第二区分
「タマいい仕事したなあ。レイアウトも美しいぞ」
予定よりずっと早く原稿が上がり、郷土研究部の顧問は上機嫌だった。仕上げた活動記録は年末のOB会のお土産リーフレットになる。
「オレ頑張ったよ先生。約束通り冬休みのイベントお願いします!」
「おう、任せとけ」
抱えていた案件が片付いた。次の部内行事は冬休み直前、研修旅行という名の親睦会だ。学校の許可や旅行会社の手配は先生の管轄なので、部長のオレはひと段落、職員室を出て背伸びする。
廊下の窓から見える校門前には、下校途中のカップルがいる。ゴツイ男子とちっさい女子。
(おう、ダブルひろのじゃんよ)
サッカー部の渡辺と同じクラスの相沢さんだった。
彼等は秋口から付き合いだした学年のイチオシペアだ。二人共「ひろの」という同じ名前で、見た目がヒグマとレッサーパンダ、または虎とスコティッシュホールド。色気も嫌味も無く微笑ましくて、見ているだけで幸せな気持ちになれる。
(うんうん、あの二人、本当に可愛いよな)
オレもひとりでニッコリ癒される。
美波ちゃんはその相沢ひろのちゃんと同じクラスで親友同士。小さい可愛いコリス姫とモデル系の美波ちゃんには、これまた不思議な相性の良さが見えた。
その相沢さんにカレが出来て、美波ちゃんは手持ち無沙汰なんだろう、最近オレとよく絡む。多分手持ち無沙汰なだけだろう。それ故つるんで歩く。
「あー疲れた。めっちゃ甘いモノ食べたい。タマちゃん、今日はスーパーに寄るよ」
美波ちゃんは文系有名私大の赤本をコピーし終わると、オレに向かって言い放った。
晩秋の放課後、職員室横の進路指導室、素敵女子から誘われるスーパー。溢れる生活感はオカンとPTAの仲間達に準ずる。
「今日は何をシェアするのかな」
「アイス。限定販売のザッハトルテ」
美波ちゃんは自分に厳しく、おやつは何でも半分で辞める。そんな情報を知るオレは完全に友人ポジション。
「スーパーよりコンビニのほうが居心地いいじゃんよ」
「やだ。定価で高いもん」
「はいはい」「はいは一回」「はーい」
誰もいない廊下に、美波ちゃんの笑い声と二人分のスリッパが響く。
美波ちゃんのオレへの態度は奔放かつ散漫で、オレは受け身に徹している。あの時バス停で見かけた城穂男子も、その後は影も形もない。
(新カレじゃなかったのか)
ホッとするべきなのか、この大雑把な状況を憂うべきか。それから、あの時分を思い出すと、他の傷も疼く。バス停での目撃は、オレの中ではナバと地本に行った時の空気とセットになっている。
ナバと地本。その繋がりはオレのコンプレックスを刺激する。何故なら航空祭の後、ナバと仲たがい、じゃない、オレが勝手に拗ね、じゃなかった、怒ったからだ。ナバに愛想をつかしたからだ。
だけど何故そうなったのかは、ナバは知ったことではないだろう。今までオレが何を考えて何を思っていたか、なんて論外だろうし、仮に気付いていたとしても……まるで理解も出来ないと思う。
あの時、航空祭の帰り。毎年の事だけど基地周辺の道が激混みで、観客も交通整理の警察官も殺気だっていた帰り道。遠方ナンバーの車は列をなし、押して歩くバイクや自転車は邪魔モノ扱い。狭い街の狭い道はもれなく人で埋まった。
オレ達はその日は徒歩、裏道を知る地元の強みで、サクサク帰る筈だった。
だけど今年は腹が立った。
「ここで止まるな!」「さっさと歩けよ!」
国道に掛かる小さな横断歩道で、懸命に歩く小学生達に酷い言葉を浴びさせるその大人の態度は、まるでなってなかった。
大きな荷物を抱えたそのオヤジは遠征組か。ああいう輩のせいで航空ファン全体の印象も落ちるのに。そもそも可哀想な小学生達に罪はない。横断歩道の向こうまで人の波でぎっしりなのだ。
(おい、県警は?)
