ぺパン王の寄進
ロンバルディアとローマ教皇は長年敵対関係にあった。
なぜ敵対しているのかはデジレも知らない。
ただ、デジレが覚えているのは、子どものころの風景だけだ。
ロンバルディアの土地に侵入し、田畑を焼き払い、家畜や財宝を根こそぎさらっていくローマ教皇軍。虐げられる女子ども。
憎しみは連鎖する。
ロンバルディアも同じことをし返した。互いの領地の境界線で、何度も何度も互いの土地を荒らしては報復を受けていた。
ラヴェンナは一時ロンバルディアの占領都市だったが、フランク王国の介入で取り上げられ、ローマ教皇に返還されることになった。デジレが六歳のときだ。
(俗に言う、『ピピンの寄進』ですね)
マーリンのつぶやきの意味はデジレには分からなかったが、放っておくことにした。マーリンも、ただの独り言だから気にするなと、折に触れて言っていることだし、デジレが知る必要はないのだろう。
シャルルマーニュの父・ぺパン王は、ロンバルディアが制圧していた二十二都市をローマ教皇に返還したのだ。
そうした経緯もあって、ロンバルディアにとっては、ラヴェンナ奪還は当面の目標なのだった。
デジレがフランクに来て一年半後の冬、ロンバルディア王は、再びラヴェンナに向けて進軍した。
たいていの戦争は初夏と決まっているが、ロンバルディアは冬などの季節外れの戦争を得意としている。
ラヴェンナをはじめとした諸都市は、ローマ時代の建造物で複雑に入り組んでおり、守るに易く、攻めるに難い。
難攻不落の小さな都市たちを、ロンバルディア軍は立て続けに攻め落とした。連戦連勝と言ってもよかった。
聖遺物と引き換えに、ぺパン王から供出させた武器と騎馬が非常に効果を発揮したのだ。
ロンバルディアは再びラヴェンナを含む十数都市を支配下に置いた。
戦勝の報はいち早くデジレに届いた。
(へえ、ピピンの寄進をひっくり返したのですか! これは面白い。こうなってはぺパン王も黙ってはいないでしょう。さすがのデジレ姫も、ピンチなのではありませんか?)
マーリンがすっかり観客気分でそんなコメントを寄せてきた。
(あなたがシャルルの嫁である理由は、色々と考えられますが、ロンバルディア王との和平という意味合いも強いでしょう。和平協定を破って進軍してしまったということは、ロンバルディア王はデジレ姫を見捨てるつもりだということでしょうか)
そんなわけないでしょ、とデジレは思う。
それより、そのピピンの寄進とかいうの、詳しく聞かせなさいよ。
(それは構いませんが……)
デジレはありったけマーリンから情報を引き出して、父王に手紙を送った。
***
ぺパン王はマーリンの見立て通り、ロンバルディアの対応に苦慮しているらしいと、デジレはうわさから知った。
現在のフランク王国は四方を異教徒に囲まれている。
地中海と南西からはサラセン人が。
北からはザクセン人が。
東からはタタール人が。
それぞれ絶え間なく押し寄せてくるのだ。
ロンバルディア人はフランクと同じキリスト教信者。敵対している余裕はないのである。
そこでマーリンがいぶかしげな声をあげた。
(タタール人ですか? 本当に、三十姓タタール人が押し寄せてきているのですか?)
デジレは思考を中断されて、いやいや答える。何かおかしいの?
(いえ、この時代の三十姓タタール人はバイカル湖の付近が主な活動地域ですから……デジレ姫の言うことが本当だとすると、ずいぶん西に迫っていることになりますね。間にあったウイグルやペルシャや東ローマはどうしたのでしょうか)
知らないわよそんなこと、とデジレは思う。東から来る馬に乗った異民族はみんなタルタロス(タタール人)なのだと教えられて育ったのだから。
(なるほど。セビリヤのイシドールが残したタタール人の生息地も『カスピ海以東、コーカサス山脈以北』とはなはだ曖昧でしたし、現時点では、違う民族をタタール人と誤認している可能性もありそうですね。タタール人の王アグリカンと、その王子、マンドリカルド。お会いできるのを楽しみにしておきましょう)
よく分からないことを言っているマーリンは放っておいた。
デジレは父王から返ってきた手紙を、ぺパン王に献上した。
手紙には今回の進軍の正当性が書き連ねられており、ラヴェンナはロンバルディアのものだと強く主張している。
その一方で、ロンバルディアはフランクとことを構えるつもりはない、とも。
和平はいまだ有効であるとして、ロンバルディア王は、フランクとの協定続行を強調した。
デジレはぺパン王に向けて、とりなすように微笑んだ。
「父はローマ教皇とも講和を望んでおります。偉大なるフランク王におとりなしいただければ、世界は平和へと一歩前進することでしょう」
ぺパンは深くため息をついた。
「わしには答えが出せん。会議の結果次第では、デジレ姫、そなたをロンバルディアに送り返すことになろう」
デジレは心の中で密かに小躍りした。
願ってもないことよ。
「そんな!」
大声をあげたのはシャルルだ。
「父上、デジレを送り返すなんて、嘘ですよね?」
ぺパン王は息子シャルルに甘い。
このときも目じりを下げた。
「そなた、デジレ姫を気に入っているのか」
「俺、聖ヨハネ様からお告げをもらったんです。俺は西方世界を統一する皇帝になるって。デジレを大事にするようにって言われたんですよ! それなのに、送り返すだなんて!」
ぺパン王はそうかそうかと感じ入ったように相槌を打った。
「聖ヨハネ様のお告げならば尊重せねばなるまい。なんとか離縁せずに済むよう取り計らおう」
デジレは心の中で悔しがる。
うまく離縁できそうだったのに、余計なことをしてくれたものね、マーリン。
(私はよかれと思って……だいたい、いいのですか? あなたが離縁された場合、フランクはまたラヴェンナを取り返しに攻めてくるでしょう。そうなると、前回の二の舞、王国滅亡再び――ということに……)