われ、元あった場所に走って戻り、さっきよりも細いのを手に取り再び川島のところに走って行き、そして手渡す。


【4】

 夜になり川島を旅館まで案内した栄吉は、自分たちのような身分の低い者が泊まる宿に帰ろうとするが、そんな栄吉に旅館の二階の窓から声を掛ける川島。そして「これで何かおいしい物でも食べてください」と、まるで御捻りのように紙で包んだ硬貨を投げ落とす。

 しかし「受け取ることなどできません」と御捻りを拾って投げ返した栄吉。だが「遠慮は無用です」と再び投げ落とす川島。そして「そうですか」と受け取り、帰って行く栄吉。


【5】

 旅館に泊まっていた他の客--見ず知らずの中年男が川島の部屋を訪れ「囲碁でもやりませんか」と川島を誘い、川島はその男と囲碁に興じる。


【6】

 次の日の夜、誰かが座敷に呼んでくれるのを踊りながら待つ旅芸人一座。そんな彼らを見た川島は「私の部屋で休んでいきませんか」と旅館の二階窓から声を掛ける。

 客もつきそうもないからと川島の好意に甘えるべく旅館の女将の了解を取ってから部屋に来た旅芸人一座。そして旅館の女将からは風呂に入る許可も貰ったらしく、風呂をよばれる。

 一番最初に風呂からあがったかおるは、部屋で川島と「五目並べ」をする。


【7】

 次の日の朝に一緒に出発しようと約束をした川島と旅芸人一座。

 朝、彼らの宿に行き部屋に入った川島だが、まだ全員が布団に寝ている姿を目の当たりにする。彼らはもう一晩ここで稼いでから出発する事にしたのだと言う。川島も出発を1日延期する。


【8】

 夜になり彼らの宿に遊びに行った川島。

 彼らと顔なじみの中年オヤジが作った鳥ナベを一緒に食べる。

 そのオヤジにかおるは本を読み聞かせてくれーー確か水戸黄門のお話ーーと頼み、途中まで読んだオヤジだが用事があってどこかへ行ってしまう。そして川島が本の続きを読んであげる。


【9】

 次の宿場に着くまでの道すがら、かおるは川島に「活動につれていって欲しい」とねだり、川島も快く了解する。

 だが宿場に着いたかおるが「活動に行くのでお金をちょうだい」とのぶに言うが、のぶは「仕事が入っているのでダメだ」という。栄吉も「かおるは活動を楽しみしていたのだから行かせてあげよう」と取りなすが、のぶは「踊子が身分違いの書生に恋心を抱いたところでどうにかなるものではない」と言いい、かおるの活動行を許さない。

 かおるを迎えに来た川島。かおるは「仕事があるので行けなくなった」という。それを聞いた川島は旅芸人一座の皆に「明日の朝、東京行きの船に乗って帰ることにします」と別れの挨拶をする。



 上記の9つのエピソードから、俺はなんとも不思議な印象を受けた。上手く言えないが、どのエピソードも唐突で、何故そうなったのかが良く解らない。

 例えば【1】にある茶屋で川島は何故50銭という多すぎる代金を払ったのか。そして茶屋の婆はどうしてあれほどまでに旅芸人の悪口を言うのか。又、中風で身体に障害がある自分の亭主の事を「恥ずかしい存在」と言いながらも、川島を招き入れてまで中風夫の姿を見せたのか。

 他の8つのエピソードもそうなのだが、ストーリーはそんなエピソードを交えながらも淡々と進んでいってしまい、観てるこっちも淡々と受け入れていくのだが、よくよく考えると「何故?」という疑問がいくつも浮かぶ。

 極端な事を言えば【1】~【8】のエピソードを全て削除したとしても物語には影響がない。【9】はさすがに削除できない部分ーー川島が旅芸人一座と別れ一人で帰る決断をするエピソードだから削除は出来ないが、「なぜ急に帰ろうと思ったのか」がまるで解らず、それも「活動に行けなくなった」エピソードと繋げた意図が全く不明だ。というのも川島はかおるから「活動に行けなくなった」と言われてもさほど残念がっているようには描いていない。

 併せて言うが、そもそも川島という書生はーー川端康成らしいがーーどうして一人旅をしていたのかその理由がサッパリ解らん。


 この映画の原作って川端康成の体験らしいが、「それって本当か?」というのが俺の感想だ。特に上記【1】のエピソードなのだが、50銭という多すぎる金を貰った婆が川島の鞄を強引に持って、更に強引に川島を送って行くのだ。トンネルの入り口まで。そして川島は一人でトンネルを抜け、そこから旅芸人一座との旅が始まる。改めて思い返すと、「トンネルを越えた向こうでの出来事は、本当にあった出来事なのか? もしかすると……」ってのが俺の率直な感想だ。


 そして上記9つのエピソードとは別に次のようなシーンがある。

 かおるは強烈なあばら家で床に伏している若い女と出会うのだが、その若い女は安女郎なのだが肺結核で治る見込みがなく、次の日の朝には棺桶に入れられ運ばれて行く、病気によって死んでいく女郎というエピソードがワンカットのみだが描かれている。その女郎役を石川さゆりが演じている。

