第一区分
薄ねずみ色の雲の厚さに比例して、戦闘機の離陸音が重く響く。迫力の爆音はまるで雷で、その間の生活音は全て消える。
音源は隣町にある空自基地だ。光洋高校でも先生の口元だけが動いている。今日はこれから雨が降る。薄暗い教室に電気が灯る。机の下、端末の画面を覗いてみると、
『流石の木曜日。どの機種も元気やん』
思った通りのメッセージが届いた。送り主は東高に通う稲葉カズキ、通称ナバ。オレの小中学時代の友人だ。
『はよ。今日はどうよ』
『お目当ての皆様は今朝到着!』
『マジか、何か見えた?』
『見えなかったけどネットに書き込みがあった』
いよいよ来たかとニヤニヤする。きっとナバも笑っている。
「こーら、タマ!」
途端に頭上に叱責が走る。担任の物理教師に睨まれた玉木トオル君、早々に落雷にて周囲失笑。ボク低血圧なんですと溢した所で誰も信用なぞしない。
ナバが通う東高の立地は、光洋高より北東のちょっとした高台にある。校舎内から南に位置する空自基地の離発着の確認は盤石で、実はナバはそれを目的に東高に進学した筋金入りの飛行機バカだ。進路希望も航空学生(自衛隊パイロット養成機関)、純粋テンプレート極まりない。
「国防はオレにまかせてな。あの5番機にも乗ってみせるからな、待ってろよ」
5番機とは、航空自衛隊の広報の花形を差す。
航空学生に進学出来たところで戦闘機パイロットの門戸は恐ろしく狭いのに、自分を信じるナバの真っ直ぐさは無性に眩しい。でも奴ならイケるかもと、実は時々思う。叶うといいなとも勿論思う。猪突猛進で人とぶつかったりもするけれど、気質はきっと最前線向きだ。視力も運動神経もルックスも良くて、やっぱり向いていると思う。
男子なら一度は憧れる職業を目指す。それだけでも格好いい。オレだって小さい頃、航空博物館で順番にコックピットに座らせてもらった時はヤバくて痺れた。だけど適性の壁は容赦が無くて、幼少時から眼鏡がお供で乗り物も苦手、体育も平凡な立場は切ない限りだ。それにナバみたいに飛行機を見たいが為に東高に行きたいだなんて、とても親にも言い出せなかった。そもそもオレは未来の展望なんてまるで無くて、今も学校側の口車に乗せられ国立理系クラスを選択、結果物理惨敗、現在は文転を示唆されて、コテンパンになっている。ナバとは色々気合が違う。
来週はその空自基地で航空祭。広報部隊の到着音は戦闘機と違ってはにかみ屋なので、近くにいてもわかりにくい。だから遠くに居るオレは何もかも聞き逃すんだろう。気概の無さが隔てを作る。
「やっぱ今日はもうマニアで混むかな」
「雨もな、ヤバそうだよな」
本日の放課後は空自基地そばのファミレスでナバと待ち合わせ、お互いの部活はバックレと相成った。
「じゃあ今日は止すか」
「いや行くよ、当然だろ」
ナバの強い欲望の元、小雨がぱらつく中塀つたいに結構な距離をチャリで走って、細長い敷地の公園に着いた。
高い塀と金網の向こうが空自の飛行場だ。ここは飛行機の離発着が見える激写スポットで、眺める戦闘機のお腹はさしずめ銀色のスルメといった気配。マニアの皆様の邪魔にならない様、オレらは離れて待機した。写真や動画は要らない。いられるだけで十分だから。
「デールさん、見えたりして」
背の高いナバが目を凝らす。
「見える訳はないけど寄港されてる筈だし。今年もここで見張ろうじゃんよ!」
「はは、オレらって完璧なヲタ」
近視のオレも目を凝らす。空自基地の大きな格納庫、その中に並ぶ機種。空想に妄想で胸一杯になる。
「でも今日はもう飛ばないよ」
「飛ばないけどさ、なんとなくここにいたくね?」
それこそ毎年恒例の二人の儀式、なんちゃって出待ちなので異論はない。オレ等流のウオームアップだ。
デールというTACネームを持つそのパイロット様は、今年度から広報部隊に参加している、なんと光洋高のOBだ。学年だと十七期も遡る。
これをプロフィール欄で見つけた時のオレの喜びとナバの悔しがり様といったらなかった。