頼みの綱の制服達は残念ながら人の流れを捌くので精一杯で、こちらに気付けない様子だった。今年の動員は予想以上だったらしく、高校生にもわかる人出不足だ。
「なんだよあのオッサン。あんな言い方しやがって」
ナバも同じ気持ちだったのか、ぼそっと溢した。
瞬間、やばいと思った。本人に聞こえたかもしれない。ただ、セオリー通りに
「なんだオマエ、文句あるのか」
振り向いて鬼の形相でナバを睨んできたオヤジは、心底ダメだと思う。
面倒くせえオッサンだった。クソッ腹も立った。そもそも主催者からしたら、将来を担う小さなオコサマ達の方が大事なお客様だ。アンタみたいな自己チュウジジイが一番要らねえんだぞ。
でも同時に怖いとも思った。態度が悪いとはいえ相手は大人だ。対してこちらは高校生、周りも人だかりで逃げ場が無い。このシチュエーションはとても難儀だ。
「あ、スミマセン、誤解です、こっちの話です」
とっさに謝って話題を反らしたオレは、多分気が利いていたと思う。すごく理不尽で狡いけど、でもこの場は丸く収めた方が、結局スムーズになると思う。
だけどナバは怒った。オレに対して。
「タマはなんでいつも弱気なんだよ!」
オヤジに対する怒りの矛先をオレに寄越すナバも、大概にしなければと思う。
その瞬間の、オレの脱力といったらなかった。
(は)(何言ってんだコイツは)(言ってる意味わかってんのか)
一気に疲れて同時に呆れて腹も立った。あのな、お前のピンチを救ってやったのはこのオレだろうよ。オレに八つ当たりすんな。
「なんだそれ。お前、この状況の何見てんだよ」
本当はそう言い返したかった。お前、今までどれだけオレに迷惑かけてきたかわかってるのか?
小中学時代、バカ真っ直ぐなナバは周囲と色々あったのだ。他のヤツとの絡みとか下らない陰口とかつまらない事も沢山、沢山あった。でもオレはそんな雑音は全部流してきた。なかったコトにして、時には周りからナバを庇った。ナバがハブかれた時も、放課後こっそり一緒に遊んだ。
それもこれも安心できるお互いの生活の為に、希少な趣味友達の安全の為に、いちいち揉めたくなかったからだ。
(オレの苦労……オマエ本当に全っ然、まるでわかってないだろ)
いい加減にしろ。いつも言いたいコトだけ何も考えないでクチに出しやがって。こっちがどんなにココロ砕いてお前との関係を維持しているのか、お前をフォローしてきたのか、そんな事もわからないのかこの野郎。
でもオレは心底参っていた。この曇り空に。時々降る雨に。混雑した道に。それから今日もいい仕事をする、憧れのT4の連隊を指差して
「オレは必ず将来あれに乗るぜ!」
そう無邪気に言い放つナバに。
そして気付いた。オレ自身もナバのこういう無邪気で我儘過ぎる所作に、無意識な部分で散々打ちのめされていた事実に。
その時のオレは冷たい目をしていたと思う。何しろ既にモノも言えなくなっていたのだ、我慢している事が多すぎて。今までの腹立ちながらも堪えてきたエピソードが多すぎて。そしてそれはもう限界で、決壊寸前だった事が判明して。
(コイツ、バカだ)
考えをまとめる余裕もなかった。ナバに色々伝えるエネルギーは、もう残ってなかった。
「なんだよその顔」
ナバは容赦なくオレに言う。
「タマは気に入らないとすぐ黙りこくって、そういういじけた顔する。周りに伝える作業を省く。だから弱いんだよ」
容赦なく、言い放つ。
「ホントはタマだって航空学生受けたいくせに」
