夏日、陽炎、君の蔭
蝉の声と赤いランプ。
暑さにやられてとろけてしまった思考で見つめる視界が、いつかの景色をダブらせる。
道で見つけた花を刺した麦わら帽子、縁がドット模様のワンピース。
長い黒髪、キレイな形の親指の爪がちょこんと覗く、背伸びを促すヒールサンダル。
ねえ、あの時、僕はなんと言えてたら、背の低いことを気にしていた君の声を、今でも隣で聞き続けることが出来たんだい。
プオォォ
汽笛にビクリと肩が撥ねた。
足下の、自分の影が落ちたコンクリートに、顎から伝った汗が模様を描いている。
出ていた右足を戻して、後ろポッケから取り出したハンカチで額を拭った。
もう何度も拭っていたから、生乾きの生地からはイヤな臭いがした。
息を止めて、家を出る前に整えたくせに汗でぺしゃんこになった前髪を、それでも未練たらしく片手で上げて額に当てる。
電車が通り過ぎていく。
いっしょに連れてきた風が少しだけ、涼をとらせてくれた。
それだって、当然のことだけど、束の間でしか無くて、電車が行ってしまえば、夏の音と暑さが戻ってきた。
未練たらしく、電車の後ろ顔を追いかけると、駅に停車するのが見えた。
君は上りで、僕は下り。
だから、駅では改札で別れて、それから、いっしょの早さで階段を降りるから、軌条越しにお互いを見つけては、はにかんでいた。
あの時も、君は笑っていたっけ。
上っていく遮断かん。
足下の汗で書いた模様はとっくに乾いて消えていた。
リュックの中から水筒を見つけ出し、きゅっと鳴る蓋を開いて、中身を呷る。
三回、ごくごくと喉を鳴らせば、中身は無くなってしまった。今度はもっと大きい水筒を準備しようかと思いながら、歩き出す。
日差しの下を、歩き出す。
たまらない暑さに負けて、コンビニで飲料水を補充した。
わざわざ水筒を準備していたのに、結局、散財してしまった。小さな罪悪感に自身のせせこましさを自覚する。どうせ帰りにはまた同じことをしでかすのだろうと、予感した。
コンビニの自動ドアを潜ったら、快適な空調の膜を破り、再び熱気が身体を包む。
駐輪場に並んだ自転車の脇に、暑さへの文句をためらいなく口にする女学生が三人いた。
たわいも無いことさえ、胸の中だけに留めるようになった、大人になった自分。言葉と気持ちをすぐに消化できる若さに、憧憬した。
君はどうだっただろうか。
胸の内を呑み込んだままにして、僕の前から居なくなった君は、もしかしたら、少なくとも今の僕から見ればガキだったと思うあの頃の僕よりも、一足先に大人だったのだろうか。
それもなんだか違う気がした。
だって、あの頃の僕よりは大人になったと思う今の僕ほどに、君はくたびれちゃあいなかったから。
「ねえ、知ってる?」
女学生がスポーツ飲料で喉を潤してから言う。
「昨日出たんだって、駅の電車待ち幽霊」
一瞬だけ、歩調が鈍った。
すぐに彼女たちの横を通り過ぎたけど、ペットボトルの底を空に向ける一人が喉を鳴らすときに、横目をくれていたのには気づいた。
人の視線に敏感なのは、大人になる前からの悪癖だ。そのせいで、君にも目をつけられたのだっけ。
気づかれないように人を観察することが特技だった君。
毎日毎日、君と目が合うから、お互い、ぎこちなく会釈をして、いつの間にかいっしょに駅まで帰る関係になっていた。
君は、教室では童顔なことをいいことに、人見知りで、まるで世間知らずを装っていたけれど、帰りの道では声のトーンまで変わって、まるで人格が変わったみたいだった。
話に夢中なフリをして、相づちを打つ隣の子が机で隠しながらケイタイをイジっていたり、それに気づきながら話を続ける子のことをクスクス笑いながら話してくれたよね。
お疲れさまだよね、何て言って、斜にかまえてたけれど、それでも、どこかで本当はクラスの子達とも、ちゃんとトモダチしたがっていたことにも僕は、気づいていたよ。