 俺は不思議とこのエピソードには、上記9つのエピソードのような不思議な印象を覚える事はなかった。物語にすんなり溶け込んでいるのだ。だが、このエピソードは原作には無く、映画で付け加えられたエピソードだと言う。そして映画版では必ず出てくるエピソードでもあるらしく、吉永小百合バージョンでは十朱幸代が演じていた。

 どうしてなんだろう? 原作にあるエピソードの方が不思議な印象を受けて、映画で付け加えられたエピソードのほうがしっくりくるってのは……


 それと先にも書いたが何故か俺は「舌切り雀」という童話を思い出してしまった。


 舌切り雀

 前略~

 舌切り雀のお宿はどこかいな おちょん雀はどこいった

 爺がそう言いながら行くと 牛あらいがいたと

「牛あらいどん ここを舌切り雀が行かなかったかや」

「おお、行った。牛のあらい汁をととの器に13杯 かかの器に13杯吸うたら教えてやる」

 爺は飲んだ すると牛あらいは

「この下へ行くと馬あらいがおるからそれに聞け」


 舌切り雀のお宿はどこかいな おちょん雀はどこいった

 爺がそう言いながら行くと 馬あらいがいたと

「馬あらいどん ここを舌切り雀が行かなかったかや」

「おお、行った。馬のあらい汁をととの器に13杯 かかの器に13杯吸うたら教えてやる」

 爺は飲んだ すると馬あらいは

「この下へ行くと菜あらいがおるからそれに聞け」


 舌切り雀のお宿はどこかいな おちょん雀はどこいった

 爺がそう言いながら行くと 菜あらいがいたと

「菜あらいどん ここを舌切り雀が行かなかったかや」

「おお、行った。菜っぱのあらい汁をととの器に13杯 かかの器に13杯吸うたら教えてやる」

 爺は飲んだ。

 後略~ 


 この3つのエピソードが昔話「舌切り雀」に描かれてはいる。しかしこの3つのエピソード全てを省略した「舌切り雀」の方が意外なほど広まっている。

 何を言いたいかというと、このエピソードはあってもなくても物語にさほど影響しない。それと「なぜ牛あらい、馬あらい、菜あらいは爺に意地悪をしたのか」がサッパリ解らないという謎のエピソードだ。


 俺は「伊豆の踊子」山口百恵バージョンを視聴して、上に書いた9つのシーンは「映画の為に付け加えたエピソード」ではないかと思い、吉永小百合バージョンも視聴したのだが、全く同じエピソードが描かれていた。きっと原作にも出てくるのだろう。

 このエピソードに隠された意図ってなんだろうと考えていたら、不思議と「舌切り雀」の3つのエピソードを思い出したのだ。これって……俺だけか?


 最後に山口百恵について書こうと思うが、肩書が歌手なのか女優なのかハッキリしないから芸能人とするが、とにかく不思議な芸能人だ。

 伊豆の踊子でヒロンインを演じた山口百恵。うん、いい演技だと思ったし、絶対に棒演技じゃない。伊豆の踊子の原作は読んだ事はないが、昔の芸能って河原者がやってたって事あって、例えば歌舞伎なんかも今では全部が男役者だけど、江戸時代の途中までは女の歌舞伎役者もいて、そして歌舞伎は必ずといっていいほど盛り上がるところでストリップになって仕舞には本番って流れだったから江戸幕府から女の歌舞伎は禁止されたはず。

 宿場町で商売している旅芸人を描いた伊豆の踊子は少女売春を描いた物語なんだと思う。当時の山口百恵は15歳で、この物語をどのように理解して演じていたのか解らないが、学が無いせいで「春を売る商売」を卑下することも出来ない幼さ故の役柄がピッタリとハマったように思う。

 伊豆の踊子最高傑作と言われた吉永小百合バージョンはというと、18歳の吉永小百合が信じられないくらいにカワイイのだが、少女売春を暗示させる雰囲気に欠ける。

 そうなのだ、山口百恵という芸能人は「幼さ」と「大人びてる」が変に同居した不思議な芸能人だ。

 そしてそれは歌手としての山口百恵にも言えて、歌は極端に下手ではないーー浅田美代子の歌みたいに初めて聞いた途端に「はぁああ??」ってビックリしちゃう歌手もいたが、山口百恵の歌はそれほど酷くはないが決して「歌姫」と呼ばれるほどに歌唱力があったかというと否だ。だがマイクを持った途端に発するオーラは尋常じゃなかった。あれって何だったんだろう? アイドルが発するオーラとは異質なオーラだった。

 所属事務所がとった戦略ーー「青い性路線」戦略ってのもあったんだろうけど、それだけじゃなかったと思うな~。

 ちなみに作詞家:千家和也は「青い果実」の詞を作った際に、「中学生にこんな歌詞を歌わせていいのか」ってそうとう悩んだそうだ。



 最後に、山口百恵が主演の映画「春琴抄」は桜田淳子にやらせた方が絶対に良かったはずだ。



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