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目覚めれば十歳


 デジレが目を覚ましたとき、そこはベッドの上だった。ひんやりとした土壁に添うようにして置かれた、藁の寝床だ。


 枕元に神父と、幼い金髪の男の子がいる。

 男の子の方は、デジレが十歳で嫁いできた当時のシャルルマーニュにそっくりだ。


 フランクの法では、結婚年齢に制限はない。


(教会が結婚年齢に口を出すようになったのは、十二世紀以降でしたね。八世紀のフランク王国では、五歳でも十歳でも結婚が可能だったと)


 どこからか、涼しげな男性の声が聞こえてきた。


 どこで聞いた声だろうとデジレが不思議に思っていると、声の主は笑った。


(独り言ですから、お気になさらず。ほら、あなたの夫が泣いていますよ)


 デジレが慌ててシャルルマーニュに目を戻すと、彼は本当に、大きな瞳からはらはらと涙をこぼしていた。感極まったように抱きしめられて、デジレは目を白黒させる。


「デジレ! よかった、目を覚ましたんだね。三日も熱でうなされていたから、もうダメかと思ったよ」


 シャルルマーニュの背後に神父がいる。彼が手にしている終油の壺を見て、デジレはもう少しでご臨終と勘違いされていたことを悟った。


 デジレの脳裏に、前世の記憶が一気に蘇る。シャルルマーニュの姿が、大人時代のそれと重なった。


 デジレのよく知るシャルルマーニュは、彼女を無理やり死んだことにして生き埋めにするくらいは平気でやる男だ。


 デジレの背に冷たいものが走った。せっかく九死に一生を得たのに、殺されてはたまらない。


「い……生きてます。生きておりますわ……ですから、どうか生き埋めだけはご勘弁を」


 シャルルマーニュは泣き止んで、少しデジレを離した。しげしげとデジレの顔を見つめて、言う。


「そんなことしないよ? どうしたの?」


 シャルルマーニュはふふっと笑った。


「もしかして、冗談を言ったの? よかった、本当によくなったんだね」


 シャルルマーニュが無事を喜んでくれているが、デジレはますます混乱するばかりだった。だって、前世の彼は、一度だってこんな風にデジレを心配してくれたことなどないのだから。


 結婚したばかりのころ、シャルルマーニュはデジレにほとんど関心を持たなかった。デジレは美しい彼にひと目で恋に落ちてしまったのだが、彼は本当に無反応で冷淡だったのである。


「君が死んじゃったらどうしようかと思った」


 シャルルマーニュはそう言って、まぶしそうに眼を細めて笑った。涙の残る笑顔はまるで宗教画の天使のよう。


 最盛期には190センチもあった背も、今は縮んでおり、活発な少年といった趣だ。


 このころのシャルルマーニュはまだシャルルと呼ばれていて、無邪気な少年に過ぎなかった。


 大人になり、名前に『偉大なる大帝』という意味の『マーニュ』がつくようになってからのシャルルマーニュも魅力的だったが、子ども時代の彼は本当に美しかったのだ。


 かつて恋をしていた少年の笑顔に再会しても、デジレには喜べない。


 死の直前の記憶がよみがえる。


 デジレの処刑を高座から見下ろし、ニヤついていたあの顔。屈辱が鮮やかに燃えあがり、苦しくて、涙が出た。


「シャルル様……」

「どうしたの、まだ具合が悪い? お医者さんを呼んでこようか?」

「いいえ、そうではないのです。ただ……悲しくて」


 シャルルはあっという間に成長し、女を知り、暴力を覚える。


 それからの彼はまさに覇王だった。目に入るものすべてを破壊し、奪い尽くす喜びにとりつかれ、年中戦争に明け暮れていた。十年以上に及ぶ彼の治世で、戦争をしていなかった年などない。戦う才に恵まれていた彼を止められる者は、誰もいなかった。彼はまたたく間に異教徒を騎馬隊で踏みにじり、キリスト教化を押しつけて貢ぎ物を献上させ、各地を併合したのち、ローマ教皇の承認を得て、西ローマの大帝となった。