君は想像力が豊かで、僕が大人しく話を聞くものだから、いろいろ語り聞かせてくれたね。
その中の半分くらいは、君が自分をただ者ではないと思わせたくてつくりだした嘘っぱちだったけれど、僕はそれでも楽しかったんだ。
もしかしたら、嘘に気づいていることは言ってあげるべきだったのかもしれない。
だって、君は、吐いた嘘がバレることに脅えていたから。
嘘っぱちを笑ってあげたら、君は、開き直れたのかもしれないと、今は思う。
横道を何度か通り、歩道橋を降りた先にある、川沿いの路。
桜は散ってしまって、枝は緑の葉で覆われていた。
ドブの臭いと青臭さが熱気に混じる。
十歩も歩く頃には馴れてしまった。
あの頃からそうだった。僕は簡単に世界に順応して生きていた。
君が僕の隣を歩くようになった世界にもすぐに順応して、僕の前からいなくなった世界にも、こうやって順応して生きている。
この路で君の言葉をたくさん聞いたからだろうか。
ぽつりと、独り言が出た。
「君の作った怪談、まだ残っていたよ」
思い出して、苦笑してしまう。
まあ、作ったなんておこがましい、捻りもないありふれた内容だけれど。
夕暮れ時、帰りの学生が増える駅の待ち時間。
そこには、自殺した学生の幽霊が混じっていて、いっしょに電車を待ってくれる人を探している。
ただし、幽霊は電車に乗るために待っているのではない。
いっしょに飛び込んでくれる人を待っているのだ。
そして、幽霊と一緒に死んだら天国にも地獄にもいけない。だって、亡くなった命は一つだけだから、成仏出来るのは一人分だけ。その分は、自殺待ちをしていた幽霊が使ってしまうから。
だから、待たなければならない。
自分の代わりになってくれる人間を夕暮れの時間に待ち続けて、自殺しようとしている人をみつけたら、喜んで手を取って、いっしょに飛び込もうとする。
君が僕を脅かしてやろうとして、得意げに語った内容だ。
僕がまったく怖がる素振りを見せないから、君は唇を尖らせて拗ねていたっけ。
この話が、どうして今も残っているといえば、それは、君のイタズラがきっと原因だろうね。
怪談なんて唯でさえ質が悪いのに、君のイタズラがそれに拍車を掛けた。
ほんとうに、ほんとうに、イジワルだよ、君ってヤツは。
橋の真ん中で欄干に手を掛けて、呆れのため息を吐いた。
こんなところで、もたもたしていたら日射病に罹ってしまう。
目的地は、もうじきだ。
緑が沿路に茂る坂道を上れば、そこは霊園がある。
この時期の用事なんて、知れたものだ。
墓参り。
墓石は無い。
こじんまりとしたスペースに黒くなった木の板が差してあるだけだ。
暑いし、さっさと済ませてしまおう。
持参した道具で雑草を毟って、掃除をして、汲んだ来た水を撒く。最後にリュックに入る程度の小さなプラスチックの箱に入ったフラワーポットを置いたらおしまい。
眠っている両親、妹に、ご先祖様は、無精者だと叱るだろうか。
毎年、同じことを考えて、結局今年も同じだけしかしていない。
金のない学生の頃に、突然に一人でやらなきゃいけなくなってから、両親に従いて行って覚えておけばと後悔した。
なんとか、それっぽくやって、今年まで続けている。
きっと、来年も同じだけしかやらないのだろう。
「さて、と」
一人の墓参りで長居なんて、間が持たない。
立ち上がって、来た道を戻る。
なまじ座ってしまったものだから、ぶわりと汗が浮かんで、垂れ始めた。
早いところ、どこかで飯を食べて涼んでから、帰るとしよう。
住んでいた場所はここから二駅だけど、祖母の家がこのあたりだったから、墓は学校から見えるこの高台にあった。
僕は、幼い頃に面倒を見てくれた祖母のことなんて忘れて、墓参りは両親の仕事と決めつけていた。