なんでもそのネームの由来が「チップとデール」からで、理由はご自身が小柄でちゃっかりモノだとか。本当に双子のお兄さんがいてその方はしっかり者、現在は弁護士でいらっしゃるとか。優秀なシマリスに敬意を評し、オレらの鞄にぶら下がるマスコットはディズニーだ。クチの悪い同級生に二人はデキてると囃され、オレは非常に不本意だ。
雨がいよいよ本格的に降り始めたのをキッカケに、オレ達は帰る。
「週末はT4の音聞きまくりじゃね?」
「予行は土曜だけだろ、基地のホムペに告示あったし」
「あーあ、一昨年は結構飛んだのにな」
T4とは小さ目のアクロの飛行機種で、小回りが利くイルカの様な風貌だ。今朝到着したと書き込みがあったのはこのイルカの群れで、可愛い飛行音を撒き散らして整然と空を泳ぐ様は、ただただ華やかで美しい。
航空祭前には毎回予行練習がある。晴れるのを期待して見られるのを期待して、二人でニヤニヤする。この街にあの機体が飛ぶというだけで、オレ達はニヤニヤする。
「ところであの美少女元気?」
「何故いまその話題!」
ニヤニヤから一転、突然ナバに振られてオレは言葉を無くす。あの子とはオレの学校の大庭美波ちゃんだ。入学早々一目ぼれしてあっさりと玉砕した、髪が綺麗でスラリとしたクールな女の子。
「んー、多分元気」「そうか」「何で聞くの」「別に」
何だソレ、と溢したらナバは笑うので、オマエこそカノジョでも出来たのかと聞いたら下級生に告られたと言った。面白くないので話を辞めた。
件の美波ちゃんは、今日も今カレと昼休みに楽しそうに廊下で過ごしていた。とてもお似合いのカップルで、オレの入るスキマは一切ない。現王子様の中野太一は女子好みの優男。性格も穏やかで学校でも花形の野球部所属。オレとは真逆、だのにオレと誕生日が一緒。神様のお戯れはエゲツない。
その中野の存在は校内でオレをとことん道化にさせる。けれど恨んでなんかいない。そのお蔭でオレは「面白い奴」として高校デビューを果たした。入学早々の玉砕をバネに、中野太一との比較を武器に、オレは見事な三枚目の長となった。中学時代の「地味目飛行機ヲタク」から「ユカイなタマちゃん」に、微妙にだけど緩やかに、生まれ変わる事が出来た。ラッキーだったと思う。だから恨んでなんかいない。いつも彼女の幸せを祈るオレは、かなりいい奴である。
「あ、マスコットが新しくなってる」
そして件の美波ちゃんは、すぐさまオレの鞄を指差した。
ご指摘の先は空自基地帰りにナバと新調した、真新しいチップとデール・ぬいぐるみ(小)だ。『歓迎デールさん!』的な、一部マニアにのみ伝わるファン意識。しかも美波ちゃんにイチ早く見つけてもらえる幸福。美波ちゃん、ひょっとしてオレの事気にしてくれ……いや、総じて女子は変化に目ざとい。
「今回はどこで調達したの?」
「勿論、モールのいつものストアっす」
深々と頭を下げる道化万歳。むむ、でも今日の彼女はなんだか元気がない。
「ご所望でしたら即刻お譲り致すぜ」
普通の遠慮のない女子には決して言わない台詞も口走るけれど、やっぱり今日の彼女は元気がない。何だろう。
だけど美波ちゃんはお行儀の悪い事はしない。
「お気持ちだけでいいよ。タマちゃん、ホントはこれ大事なんでしょ」
サラサラの髪からいいニオイがする。
「いつもチップとデールで意味もありそう。何だろ、願掛け?」
違和感があった。今日は笑っていても何処か違う。
「美波ちゃん、どうかした?」
「ん、なんで」
だのに愉快なタマちゃんは気の利いた事も思いつかず、「風邪引きそうな顔してる」となどと意味不明に誤魔化した。
その対応でよかった。どうやら美波ちゃんはあの時、中野太一と別れたばっかりだったようだ。
「チャーンス到、来!」
うっかりナバに言って、当然面白がられる。
「ここでハイレートしなくてどこでする。かませよタマ!」
ハイレートクライムは飛行機が垂直に近い角度で上昇する、ロケットと見まごう、素晴らしく恰好いい発進だ。
「無理。五分待機」「嘘つけ。もう五分たった」
口ごもる言い淀む。
「何びびってるんよ」
当たり前でしょ、だって中野太一の後ですよ?
