サン・ジャン・バプティスト
「もちろん後のこともちゃんと考えてあります。わたくしに話を合わせてくださいまし。いかに彼が重傷かを訴えましょう」
シャルルは、それでも不安そうだった。
「誰か、父上の騎士を連れていけたらいいんだけど」
「お金の出所を聞かれて、なんと答えるのですか?」
「……俺たちだけでやるしかないか」
シャルルは背中にくくりつけていた盾を手繰り寄せ、腕につけた。
この国の男は、集会に出席するときや話し合いに出向くときなども必ず武装する。武器を持つことで、発言権を得るのだ。逆に言えば、戦えない女や子どもに発言権がない、ということでもある。
デジレがじっと見つめていたせいか、シャルルは少し照れくさそうにした。
「俺はもう自分の武器を持ってるんだよ。すごいでしょ?」
この国では成人をしたときに盾と剣が与えられる。しかし彼は未成年だった。おそらくは練習用にと与えられたものなのだろう。立派な武具が、父王の溺愛ぶりを示していた。
「……怖くなんかないよ。俺が守るからね」
シャルルが優しく言ってデジレの手を取ったが、彼の方はだいぶ怯えているように見えた。
デジレたちがエイモンのところに尋ねていくと、彼は昼から酒を飲んで寝転がっていた。グイドも一緒だ。
「かわいそうなリナルドは死にかかっているわ」
開口一番デジレがそう突きつけると、そばで聞いていた母親のアヤ夫人が真っ青になってへたり込んだ。妹のブラダマンテがアヤに寄り添い、肩を抱いてやっている。
「彼の片手は永遠に動かない。騎士として活躍する望みが永遠に断たれたと知るべきね。かわいそうに、彼は生き恥を晒し、家族の食い扶持を減らすくらいなら首をくくると言って聞かないわ」
父エイモンは肩をすくめた。
「男手は足りてる。名誉を選ぶならそうするがいい」
デジレははらわたが煮えくり返る思いだった。
この国の男は戦って死ぬことを何よりの誉れとし、それ以外のことは些事だとして軽んじる。彼らが昼間っから働きもせずに寝転がり、女子どもや老人たちに冬の仕事をさせているのは、それが戦士としての在り方だからだ。
腐っている。
この国は腐っている。
家事を手伝わない男はみんな滅びればいいのだ。
(何か実感がこもっていますね……)
マーリンが口をはさんできたが、無視した。
戦争ばっかりしたがるシャルルの後ろで、城内の采配一切を必死になって仕切っていたデジレの気持ちなど、きっと誰にも理解できないに違いない。騎士たちへの恩賞と配給はいつも頭の痛い問題で、足りなくなると、いつも現地では略奪が発生した。敵国とはいえ、相手は無関係の農民たちだ。武器を持たないかわいそうな農民たちを、どうしてそこまで、と思うほどひどい目に遭わせるのだ。補給線を断たないようにするために、デジレがどれほど胃を痛めたことか。
デジレはエイモンに向かって言う。
「ならばちょうどいいわ。わたくし、身の回りの世話をする男手がひとり欲しかったの。女の小姓なんて片腕で十分。片腕の奴隷ならこのくらいで足りるかしら?」
デジレが金貨のたっぷり詰まった革袋をエイモンに差し出すと、彼は初めて床から身を起こした。
「金貨か? 妙なものを……」
フランクでは、まだまだ金貨は珍しい。それだけに、プレッシャーを与えるにはぴったりなのだ。
「リナルドはわたくしが奴隷にもらっていくわ。構わないわね?」
「待て!」
制止をかけたのはグイドだった。
「女の奴隷になり下がるなど、王家の恥だ。潔く死を選べと言ってやってくれ」
「わたくしはシャルルの妃よ? 側近に取り立てられるのはこの上ない名誉であると心得なさい」
「ダメだ、武人の名誉は金で売っていいもんじゃない!」
弟の命よりも名誉かと、デジレは呆れかえった。
「ねえ、あなた、リナルドが……なんとかしてちょうだい」
母親も顔面蒼白になっているが、エイモンはグイドの言葉に感化されたのか、金貨に手を伸ばしかけて、結局やめてしまった。
「リナルドを売る気はない。あいつは王の血を引く子だぞ。奴隷になり下がるぐらいなら死なせてやったほうが慈悲だろう」
エイモンまでそんな決断を下したものだから、デジレは瞬間的にカッとなった。
「名誉、名誉、名誉! 名誉がなんだっていうのよ! 生きてれば楽しいことだってたくさんあるわ!」
(神は自ら命を絶つことなどお望みにならないはず……と言いたいところですが、そういえばこの頃のフランク人はまだ自殺を禁忌だとは考えていなかったのでしたっけ。この五百年後、トマス・アクィナスのころから明確に禁じられるようになった、と)
マーリンの説明は、まるで対岸の火事といった風で、聞いているだけで頭痛がするため、デジレは完全に無視をした。
馬鹿につける薬はない。エイモンはたとえ倍額積まれてもリナルドを売ったりはしないだろう。
デジレが歯噛みしていると、シャルルが一歩前に出た。
「リナルドは俺たちが引き取るよ。もう決めたんだ。異議があるなら、神意にかけて戦え!」
シャルルが武器を手に取り、掲げる。
結局はそうなるしかないのだ。
この国のことは、すべて力で決まる。
決まったことが、神意――神の思し召しとなる。
決闘の申し込みに、グイドは目をぎらつかせて、立ち上がった。
グイドもまた王の血を引いており、玉座には比較的近い位置にいる。王子のシャルルを力づくで下した実績があれば、ゆくゆくは王になるチャンスだって巡ってくるかもしれない。直情径行の男がこれを逃すはずはなかった。
(ぺパン王もまた実力でのしあがった人物ですから、可能性はあるでしょうね。ところで、止めないのですか、デジレ姫?)
デジレはどうでもよかった。どちらかが負けて命を落としたとしても、復讐する相手が一人減る。それだけの話だ。
蛮族たちなど、相争って自滅すればいい。
デジレは頭に血がのぼっていた。もうたくさんだ。こんな国はもうたくさん。
グイドとシャルルは、広場で向かい合って一騎打ちをすることになった。
デジレは決闘を始める前に、宣誓を要求することにした。
宝石付きの小箱を取り出し、その場にいる全員に見せつけるようにして掲げる。
「これはわが故郷パヴィアの聖ヨハネ教会からはるばる運ばれてきた、洗礼者ヨハネの灰である! そなたらの心が真に誠実なる旨、この遺灰に宣誓されたし!」
これはデジレが結婚時に母親から譲り受けた先祖伝来の宝箱で、本来は貴重品を入れるのに使っていたのだが、手持ちの中で一番装飾が美しく、いかにも聖遺物入れらしいので泣く泣く持ってきたのである。
(またそんな大嘘を……よりによって聖ヨハネの遺灰とは……もう少しマイナーで嘘がバレにくい聖人はいなかったんですか?)
しょうがないでしょ、とデジレは毒づく。身近に手に入るもので一番徳が高そうな人物の遺体が、これしかなかったのよ。
あなたもキリスト教徒なら土葬されればよかったのに。
マーリンはぎょっとした。
(え!? まさか、その遺灰は……)