 デジレが流した涙は、恋する乙女のものではなかった。

 この美しい少年シャルルが、いつかは悪魔のようなシャルルマーニュになってしまうのかと思うと、不思議と憐憫がわいてきたのだ。時の流れとはなんと残酷なのだろう。


 彼がどれほど恐ろしい皇帝であったのか、デジレはつぶさに思い出せる。彼のする戦争は敵も、味方も、どちらも食いつくすのだ。あるときなど、捕らえられた異教徒四千人は、指輪をする習慣のせいで全員が手を失い、ついには衰弱死することになった。かくも野蛮なシャルルマーニュ率いるフランク軍が、我先にと指輪を奪い、彼らの手枷を取り除く手間を惜しんで、指を切り落としたからである。


「デジレ……」


 シャルルがデジレの頬に触れた。


 デジレは涙をぬぐわれながら、彼を無表情に見つめた。愛情を込めて触れられても、本当に、毛ほども感情が動かなかったのだ。彼の末路がかわいそうだとは思えても、情はひとかけらもわいてこなかった。


 なんといっても、デジレは彼に不義の汚名まで着せられたのだ。それが何よりも許せないことだった。ずっと彼のことを愛していたのに、よりによって不義だなんて! 思い出すだけでも怒りが湧いてくる。デジレの献身はいったいなんだったのか。身を粉にして彼のために働いたのも、すべて徒労でしかなかったのだろうか。


 もはやデジレは、シャルルマーニュに何の未練も持っていなかった。


 胸に残っているのは、復讐の暗い炎だけだ。


 今すぐにでも、彼に離縁をつきつけて故郷のパヴィアへ帰りたい。デジレはそう思っていたが、シャルル王子があまりにも清らかで無垢に見え、つい、情け心を起こした。


 これから始まるのは容赦のない復讐劇だ。


 だが、少しは彼に忠告をしてやってもいいだろう。


 なにしろ、デジレはこれから起こることを何もかもすっかり知っているのに、王子時代の彼には何の準備もできていないのだから。


 デジレはシャルルの手に自らの手を重ねた。慈しむように頬ずりをする。


「シャルル様、わたくし、怖い夢を見ました」

「どんなの? 聞かせてよ」

「シャルル様に、真に愛する女性が現れる夢です。わたくしは、邪魔になって……あなたに殺されました」


 シャルルは無邪気なほほ笑みを消して、真顔になった。


「シャルル様、どうかひとつお約束してくださいまし。側室が何人いたっていい、どんな女性をおそばにお置きになっても構いませんわ、でも、わたくしの夫は生涯にあなたひとりだけだということは、どうかお忘れにならないで……」


 シャルルはこの青い瞳の奥で、何を考えているのだろう。デジレには少しも分からなかった。


 彼は親指でぬぐうような動作をして、デジレの頬に涙が残っていないことを確かめた。


 それからふいに彼女へキスをする。


 デジレは嫌悪感に身を焼かれ、もう少しでシャルルを突き飛ばすところだった。


 彼は女グセが悪く、デジレに一応手をつけはしたものの、すぐに飽きてしまい、いつもたくさんの側室をはべらせていた。デジレは子に恵まれず、宮廷中の笑い者にされていたのだ。


 こんな男に指一本触れさせたくなかったが、幼い夫からの無邪気なキスを拒む適当な理由も思いつかず、しばらくしたいようにさせていた。


「どうしたの? そんなに怖い顔をして」


 シャルルが苦笑しながらデジレの頬をつねる。


「キスが嫌だったの? しょうがないじゃない、君があんまりかわいいことを言うんだもの」


 デジレは不快極まりなかったが、シャルルは満足そうだった。


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