そりゃ戦闘機のハイレートクライムに憧れない野郎はいないだろう。見たヤツは全員痺れるだろう。でもオレが空に向かった所で、ちっとも美しくなんかない。オレが美波ちゃんに求められる役目はただひとつ、リラックスとリフレッシュ空間だ。撃沈済みは大人しくいこう。予感は当たるものなのだ。
聡い美波ちゃんだ、きっと既に自分を立て直す為に、何か工夫をしていると思う。
ナバが地本(自衛隊地方協力本部)案内書に行くというので、近くまで付き合った。地本は駅前の北口コンコースを降りたすぐの貸しビルに入っている。その階段を下りた視線の先には北方面バス乗り場がある。
(ほら、当たる)
予感は当たるものなのだ。そのバス乗り場に二人はいた。遠目からでもそれと気づく女の子と、恰好のよさそうな男子を見た。脳内に重低音が響く。
「あ、あれ」
ナバも気付く。
「タマ、あの子って」「しっ」
オレはナバの袖を引っ張ってもう一度コンコースの上に向かう。遠回りになるけれど、ナバも黙ってオレに従う。
美波ちゃんを見かけたからだ。城穂高の指定バッグを持った背の高い男子と歩いているのを、見たからだ。
(展開早過ぎるよね、美波ちゃん)
最近の女子はチャッカリしてる。特に美波ちゃんはしっかりしてる。まるで綺麗な肉食カモシカ。瞬技のなんと美しさよ。
それにしても次の男子はどこのどいつだ。背が高かった。賢そうだった。しかも城穂高、ムカつく県内一番の進学高。オレ等より遥かにスペック高い。てか、そんな男子と何処でどうやって知り合うんだろ。
代わりに唸ってくれたのはナバだった。
「あーあ。なんでいつもああいう男子が一人勝ちするかね。日本も一夫多妻の始まりか」
忌々しく溢してくれた。それにしても随分と実感のこもった呟きよ。
「どした、ナバも痛い目見たん?」
「しょっちゅう色々有るぞ、そんなもん」
何だそりゃ。この間告られたって聞いたのに。そういやナバの真面目な学校話って聞かないな。こいつなら間違いなくリア充だろうに。まあ、こっちも敢えて聞かないし、聞いたところで仕方がないし。
日曜日はあっという間にやって来た。今年の航空祭はあいにくの曇り空にも関わらず、満員御礼の盛況だ。
「とにかくリセットだ。ほら、タマ、しっかりしろ」
早朝からナバに支えられ、年に一度の空自基地内を浮遊する。
「どこから見る?」
「オレらは手前からにしよ。今から飛ばすとあとツライぜ」
今年もファンの場所取りが半端ない。異なる飛行機が大編隊を組むのは全国でもこの基地だけだ。お互いの充実の為に、ナバと目的意識を合わせる。
曇り空の中、八時半きっかりにオープニングフライトがあった。今年は五種類九機の飛行機が家族のように並んで飛行。戦闘機はおとうさんだろうか、輸送機はおかあさんかも。毎年恒例の大音響は湿度でますます重低音。待ちわびていた観客席からわあ、と歓声があがった。
お目当てのアクロバット飛行は午後、これからもっと混雑する。やたら着飾ったお姉さんや持ち込み禁止の脚立を抱えたおっさんだとかを横目に、つくづくコンビニで食料を調達してきてよかったと思う。一部のコアなファンの皆さんは殺気立っていてまじで怖い。
(近づくのは極力避けたい)(同意)
地上展示会場も盛況、駆け足で見学。要領が勝負。見たい機種に必死でかぶリついて、よその大人に小さい子の為に早く退くように怒られる。図体はデカくても、オレ等もまだコドモです。
「あ、あった、タマ、今年もあそこ!」
「おおー……」
展示会場から離れてすぐ、ナバがエプロン地区を指差す。広報部隊のサイン会場になるブルーのテントがある。ああ、でも観客席から遠い。歩道のロープも仕方ない。見慣れた青いT4達もキラキラ輝きスッキリ並ぶ。本番前のおすましだ。
きっとこの天候を見ながらチームの皆さんは今日のプログラムを組んだんだろうな。
(今回、何するんだろ)
第一区分、はこの天候だから無理か、じゃあ第二かな、どきどきどき。ちょっと気分が緩む。
(かっけえ)
やっぱかっけえ。好きなモノを目の前に、嫌な事を全部忘れて小さい頃に戻る。それからちょっと自重。
(こうゆう単純なとこがコドモなんだよオレは)
一瞬、すでに大人の気配のする同級生が脳裏をかすめる。中野太一とか、あの城穂高の男子とか。反面、自分を見返す客観性が、唯一成長した証だと信じる。信じる、信じる。よくわかんないけど、自分の何かを。
パイロットのサイン会は長蛇の列で、粛々待ちながらも落ち着かない。くだらない話でお茶を濁す。
「そういやオレ、某地下アイドルのサイン会に行ってさ」
