リナルドの回復
驚いたリナルドが目を白黒させている。まさか女からこんな屈辱的な扱いを受けるとは思っていなかったのだろう。デジレは愉快になって、なぶるようにリナルドを間近で見つめてやった。
おどおどとリナルドの視線が泳ぎ、頬が興奮のためにうっすらと血の色に染まる。
「ねえ、奴隷って、主人の好きなようにしていいのよね? わたくしはいつでも好きなときにあなたを殺せるのよ」
デジレがそう言うと、リナルドは鞭打たれたかのように身体を固くした。
「あなたはもうわたくしに逆らえないの。わたくしがやれと命じたらなんだってやるしかないのだわ。シャルルを裏切れと言われたら、あなたはどうするのかしらね?」
誰にも聞かれないよう、声をひそめてリナルドにささやきかけてやったら、彼は真っ赤になった。
リナルドの怯えた様子が楽しくて、デジレは少し調子に乗った。
「どうするの? わたくしの命令なんて無視して、シャルルを取るのかしら。男の友情なんて下らないもの、いかにもあなたが大事にしそうだものね」
そして彼は前世でもアンジェリカにとって都合のいい男になり下がり、シャルルとの便宜を図ってやっていた。
「ぼ……僕は……」
リナルドが真っ赤になって震えながら、デジレを見つめる。
デジレはそのとき初めて、何かが変ね、と思った。
デジレに少し髪を掴まれたくらいで、こんなに怯える必要があるだろうか?
「僕は、デジレ様がお望みなのであれば、なんでもします!」
リナルドは力強くそう宣言して、デジレをがばりと抱きしめた。
突然のことに目をむくデジレに、リナルドがくちづけをしようと顔を近づけてくる。
デジレは思わず彼の頬を思いっきりはたいてしまった。
「な、な、な、何をするのよ!?」
リナルドはわけが分からないという顔をしているが、デジレにも何がなんだか分からなかった。
「デ、デジレ様が、僕にシャルルを裏切れ、とおっしゃるから……その……つまり……」
なぜか彼は顔を赤らめている。
「つまり、僕を秘密の愛人にしたいということかと思って……」
「言ってないわよそんなこと!? わたくし十歳よ!? ありえないでしょう!?」
精神的にはデジレは十歳などではなかったが、ついそんなことを叫んでしまった。どこの世界に愛人を持ちたがる十歳の娘がいるというのだ。常識で考えてもらいたい。
しかし、リナルド少年だって、成人前のはずなのだ。正確な年齢など知りたくもなかったので、記憶にないが、色気づくにはまだ早すぎる。
「い、いえ、デジレ様は、とても落ち着いていらっしゃるものですから……その、もっとずっと年上の女性のように見えてしまって……」
「わたくしが老けてるって言いたいの!?」
「ち、違うんです、ただ、貴婦人の奴隷というと、どうしても期待……いえ……胸がときめき……いえ、違うんです、誤解なんです!」
デジレは脱力した。
リナルドは思っていたより気持ち悪い子どもだったようだ。もっと思慮分別があると思っていたが、失望した。
「貴婦人に色っぽい命令をされるのって、すごい、いいなって……」
「いいなじゃないわよ! 何考えてるの!?」
うんざりしながら、それでも一応釘をさしておこうと思い、口を開く。
「あのねえ、リナルド。わたくしがこの世で一番嫌いなものは、浮気性の殿方なの! 死にたくないのなら、二度とそんな冗談は口にしないで! さもなきゃさっさと首をはねてやるわ!」
「わ、分かりました、お妃様!」
彼は再び、深々と頭を下げた。
デジレはリナルドを買い取ったことを猛烈に後悔したが、もう遅い。シャルルにもあれほど喜ばれた手前、すぐに手放すわけにはいかないだろう。
元気になったらせいぜい重労働を押しつけてやろうと、デジレは固く決意した。
***
リナルドは長く伏せっていたが、毎日欠かさず滋養のある食事を与え、熱心に治療したおかげもあって、キリストの割礼日(1月1日)の前にはほとんどの打撲傷は目立たなくなった。
その間、退屈しているリナルドとシャルルに、デジレはギリシャ語の詩を朗読して聞かせた。格調高い文芸ギリシャ語の調べとその翻訳解説に、誰よりもシャルルが惚れこんだ。
「すごい、面白いね!」
デジレにはこれも計算通りだ。
だってこれは、前世の彼が好きだった英雄譚だからだ。デジレも食事に同席しながら聞いていたので、すっかり覚えてしまったというわけなのだった。
前世の彼はグレゴリオ聖歌もかなり好きで、わざわざ東ローマから教師を招聘するほどだった。
歌うような響きのあるギリシャ語の朗読も、グレゴリオ聖歌に負けないくらい愛好していたのだ。
ギリシャ叙事詩は、うまい詩人が朗読すると本当に面白い。手に汗握る戦いの様子が、ぱっと目の前に展開するかのようなのである。
「本格的に学ぶのなら東方の学者をお呼びになったらよろしいわ。お父上にご相談なさいませ」
「うん、そうするよ!」
彼の父・ぺパン王も聖歌が好きだから、ギリシャ語の朗読を気に入る可能性は高い。
デジレは気分爽快だった。蛮族に教養を身につけさせるのは、単純に気分がいい。どうしようもないやつらだが、十年もあれば少しはマシな男になるのではないかという期待も持てる。
そのかたわら、国力を限界まで殺ぎ、いずれどこかの国に攻め滅ぼさせる。完璧な計画だ。
デジレもともに処刑されることになったとしても悔いはない。この国を破滅させた女として、ぜひとも後世に語り継いでほしいところだ。
「そうだわ、もののついでにぺパン王にご相談したいことがあるのだけれど」
シャルルは目を丸くした。
***
デジレはシャルルと一緒に、ぺパン王の御前に出向いた。
シャルルの父、ぺパン王。
ぺパン王は背が低く、地味な服装をしている。一見すると王とは気づかないことも多い。しかし、見た目通りの農民のような人物だと侮るのは非常に危険だ。
元々フランクの宮宰(宰相)であった彼は、兄のシャルロマンと共謀して、当時の王を放逐し、統治者となった。
王位の簒奪を成功させ、蛮族たちとの戦争にも勝利し続けているあたりからして、かなりの名君であると言える。
シャルルの戦争の仕方はもっと苛烈だったが、基本戦略はぺパン王そっくりだ。従わない者を徹底的に武力で痛めつけ、反抗する気力を失わせる。その執拗な蹂躙は、自国の民にも恐怖心を植え付けるほどだ。反抗していた時期が長かったフランク王国内のアキテーヌ地方などは、今でもぺパン王のしたことを覚えていて、宮廷の行列が通りがかると、怯えて人々が逃げていく。
デジレはうやうやしく礼を尽くして、ぺパン王に挨拶をした。
彼は聡明な王らしく、デジレがちりばめた聖書の修辞に目ざとく気がついた。
デジレは思わせぶりな文句で彼の気を引いてから、小箱に納めた聖灰を取り出した。
(それは私の遺灰……何をする気ですか? デジレ姫)
マーリンがひるんだような声をあげる。