本当に、本当に、よく堪えたと思う。殴りかかりたい気持ちを堪えて、でも感情は抑える事が出来なくて、文字通り黙りこくって歩いた自分は、だけど間違いなくナバよりは大人だと思う。
「タマはこどもなんだよ。誤魔化してばっかりでやり過ごすばっかりで、そんなんじゃ前進しねえんだよ」
お前の方が無謀なんじゃないか。迂闊なんじゃないか。殴れたらどんなに楽だろう。
でももう、その行動すら無駄だ。論破するにも取っ組み合いの喧嘩をするにも体力と気力がいる。そんな元気は悪いけど、もうない。てか、ナバにその大事な体力を使う気力が一切湧かない。
いつもいつもそうだ。
ナバだけじゃない。文句を言うだけ言い垂れている奴のほうが、世の中なんでもうまくやってる。学校でデカい顔している運動部とか。先生の前だけでいい顔している優等生とか。明るさと下品をはき違えてる女子とか。
なんでナバみたいな奴らは、迷惑を回りにまき散らしていることに気付かないんだろう。自分が正しいだなんて、なんで思い上がれるんだろう。
「最近のタマちゃんは時々難しい顔をするね」
スーパーの駐輪場で美波ちゃんはアイスを先に半分食べ終えて言った。
「え、そお?」
「うん、皴が寄ってる、ここ」
美波ちゃんにおでこをつい、と触られた。ドキリとしながらあははと笑った。
「タマちゃんって顔のラインが綺麗だから、髪を伸ばして毛先を散らすといいんじゃないかな。メガネ男子の偏差値が上がるよ」
「いえいえ、これ以上モテたら周囲から一層嫉妬されちゃいますから」
「きゃははは」
「おや、何故笑うのかな」
「うはははは」
健全なるヌイグルミ扱い。スプーンは別々。アイスの中にチョコケーキの塊がいい具合に混ざる。
「でもタマちゃんて、めっちゃ大事に育てられたって感じがする」
「褒められていない事だけは理解できましたありがとうございます」
「そんなことないよ。暖かいご家庭に育まれた感じがするよ」
「危険なニオイは一切無いとよく言われます」
無防備な美波ちゃんを家に送るチャンスも無いまま流れる夕方。冬が始まるよ。
こっそり溜め息をつく。ナバの件で猛烈に腹が立って、その勢いに乗ったまま部の仕事をやっつけた。そうしたら仕上げまでの時間が秒速だった。オレは自分が思っているより文系向きかもしれない。
ナバとつるんでいた放課後がぽっかりと空いて、その分美波ちゃんと寄り道する。美波ちゃんは今まで数多のモテ男子とつるんでいた時間を、オレで埋める。
でもこれは、寄り添うのとはちょっと違う。依存とか、時間つぶしとか。あんまり幸せな過ごし方じゃないような気がする。
「うわ、サムイ」「うん、今日寒い」「オレ成績もサムイ」
美波ちゃんがゲラゲラ笑った。ひろのちゃんは反応に困った顔をした。テストも終了。北風ぴゅうぴゅう。廊下が寒い。
あれから一か月以上が過ぎても、ナバとは一切関わらなかった。
もし何かあったら困った。絶対いい顔なんか、普通のフリなんか出来なかった。だからオレからは絶対に動きたくなかった。連絡を取らなくて心底よかった。
そんな訳で、ナバからも連絡は皆無。いつもなら適当な時間を空けてメールだのなんだの寄越すのに。
(あーあ、バカらし)
でもいいや。オレ悪くない。日常で困る訳でもないし、これでいい。別にヲタ話が出来なくても、無いならナシでいい。部活も上手く回らない。部活が回らないのはアレだけど、ナバの事は……もういい。
冬季休暇中の部内研修旅行がギリギリで中止、近場の日帰りに変更になった。
「何故だ!」
ブウブウと部員みんなで文句を行った。