「なんだタマ、いつの間に……って、いつからそっちも趣味やったん?」
ナバに驚かれた。
「夏休みに、部のイベントで」
「は、なんで、郷土研究部で」
「部員の希望に沿っていろんな企画を実働するのが主な活動だって、うちは代々」
今回、アミダクジで勝った部員がアイドルヲタクだったのだ。握手券も山ほどあった。彼女達は可愛いかったし頑張ってもいたけれど、出向いてみてわかった。ファンミーティングは該当者以外は行ってはならない。
「それ、部活の名称かえないと」
ナバにも呆れられたが、部員の好みも主張も毎回バラバラ、その中での部の活動の建前を作成。正直、面倒以外の何モノでもない。
そんな記憶を上書きするかの様に、人混みの一角から地元出身のデールさんにコールが掛かった。同級生の皆さんだろうか、何人かの大人達だった。照れるデールさんを見られたのは秀逸だ。なんたるお得感。某地下アイドルより、オレは断然こっちがいい。
でも緊張した。緊張。
間近で見るデールさんは、小柄でも圧倒的に迫力があった。小さい身体にギッシリと強い漢の元が積まっている。サインしてもらった後、光洋高の生徒だと自己申告しようとして噛んだ。ナバも「ブルった」と言った。オレらってコドモ。そんなオレらにも丁寧にしてくれるデールさんはかっけえ大人。
「あー早く凛々しくなりたい」
「どうすればなれるんだ」
このままでは間違いなくなれないと思う。
「さっき綺麗な人もいたよな」
プログラムスタートのウォークダウン見たさに観客席にもぐりこんだ時、ふいにナバが言った。
「そうだっけ。いつ?」
「ほら、デールさんのコールの時」
一生懸命思い出す。追っかけ女子は通常だし、最近は出会いを求めているお姉さん達も。
「そんな人、いた?」
「タマ、視野が狭いぞ」
でも大人の女性なんてオレにとってはまだまだ対象外だし、そもそもこんな趣味満載な空間でなんでオンナとか。ああ、やっぱオレ、視野が狭いんだろうか。
「じゃあ、あのヒトとか、どうかな」
唯一「綺麗」に見えた大人の女性をこっそりナバに申告。
「あーそう、あのヒト。めっさ綺麗じゃん。モデルみてえ」
スラリと背が高くて、髪もサラリな大人。きっと美波ちゃんの十五年後があんな感じ。
(美波ちゃん)(あ、しまった)
また思い出して胸が痛くなった。脆弱。ひ弱。ナバが瞬時に気付いて、何故か「ゴメン」と言った。
空の雲が段々と厚さを増してきた。
アナウンスとBGMの中、パイロット達が一列に並び、発信前儀式のウォークダウンを開始する。展示飛行の間はどうか天気がもつといい。折角の年に一度のカッコいい大人の、素晴らしい仕事を見る機会。オレらの街の空に、鋼のイルカ達が泳ぐ時間。
最初に4機、一斉に飛び立つ。次々に隊形を組んで、魅了する。その後5番機と6番機が離陸。いつもDVDやニコ動で見るように、毎年この目でココロに刻んだように、今年も興奮を上書きする。
ただ悲しいかな折角の純白のスモークも、ねずみ色の雲をバックにするといつもの華やかさが小さくなった。
「あああ折角のチェンジオーバーターンが!」
「くそう青空、青空で見たかった! 勿体ねえ!」
思わず愚痴がこぼれる。でもそれはきっと俺達だけじゃない。湧き上がる歓声が大多数の中、残念がる声もチラチラと溢れていた。
だけど逆に厚い雲の覆う狭い空間のせいで、余計に連隊の迫力が押し迫る。最悪のシーリング故の小さな空間が、ますます飛行の精密さに気付かせる。
真横に作られるレベルキューピッドだって、デルタ360ターンだって。
飛行機の形はベクトルだ。青いT4はいつものようにピカピカと綺麗で、描く白線はいつものように正確で、どうしてあんな風に飛べるんだろう。あんな風に揃えられるんだろう。どんな状況でもどんな空間でも、
(なんていい仕事)
きっちりとこなせるって、やっぱスゲエ。
ふいに部活の仕事を思い出した。先日顧問に手伝いを頼まれた、二十年分の活動報告。正直面倒で逃げたかったけれど、来るべき冬休みの活動の為に、顧問のご機嫌を取っておかねば。
(オレもテキパキ仕事をこなしたいですデールさん)
神様神様、見てますか。オレ真面目にガンバってます。一生懸命やってます。
(でもそんな風に叫んでいるうちはマダマダなんだよね)
あーあ、オレはこどもだなあ。
ラストの演目はコークスクリュー。真西に直進する5番機の周りを目まぐるしく螺旋を描く6番機。
いい仕事過ぎるだろ。怖くないのかな。唸るT4にかかる重力を思って、また唸る。
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