【第八十八話】危険な月夜
「失礼しまーす……」
今日もまたこの時間がやってきてしまった。
この学校の消灯時間は11時。そのちょっと前、僕はトモダチと篭に『トイレに行く』とか適当に言って部屋を出て、この場所に来た。最早、寝る前の日課となりつつある(大変不本意なことだ)が、そろそろ新しい言い訳を考えた方がいいかもしれない。
さて、この場所がどこかもう分かるだろう。
「ありゃ……石上先生がいないな……」
保健室である。
例の『吸血鬼』の彼女に会ってから、僕は毎晩ここに来ることを強要させられていて非常に面倒で仕方がないのだが、何故僕はこのことを順守しているのだろうか。その理由として挙げられるのは、サボったりしたら何をしでかすだろうか分かったもんじゃないということだ。考えただけでも恐ろしい。もっと面倒なことになるだろう。だがそれとは別に、特に断る理由が無いというもの一つである。
ああ見えて彼女は弱っているわけだし、回復のために僕の血が必要だと言うのなら何も悪い気はしない。まぁ、別に僕の血じゃなくてもいいはずなのだが。
そんなこんなで、血を吸われるという一見恐ろしい行為を聞き入れた僕だが、未だに問題は残っていたりするものだ。
第一にその吸血方法。
わざわざ血を抜いてから飲むんじゃ面倒だからという理由で直接噛み付いてくるわけだが、彼女曰く『腕とかじゃ硬いのよ』とのことで、首筋がベストだそうな。『吸血鬼』だろうが何だろうがとにかく女性に噛まれるということ自体が恥ずかしいのに、首筋ってのはこれまた拷問である。
更に言うと、『吸血鬼』に血を吸われるとどうも眠気に誘われるような変な快楽があるのだが、この睡魔がなかなか厄介で、そもそも時間が夜ということもあってこの前は吸血途中にうっかり眠ってしまい、グーで叩き起こされてそのままブレーンバスターをかけられそうになった。一瞬、死を覚悟したね。
第二にその服装。
あの人はどうも羞恥心というものが無いらしく、毎日毎日見るのも恥ずかしいような格好をしている。例のワイシャツ姿に、ノーブラタンクトップに、ノーパンミニスカート等々……。心臓に悪い。やめてくれと言ったって聞きゃしない。
さて……一体、今日はどうなることやら。
「ミラーカさん、居ますかー?」
自分で言っておいて何だが、居るに決まってるだろ。いや、居るはずなんだ。しかし、返事が無い。
まさか、まだ寝てるのだろうか。
寝室へと続く白いカーテンに手を掛けて、僕ははっと止まった。
もし、このまま寝室に入ったら、彼女があられもない姿でいる可能性がないだろうか。というか彼女なら充分あり得る。個人的にそういう状況は避けたい。かと言ってこのまま帰ったらどうなるかわからんし、自分の身を案じるならば、入った方がいいのだろうけど、いやしかし彼女の艶姿を見るわけには――――
「あっ」
不意に視界が暗くなった。
マズい。消灯時間を過ぎたらしい。このままだとトモダチと篭に怪しまれる可能性が…………。
ええい、もう考えてる暇なんかあるもんか。
僕は意を決してカーテンを開いた。
寝室の中を見渡すと、月の光に照らされた窓際のベッドの上に、彼女は居た。こちらに気付いているのかいないのか…………ん?
……おいおいちょっと待て。
「……嫌ね、夏って。だってこんなに夜が短いんだもの。テンション上げようにも上がらないわ」
彼女はゆっくりとベッドから降り始める。
僕は、慌てて回れ右をする。理由?そんなもの大体わかるだろう?
あの人は今、一糸も纏っていなかったのだ。
「でも今宵は満月。久しぶりに私の魔力も調子が良いわ」
ひたひたと近付いてくる足音。
「ねえ、暁までここにいるつもりは無いかしら?」
「!」
いつの間にか正面に回っていたミラーカさんは、僕の首の後ろに腕を回して顔を近付けていた。
って、待て待て待てこの状況はマズい、マズいって。
強く目を瞑って、無理矢理に頭を上に向け、絶対に下だけは見ないようにする。
ああ、ヤバい。顔が熱い。恥ずかしすぎる。
「返事くらいしなさいよ」
手首の力だけであっさりと頭を元の状態に戻され、何か念力的な力で目をこじ開けられた。卑怯だ、チクショウ!
「答えないなら肯定ととるわよ」
紅い双眸が僕の顔を覗く。
「い、いや……帰してほしいんですけど」
「駄目よ」
無茶苦茶だこの人。
つーか、ヤバい。何でこの人、何も着てないんだ。このままだとほんとに見える。見えちまうよ。かと言って、頭は動かせないし目は閉じれないし……もうやだ、マジで泣きそう。
「言い方が悪かったわ。今晩は、ずっとここにいなさい。いいわね?」
よくねーよ。選択肢一つになってんじゃねぇか。
明日も普通に授業あるから。てか、こんな状況で一晩過ごせるわけないだろ。本当に社会的に死ぬぞ。
くそ、ツッコミを入れる箇所が多すぎる。
「じゃあ、始めるわよ」
返答を待たずにミラーカさんは、僕の首筋に噛み付いた。
来た、あの快感が。途端に眠気が襲う……いや、流石にもう慣れただろう。これくらいじゃ…………あれ何か今日のはちょっと長い――――
そこで僕の意識は闇へ落ちた。
「ん……」
僕は目を覚ました。まだ少し暗い……が、多分朝だ。
いや、それよりもここはどこだろう。見慣れない部屋。いつもと匂いの違う寝床。
僕は、まだ重い瞼を無理矢理開いて周りを見る。
そして、すぐにソレは僕の目に留まった。
僕のすぐ横、『吸血鬼』の彼女が同じベッドの上で寝ていた。
一気に眠気が覚め、顔が爆発したのと同時に青ざめた。
僕は飛び上がるようにしてそのベッドから出て、距離を取る。
一体、夜に何があった。
いやまさかそんなことは。僕は何にも記憶が無いから何とも言えんが、いくらなんでも閨事なんて無かっただろう。そうに違いない。間違いない。お願いだから、誰か答えてくれ。
「ミラーカさん、まだ起きてるんですかあ? 何か物音が…………」
白いカーテンが開き、そこへ保健室の主が入ってきた。
「「…………」」
そして、時が止まった。
「…………桐谷くん、何やってるんですかあ?」
「あの、この状況で言うのも物凄い白々しいですけど、誤解です。絶対に。信じてください。お願いします先生」
「おい、秀。昨日はどうしたんだぜ? トイレ行ったきり帰って来なかったけど」
「……とりあえず触れないでくれ、ほんとに」