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火刑台の王妃

「おぬしは恋をしたことがあるか? 余はおぬしは恋をしたことがあるにちがいないと思う。なぜなら、騎士であって、一度も恋をしたことがないというのは、胸の中に心臓ハートを持たない男のようなものだからだ」


シャルルマーニュ伝説 中世の騎士ロマンス トマス・ブルフィンチ 市場泰男 訳 講談社学術文庫


 ユリウス暦七七〇年、聖ランドリーの日。


 広場の中央に、うら若い女性が磔にされていた。ダークブロンドの髪を振り乱し、ごく薄い下着のみを身にまとった裸足で、後ろ手に縛られている。


 足もとには火刑用の藁がうずたかく積まれていた。


 彼女の告解が済み次第、火をつけ、女性が燃え盛る様子を見世物にする、という寸法だった。


 彼女の名はデジレ。


 シャルルマーニュ大帝の妃だ。


 シャルルマーニュは、ゲルマン風の美しい大男だった。母親譲りの金髪碧眼で、容貌はきわめて優美。体格は魁偉で、当時としても飛びぬけて高い上背にがっしりとした身体つきをしており、ひとたび剣をふるえば無類の強さを誇る。


 若く美男の大帝は、政略結婚でいやいや娶った妃に何の情も持ち合わせていないらしく、少し離れた高座から、つまらなさそうに処刑を見守っている。


 彼の隣には、美しい黒髪の女性が寄り添っている。この世のものとも思えないほど整った目鼻立ちに、真っ黒に濡れた瞳。額に描かれた赤い点は、遠い異国カタイの化粧法で、その見慣れない化粧が、彼女の抜けるように白い肌と黒い瞳をいっそう際立たせていた。


 アンジェリカという名のカタイの王女は、彗星のようにシャルルマーニュの前へと現れ、女好きの彼をあっという間に虜にしてしまった。


 そして用済みになったデジレは、陰謀によって陥れられ、火刑に処されることになった。


 周囲には無数の人がつめかけている。ぎゅうぎゅう詰めの民衆が発するぎらぎらとした興奮のせいか、あたりは夏のように蒸し暑い。


 当時のフランク王国は暖かかった。八世紀前半の大陸を覆っていた厳しく寒冷な気候が、後半になると一気に温暖で過ごしやすいものに変わったのだ。


 聖ランドリーの日(六月十日)のこの陽気の中にあっては、ゲルマン風の野暮ったい毛皮を着ている者は皆無だった。


 磔にされている女性は、まっすぐに民衆を見つめている。


 デジレは、司祭から『死の前に何か告白したいことはないか』と問われた。


 怒りに燃え、彼女は声を限りにして叫ぶ。


「神よ、我を救いたまえ! 我に仇なし、逆らい驕った者どもより守りたまえ」


 デジレが呪いの言葉を吐いたため、民衆の興奮は最高潮に達した。誰彼となく、燃やせ、という叫び声があがる。


 藁についた火は、あっという間に燃え広がった。人の肉が焼ける匂いが鼻をつく。


 ――ああ、どうして。


 デジレは火傷の苦痛に身をよじりながら、思う。


 ――どうしてわたくしが死なねばならないの。わたくしは不貞を働かれた被害者よ。本当に死ぬべきは、わたくしを裏切り、罪を犯したシャルルマーニュと、あのアンジェリカとかいう、いかがわしい女の方じゃないの。なのに、どうしてわたくしが……


 自問するものの、本当はデジレにも分かっていた。


 当時のフランク人は、妻殺しを働いても、法的にはまったく問題がなかった、ということは。


 夫の持つ権力は絶対なので、側室を持つことも暗黙のうちに許されていたばかりか、妻が邪魔になれば、いつでも好きなときに離婚して、家から追い出すことができた。


 アンジェリカと不貞を働き、デジレに濡れ衣を着せて焼き殺したシャルルマーニュ。


 ここまでのことをしても、それでも、シャルルマーニュのしたことはまったく罪にならなかったのである。


 デジレは燃え盛る炎越しに、シャルルマーニュと目が合った。


 傲岸不遜の皇帝は、苦悶に身をよじるデジレを見て、薄く笑った。ほほ笑みの形を取った目元にもありありと浮かぶ、権勢を誇る強者の余裕。彼はこの瞬間、確かに楽しんでいたのだ。おのが持つ力で、他人の命が虫けらのように散るさまを。指先一つで有象無象の命運が思いのままになる、その圧倒的な権力を。