その仕事が僕のものになったのは、君と帰るようになって半年くらい経ってからだった。
天涯孤独なんてものが、自分の身に降りかかるなんて想像だにしていなかった。
事故だった。
留守番をしていた僕は、話が信じられなくって。時間の経過とともに帯びてきた現実感に、胸の真ん中が吸い込まれて消えていくような不安を覚えて、取り残されたんだという事実を代わりにいっぱいにした。
告白すると、あの時の僕は、唯一人になってしまったことを後悔したんだ。
両親と妹と一緒に出かけていれば、僕だけになることは無かった、そんなことばかり考えていた。
さすがに君も気づいたんだろうね。
僕が君の嘘を知っていたことは分からなかったみたいだけど、もともとよく周りを見ている君だったわけだし。
君は例の怪談を作って僕に聞かせ始めた。
学校でも聞かせるから、その噂は誰かの耳に入って、ちょうど、近くの駅で跳び込み自殺があったこともあって、学校中に伝播した。
僕はいつもみたいに、君に相づちを打ってあげられなかった。だけど、僕が君の話が好きだったのは本当だし、それに、僕も君をよく見ていた方だと思う。
ただ、そのときだけは、僕は君に素っ気なかった。
それに、君を見てあげる余裕も無かった。
君は人をよく見ている分、自分の格好にもすごく気を揉む子だった。
昼食をうっかり制服に落とすと、すごく困った顔をして、洗って濡らすわけにも行かないから午後は不自然なくらい手をお腹に回していた。
それは、汚れが目立たなくなるまで続けていた。
君はへんにプライドも高くて、助けてとも言わなければ、何かを強請ったりするようなこともしなかった。ただ、声が固くなるから、こっちから気を回してあげることは簡単だったのだけれど。
でも、そのときだけは、僕は君と遠かった。
あの日の帰り道。
君はまた例の怪談を僕に語った。
僕は、頷くことすらしなかった。
君は上り、僕は下り。
改札で別れて、同じペースで階段を降りて、君と僕は向かい合う。
そのとき、初めて、僕は君の服にシワや汚れがあることや、目の下に隈が出来ていたこと、肌に目立つデキモノがあるのに、マスクをしていないことに気づいたんだ。
夕暮れ時、近づく汽笛。
夕日に照らされて、半分染まった君の顔。
君はいつものように、はにかみは、しなかった。
代わりに、幼顔を忘れるような、小さな柔い微笑を浮かべた。
そのときの君は、ぞっとするほどに大人びて見えた。
何かを言わなきゃ、そう思ったとき、君は、僕に向けて手を伸ばしたんだ。
握手を求めるように、見方によっては、何かに手を引かれるように。
そして――
それが、君が作った怪談に、君が施したイタズラ。
君は自分を使って、自分の怪談にリアリティを与えた。
どうして君がそんなことをしたのかを、僕は噂程度でしか知らない。
無理心中したご家族が自宅から見つかったとか、君の嘘が他の生徒にもバレて、心地が悪い思いをしていたとか。
僕は君の一番肝心を見破れなかった。
僕は聞き手で、君は話し手だったから、僕は受け取るばかりで、君を引き留めることが出来なかった。
夕暮れ時、僕は電車を待つ。
やっぱり予感通り、帰りもコンビニに寄ってしまった。
汽笛の音が聞こえたから、水滴のついたペットボトルをハンカチで拭って、リュックにしまい、立ち上がった。
ふと、片手を前に出してみる。
隣に並んだ学生が、ぎょっとしたのが横目に見えた。
「ねえ、知ってる?」
夏日に煽られ陽炎が揺れる。
ねえ、君の蔭が、この街にまだ残っているよ。
残念だけど、僕の手を引いてくれる誰かさんは現れない。
これじゃあ、飛び込むわけにはいかないな。
僕は手を引っ込めて、停車した下り電車に乗車した。
ま、正直ホラーじゃ無いですね。
ごめんなさい。