今年の終業式はクリスマスイブ。放課後は高速バスで上京、イルミネーションの経済効果について検証しつつカプセルホテルに宿泊、明後日は志望大学も見学しつつ各自観光。旅費を抑えたおかげで全部員参加が可能になって、誰もが楽しみにしていたのに。
「どうせ校長だろ」「校長の横やりに決まってるだろ」「なんでも他の部との兼ね合いがなんとか、冬休みの補習授業がかんとか」「何それ」「訳わからん」「あーあ、オープンキャンパスの代わりだったのに(建前)」
弱り顔の顧問は俺達に「必ず春休み研修はうまく通す」と請け負ってくれたけど、クリスマスのこの時期に行きたかったんすよセンセ。
だがクリスマスだからこその駄目出しだ。イベント時期にオレ達が何かをしでかさないように。わかりやすく、冬休みにオレ達が羽目を外さないように。キタナイ大人の策略だ。
結果、オレと美波ちゃんと一緒にいるのは『ひろの』の片割れ、小っさい方だ。サッカー部も被害を被って、ゴツイひろのは急な遠征に出されたからだ。
「タマちゃん、イブの午後に三人で遊ばない?」
ひろのちゃんを思いやる美波ちゃんから魅力ある提案を貰った。なんたる素晴らしきおこぼれ、プレシャスな棚ボタ。
「勿論オレからもお誘いしようと思っておりました!」
オレだって寂しそうな美波ちゃんを一人にはしないさ。
「なんだよタマ、おまえら最近仲よくね?」
時々、ほんの時々、ヤロウどもからヤッカまれるけれど。
「タマちゃん、もしかして、今大庭さんと付き合ってるの?」
女子の皆さんからも、すごーく不自然に探りが入るけど。
「え、待って待って、オレら付きあってるように見えるって、わあ嬉しい!」
そうすると必ず全員が「あ、うん、わかった」と『お友達フラグ』を完全ジャッジされるのは不徳の致すところだけれど。
でも、何の確認なのかもわかる。
『大庭さんて今誰と付きあってる?』『大庭さん、今度は誰?』
なんだよみんな、美波ちゃんの事、すぐ意地悪く見やがって。
美波ちゃんはちょっと……かなり、同性受けが良くない。綺麗なせいで冷たく見えるし人気男子の中野太一と長く付き合っていたし、そもそも美波ちゃんは人見知りでタイミングも悪くて、色々損しているのが判る。誰とでもすぐ打ち解けられないタイプだし。
だが女子は総じて面倒くさいものなのだ。
(ひとりにはしないさ、っと)
タマちゃんの任務は、何にも気付かず何にも動じず、ただ愉快な空間を提供する事である。ポジションは心得ている。慣れとも言う。
美波ちゃんが孤独にならなければいいのさ。誰よりもミッションを遂行するのさ。さあ行こう。あの人は楽しみたがっている。
「お二人さん、ボーリングとカラオケのセット、どう?」
学割クーポンと貯めたポイントをフル活用する機会じゃんよ。美波ちゃんとひろのちゃんだなんて両手に花じゃんよ。高二のクリスマスイブ、オレにとってはいい青春のイチペエジじゃんよ。男子どもにめっちゃ羨ましがられるじゃんよ!
さあ行こう。皆さんは楽しみたがっている。北風は冷たくない。駅前の青いイルミネーションだって、勿論寒くない。
夕方近く、冬休み前の他校生徒や年末で慌ただしい市井の人々でごった返す駅前。三人で駅ビルの安いクリスマスの飾りを残念がって、北口の間抜けた電飾を素通りしてコンコースを渡る、田舎の県庁所在地、安く穏やかなクリスマス。
考えてみたら、今のオレに東京のイルミネーションは眩しすぎたと思う。これで十分。そう、これでよかった。部の旅行が中止でよかった。美波ちゃん達と過ごせて素晴らしい。
つくづくそう思うのに、気を付けないとテンションが下がる。
(くっそ、自分、モチベーションねえな!)