 彼は民衆が英雄を求める時代に到達した、最高の頂点だった。戦勝の凱歌で高らかにその名を呼ばれる、軍神マルスだった。民衆は彼の美しさ、強さに、権力に酔った。すべてを手にする男に寄せられた無数の崇敬が、フランクを西方最強の国家に押し上げた。


 ――ああ……


 デジレは薄れゆく意識の中で思う。


 ――この男に復讐できるのなら、悪魔にだって魂を売り渡してやるのに……


 しかしそれは不可能であるように思われた。


 シャルルマーニュ大帝は今や音に聞こえた大君主で、東のローマ皇帝にも並ぶ、西の覇王、西のローマ皇帝だったからである。


***


 次に目を覚ましたとき、デジレは洞窟のような場所にいた。祭壇があり、赤い石の墓石がそばに建っている。


 そこに、ドルイド僧のようなローブを着た人物が、ぽつんと立っていた。フードを目深にかぶっており、人相はデジレから窺えない。


「災難でしたね。ロンバルディアの王女、デジレ姫」


 不思議な人物が発する声は、男性のもののように聞こえた。


「まさかこんな結末をたどるとは、私にも予想がつきませんでした。さぞや無念だったでしょう」


 ねぎらう人物の素性に、デジレは心当たりがない。


 デジレは孤独だった。元から、生気に乏しく目立たない性格だったのも災いしてか、人望があって慕われていたシャルルマーニュとは対照的に、デジレは寂しい結婚生活を送っていたのだ。


「あなたは……?」

「私は魔術師マーリン。ここは、私の墓所ですよ」


 デジレは息をのんだ。


 マーリンといえば、あの有名な円卓の騎士のひとりではないか。アーサー王にエクスカリバーを与え、キャメロット城の繁栄を担った、世紀の大魔術師だ。


 もちろんデジレは彼との面識はない。デジレの前に彼が現れた理由は、見当もつかなかった。


「なぜ……わたくしは、もう死んだはずでは……」

「あなたの肉体は滅びました。しかし魂は、私の魔術でこうしてしっかりと捕まえています」


 デジレは目を丸くするばかりで、ひと言も発せなかった。


「私は泉の妖精ヴィヴィアンに騙され、ここに閉じ込められて以来、静かに外の世界を見守っていました。シャルルマーニュ大帝の周辺に起きる不思議なできごとも、大局のうちのひとつとして面白く眺めていたのです。しかし――」


 マーリンは大きな身振りで嘆きを表現した。


「――あなたが死んだあとのあの世界のことを少しお話ししましょう。あの後、アンジェリカはシャルルマーニュを騙して殺し、フランク王国はカタイの王に征服されてしまいます」

「なんてこと」


 シャルルマーニュの権勢を知っているデジレには、にわかに信じられないことだった。


 あの憎らしい美男の王は、何でも持っていた。宝も、美女も、奴隷も。国、仲間、民からの崇敬、ありとあらゆるものが彼のものだった。


 それが、あんな小娘にやられて、すべて水の泡となってしまうなんて。


「それだけではありません。カタイ人が異教のシンボルを壊して回ったせいで、私の墓所も荒らされ、遺灰はちりぢりに、私の霊魂も終末のラッパを待たずしてこの世から消えてゆく……という結末が見えてしまったのです。それでは困ります。どんな結末になるにしろ、私はまだ消えたくはありませんから」


 マーリンは手にしていた杖を振った。


「あなたにやり直しのチャンスを与えましょう。その手でどうか、私の墓所を、カタイ人やモーロ人の魔の手から守ってください」


 デジレが何かを言うよりも早く、マーリンの姿はかき消え、すべてが暗闇に沈んだ。



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