マーリンの世界
マーリンは、心配ないとでもいうように笑った。
(私が知っているのは、あくまでも違う世界の出来事ですよ。あなたも、一度目の人生から戻ってきて、やり直しているでしょう? それと同じように、私もずっと先の未来まで到達したことがありまして。今は、そのやり直しをしているようなものなのです)
デジレは不安になった。彼がそんなに何度も『やり直し』のできる魔術師だというのなら、デジレがこうして活動している世界もまた『やり直し』で、『なかった』ことにされてしまうのではないかと疑問に思ったのだ。
(いえ、それはありえません。うまく言えませんが、神がお作りになった世界には、無数の、よく似た国、よく似た世界というのが存在するのです。あなたがどのような選択をし、どのような結末を迎えることになっても、消えてなくなることはありませんから、安心してください。ただ……)
マーリンは少しだけ声をひそめた。
(私の遺灰が散逸したときだけは別です。そのときは容赦なくまた一からやり直しをさせますから、覚えておいてくださいね)
デジレは、分かった、と返事をした。
マーリンはくすくす笑い始めた。いくらか気が抜けたようで、リラックスした雰囲気だ。
(いやはや、面白い方ですね。さまざまな人を見てきましたが、あなたのように私の発想を超えてくる方というのはなかなかいません。本来のあなたは一年で表舞台を去る影の薄い人物だったはずですが、前世でも十年と意外と長く健闘していましたし、やはりタダモノではなかったようですね。これも私の目のつけどころがよかったということなのでしょう)
マーリンが意味の分からないことを言っている。
「一年……って、どういうことなの?」
デジレはつい声をあげた。
聞きとがめられるかと思ったが、ほとんどの人たちは遺灰の入った小箱に夢中で、何かをやかましく言い合っていたので、誰もデジレのひとりごとには反応しなかった。
(私がやり直す前の世界の話ですよ。そこでのあなたは、結婚からわずか一年後に離婚され、その後ロンバルディア王国を攻め滅ぼされて、修道院に入れられます)
それは前世でのデジレとも全然違う。彼女はシャルルマーニュの妻として少なくとも十年、宮廷に君臨していた。
マーリンの話が本当なら、未来はいくらでも変化する、ということになる。
希望がふつふつと胸にみなぎってくるのを感じた。
あるいはそれは、憎悪と言った方がよかったのかもしれない。
蛮族どもを駆逐する。
その野望を胸に、デジレはせいぜい周囲に愛想笑いを振りまいた。
これまでで一番いい笑顔になったのはご愛敬だ。
***
デジレは父親と連絡を取り、いそぎ聖遺物を盗掘に向かわせた。元手ゼロで莫大な金貨と引き換えられるのだから、これよりうまい商売はない。
まともな神経をしているキリスト教徒なら、聖人の墓を暴くなどという罰当たりなことはできないだろう。
デジレは前世で無惨に殺された恨みがあるので、もはや神も何もないのだった。
ほどなくして、聖マルケリヌスと聖ぺトルスの墓が暴かれ、遺骨は密かにパヴィアへ運ばれることになった。
デジレは途方もない高値をつけてぺパン王にこの二つを売ったので、ぺパン王の貯蔵している金ではとても足りなくなった。
「でしたら、武器でお支払いいただいても構いませんわ。フランクの武具はすばらしい出来栄えですもの、金貨よりも貴重ですわ」
こうして、武器庫にある刀剣類や厩舎の騎馬が多数、パヴィアに渡ることになったのである。
デジレは笑いが止まらなかった。
まさか彼らがこうまでたやすく武器を手放すとは。
聖遺物とともに、あらかじめデジレが手を回しておいた東方の学者も、滞在地である首邑エクスに到着した。
聖遺物の到着を祝い、盛大なお祭りが開かれた。行進行列は、来る日も来る日もフランク中を練り歩き、不治の病を抱えた人たちが殺到した。
デジレはマーリンに命じてしばらく聖遺物のそばにはりつき、すきを見てはこっそり人々を癒してやった。
突然手足が動くようになった人、皮膚病が治った人などが涙を流して奇跡を喧伝するので、聖遺物には連日人が殺到し、盗難騒ぎまで持ちあがった。
ぺパン王には寄進が相次ぎ、相当の収入になったようだ。
季節は初夏で、戦争に絶好の季節となっていたが、今年のフランク人は遠征もせず、聖遺物を囲ってのどんちゃん騒ぎに明け暮れていた。
宮廷はエクスからヴォルムス、エルスタールを経て、コンピエーニュに移動した。農民たちから差し出された寄進で、戦に赴かずとも王は潤い、首邑に押し寄せる人たちのおかげで街は活気に満ちていた。
デジレは連日の宴で吟じられる美しいギリシャ悲劇の調べに耳を傾けながら、うっとりしていた。
音楽はいい。人を堕落させる。宴に酒でもあれば完璧だ。
彼らフランク人は音楽や恋愛の果樹が生み出す甘露をほとんど知らない。
デジレが付け入る隙は無数にあった。
宮廷が聖遺物の奇跡に沸いていた裏で、四旬節にはデジレもひとつ年を重ねて十一となった。さらに、奴隷のラグネも無事に出産を終えた。
デジレは何かと赤子のために便宜を図ってやらねばならなくなった。産婆をあてがい、子に洗礼を授け、食事を届ける。
復活祭が終わったあと、天気のいい日を選んで、奴隷娘の垢を落とさせ、こざっぱりした服に変えさせたら、シャルルとリナルドが馬鹿みたいに見惚れていた。
「見世物じゃないのよ、あなたたち」
ほうきで犬のように追い払いつつ、デジレも内心感嘆していた。美しい娘なのは薄汚れていても明らかだったが、デジレの身の回りの世話をさせる奴隷であることを示すため、お下がりの絹を与えたら、見違えたようになった。ラグネは手先が器用なのか、ほどいて作った衣服はそれは見事で、彼女の美貌は今や宮廷でも一、二を争うほど目立っていた。
デジレがラグネを連れて宮廷を歩くたび、男たちが立ち止まり、野次が飛ぶまでになった。
聖遺物を国内の隅々まで披露するため、地方から地方へと移動している旅路の最中のこと。
食事休憩中、デジレが余ったお菓子でもくれてやろうかと思い立ち、ラグネの姿を探したが、見当たらない。彼女にあてがった牛車の藁の上には乳飲み子が放置されており、火が付いたように泣きじゃくっている。
どこをほっつき歩いているのかしらね、と思った瞬間、すさまじい女の悲鳴が聞こえてきた。
「誰か、誰かあーっ!」
「うるせえ、はやくこいつ黙らせろ!」
「口に何か放り込むか?」
男が二人、ラグネを引きずっている。
美しい奴隷娘を見て、変な気を起こしたやつらがラグネを攫っていこうとしているのだ。
デジレはとっさに手近に積まれていたラバの荷から薪の切れ端を引き抜いて、男たちに向かってぶん投げた。
「何をしているの!? 誰か、わたくしの奴隷が攫われそうになっているのよ、見てないで助けなさい!」