なんの気落ちだ。なんだオレ。
さっきは少々ボーリングで騒ぎ過ぎた。てか、オレ体力なさすぎ。いや、気力かな。たかだか三ゲームだったのに。オーバーアクションでふざけただけなのに。
カラオケは美波ちゃんが端末から予約を入れていた。だのに、
「ねえタマちゃん、声ガラガラだよ。大丈夫?」
ひろのちゃんに心配され
「風邪かな。無理しないでね」
美波ちゃんにも言われ。いやいやいや、ここで踏ん張らなかったらどこで頑張るんですかオレ。
「全然大丈夫ですよータマちゃんリサイタル始まりますよー」
履歴に残ってるヤツ、かたっぱしから歌いますよオレ。何でもしますよオレ。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫大丈夫!」
「わかった、ちょっとお買物してくるから、二人とも待ってて」
美波ちゃんがコンコース沿いのコンビニに入った。
駅に向かう人混みはそこそこ。クリスマスイブでも仕事仕様のひとは程々。
「ゴツいヒロノとの予定は結局どうなったん?」
ぼんやり取り残された間、隣のひろのちゃんに話しかける。
「うーん、私達は明日の夜少し会えたらラッキーかな。でも今夜は私、美波んちで過ごすの」
ひろのちゃんがぽんぽんと背中のリュックを叩いた。お泊りセットが入っているらしい。
「仲良しとお泊りって一番素敵じゃん」
「えへへ、そうだね」
みんな楽しければいいのさ。ああ、なんかボーッとするなオレ。まさか熱なんかないだろうなオレ。
体調のせいだろうか。今の自分は素に戻っているような気がする。いつもより感覚がストレートに出やすい状態な気がする。
オレらの横を通り過ぎたスーツ姿の二人連れを見た時には、既に意識が飛んでいたのかもしれない。いや、筋金入りのヲタクの血が騒いだのかもしれない。仕事の話をしながら歩く、横幅のある年配の方と優秀そうな小柄な若手。小柄なひろのちゃんを通り越して、やっぱり小柄なスーツ姿のその男性に、一瞬で目が釘付けになった。吸い寄せられてしまった。
「デールさん!」
声に出してしまった。
「ん、タマちゃん、デールさんて?」
ひろのちゃんは不思議そうにオレの視線をたどった。オレの声に反応したその人はこちらを見た。目が合う。心臓がバクバクする。
(あ)
やっぱ見たコトのある顔だ。ドキドキする。
(デールさん、だ、よな?)
雑誌でパンフレットで空自ホムペで、そしてこの間の航空祭で、間近で見た事のある人だ。デールさんだ。なんでこんな所で。
(ここが地元だから?)でもサインを貰った時とは印象が違う。
(スーツのせいだから?)でも待てよ、あの人達の仕事でこんな駅前に来る事ってあるのか。
広報部隊の今年度のスケジュールが頭をよぎる。毎年年末の活動は部隊本拠地だけだ。なんか変だ、額に嫌な汗が。意識が飛ぶ。だってデールさんがここに居るのって……おかしくね?
妙な間が空いた。テンパるオレに、でもその人はキチンとこちらを向くと柔かに言った。ひょっとしたらこの人はこういう状況が他でもあったのかもしれない。小柄な体には不似合いな、低く、渋く響く声。社会で磨き上げられた声。
「もしかして、航空祭を見てくださった方ですか」
喉仏がすごく恰好よく上下に動くのがわかった。その瞬間にやっとオレも気付いた。頰が熱くなった。
(あ、違、)
この人、デールさんじゃない。航空祭の時にサインしてもらった時とやっぱり違う。顔とか声とか似てるけど、でもよく見ると体格とか声の出し方とか、雰囲気とか気配とか。
(間違えた)
どんどん恥ずかしくなった。
(やべえ、間違えた)
赤くなるオレにその大人のひとはまた丁寧に言った。
「僕、『デール』の兄です。弟の応援、どうもありがとうございます」
(うわあああああ)
それを聞いてもっと赤くなった。この人が『チップさん』だ。弁護士になったと噂の、優秀なお兄さんだ!
赤く固くなるオレの隣で、小さいひろのちゃんが戸惑っているのがとてもとてもわかるんだけれど、どうしましょう。タマちゃんは肝心な時には一番使えない人種なのである。
それなのに空気を読んで場を解せるチップさんはなんて大人なんだろう。オレ達の制服を確認してチップさんは笑った。
「二人とも光洋高校の生徒さんだね。僕、OBです」
それから
「光洋は今も変わらず宿題が多いんですか?」
ひろのちゃんの様子を察していろんな説明を省いて、世間話にしてくれた。
「あ、はい、すごいです。冬休みも酷い量が出ました」
「そうなんだ。全然変わってないんだね」
チップさんは笑って穏やかな場を提供してくれた。こんなオレ達にも。それから、
「すぐ大学受験でしょうが、がんばってくださいね。じゃあ」
そう言って、もう一人の年配の方と駅に向かった。
オレ達は慌てて頭を下げた。教師以外の大人とちゃんと関わる事の少ないオレ達は、ちゃんとした大人にちゃんと対応してもらうだけで緊張する。バクバクとガクガクする。
「タマちゃん、今の人、部のOBさん?」
ひろのちゃんに聞かれて我に返って、説明し辛くて躊躇していると、買い物を済ませた美波ちゃんが戻ってきた。
「どうしよう私、予約の時間、間違えてたかも」
端末を見ながらオレ達を促した。
「五時に入れたつもりだったんだけど……四時半にしちゃってたかも」
「わ、そんなら急ご!」
パタパタするひろのちゃんを見ながら、その後ろで美波ちゃんはオレにこっそり小さい包みをくれた。
「何コレ?」
「ノド飴。タマちゃんやっぱ今日、声ガラガラ」
買い物した品物のひとつらしい。辛いけどすごく効くよ、そう言って渡してくれた。
だけど渡してもらう時に思い知らされる。いつも感じている事で、自分自身ではとうに納得している事で、でもやっぱり面白くなくて、それでもどうしようもない事なのを重々承知していて。
そしてまた思い知らされる。美波ちゃんは不必要にオレと近づくのを避ける。
例えば今、手が触れそうになった時。いつも喋る時、一緒に歩く時。抜群の絶妙の空間を、オレとの間に常に作る。パーソナルスペース。
「アナタはただのお友達ですよ」
そう言い渡される間合い。それは中野太一の時には作らなかった空間だ。多分あの城穂の生徒にも。オレはいつも只の『愉快なタマちゃん』であって、美波ちゃんのカレでは決してないと、同級生達が認定する、最も有力な証拠だ。
いつもなら仕方ないとすぐ思えるのに、その時は違った。とことん傷ついた。クリスマスのせいかもしれない。または、デールさんのお兄さんに会えてスペシャルに興奮して、イカした大人の声を聞いて、自分の中の何かが覚醒して、その対比で現実を改めて思い知らされたから、かもしれないけれど。
だけど覚醒なんて高貴なモンじゃなくて、余分な自意識かもしれない。結局オレはただのガキでただの中二病で、その気付きはただの神経衰弱で、
『天上天下唯我独尊』
あれ、これってどういう意味だったっけか。兎に角自分はいつもとは違うのだ。いつも以上に余裕がないというか。
蓋が外れたかもしれない。やっぱり熱があるのかもしれない。
自分の事すら満足に支えられないヤツが、人の為になんか、動ける訳がないのだ。
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