【第百六十八話】騒擾編:クウェル
男には愛したものがあった。
道理と人倫に則り、悪しきを挫くこの職を愛していた。
だが、いつしか愛したものはその姿を変えてしまった。
七年前に確信した男は、決意した。
もう一度、この職のあるべき姿を取り戻す。
如何なる手段を取る事も躊躇いはしない。
全ては、男の愛したものの為。
男は、裏切り者となった。
勇者と裏切り者は立っていた。
「原罪を、超克する……?」
「【創世記】において人を人として在らしめているのは原罪の存在故。よって信仰によって救われた者は原罪の克服により人の域を超える。聖母がその例」
勇者は、『見張る者』達が描いた巨大な術式に目を遣る。
「だが、あなたが取ろうとしている方法は別。これも【創世記】において、『知恵の樹』と『生命の樹』を双方食した者は神に等しき力を得る。『知恵の樹』の方は既に失楽園にて食している。これが原罪。あなたの方法は更に『生命の樹』を取り込み、双方の力を得る事。それ故のこの『生命の樹』の術式。何か間違っているか」
「……素晴らしい洞察力ですねぇ。しかし、それだけでは説明し切れていない部分があるでしょう」
裏切り者は勇者の推測を否定しない。寧ろ肯定した上で、更に自らの目的について説く。
「『生命の樹』を単に食すのみならば、わざわざこのヘルモン山にて術式を展開する必要はありません。『見張る者』の力に頼る必要も、人間の女を贄とする必要も、同様です。それについては、何故だと思います?」
『見張る者』。人間の女。
裏切り者は、わざとらしく言葉を並べる。聖書に通ずる者ならば、これらから連想されるキーワードに気付くのは容易い。
「………ネフィリムか」
ネフィリム。【エノク書】において、人間の娘とそれを娶った堕天使との間に産まれた『存在』。極めて破壊的な気質で人間や他の生き物を食い荒らし、更には共食いまで行ったという、天より堕ちた者の意の名を持つ巨人。
「『神力』とは文字の如く、神の力。人の身にしてそう耐え得るものでは無いのですよ。今の貴方のようにねぇ」
「…………」
勇者は特に反応も示さない。解り切った事を語る必要も無いからだ。
「『巨人』は不思議な種族でしてねぇ。人外ですが、その本質は人間と非常に良く似ている。彼らならば、きっと原罪の『知恵の樹』と『生命の樹』を双方取り込み、尚且つそれを扱えるでしょう」
裏切り者は淡々と、しかしはっきりとした口調で告げる。
「だから、私には彼女が必要なのですよ」
その言葉に、勇者の眉が僅かに上がった。
「色々試しましたがねぇ。贄の娘は人間であれば誰でも良いという訳では無いようで。『天使』という『存在』との関係性が近く、かつ【エノク書】の記述より裏の知識に富む者が適すると結論が出ました。金城 沙希……『マリン』のコードネームを持つ『勇者』であり、宗教関連の知識が豊富な彼女ならば適役という事です」
裏切り者は更に続ける。
「一つ懸念事項があったとすれば、ネフィリムを産み出す際は贄本人の魔力を媒体とする為、許容量が少なければ出力不足で不完全個体が出来てしまう事でしたが……その点は先程の『アゲート』との戦闘を見て問題無いと判断しました。彼女の力量ならば充分――」
「待て」
勇者は裏切り者の言葉を遮るように声を張った。
「許容量、出力……その口振りだと、まさか沙希自身を……」
「ええ、彼女自身をネフィリム化させるのですが」
あっさりと、裏切り者は言った。
「考えてみれば解るでしょう? 術式から作った概念上の『存在』では、どうしても原罪に当たる『知恵の樹』を取り込めません。原罪を持つ人間から作る必要があります。まさか伝承通り実際に孕ませてから産み出させる訳にもいきませんからねぇ。3000キュビト……約1350メートルの巨人など」
「………正気か。そんな事をすれば彼女は二度と異形から戻れない。彼女を神々の敵に回すつもりか」
「革命に犠牲は付き物ですからねぇ」
その言葉が引き金か。勇者は一瞬で裏切り者との間合いを詰め、聖剣を振り下ろす。
鋭い金属音が辺りに響き渡り、両者は鍔迫り合いの状態のまま互いに一歩も退かない。
「………自らの手で、その世界を変えようと言うなら良い。誰しもこの世に疑問を抱く事はある。それも道理。だが、他人を巻き込み、その努力を利用し、私利私欲の為に使い回す事のどこに道理がある」
「正論ですねぇ。紛れも無く。ですが、それ以前に、それ以上に、この世界は狂ってしまっていた」
人の域を超えた勇者が、腕力で裏切り者に負けるはずは無い。しかし、裏切り者は徐々に勇者の剣を押し返していく。
「……一つお忘れのようですねぇ。ネフィリムの『鍵』こそまだ揃ってはいませんが、『生命の樹』自体の術式は既に完成しているのですよ」
それは即ち、裏切り者自身もまた人の域を超えたという事。
「罪を払拭した者、罪を重ねた者……形は違えど条件は同じ。ならば私が貴方に負ける理由が見当たりませんねぇ」
裏切り者はそのままがら空きになっている勇者の腹部を蹴り飛ばすと、自分の懐に手を伸ばしてそれを手に嵌める。
それは銀色の篭手。魔導具でも無い、ただの小道具。
「『銀の腕』」
空気が明らかに変わった。
素早くそれに感付いた勇者だが、避けられる間合いでは無い。
次の瞬間、裏切り者の剣先から一条の光が迫ると、寸でのところで勇者は聖剣で受け止めるが、勢いを殺す事が出来ずに50メートル以上吹っ飛ばされ、その先の岩肌に叩き付けられる。
「クラウ・ソラスの持ち主、古のケルトの神ヌアザは、銀の義手によってその力を取り戻しました。地位を取り戻す事は出来ませんでしたがねぇ」
簡単な魔術的意味の付加による、力の増幅。魔術の基本事項だが、彼らの域ではそれ一つで威力が跳ね上がる。
「私は後戻り出来ません。やるならば、徹底的に。私は、この世界を変える……!」
裏切り者は追撃の構えを取る。
「いつからか、私にも判りませんが、狂い始めていた……! 七年前の『世界の節目』で私は確信した!」
刹那、無数の光の斬撃が勇者へと襲い掛かった。
「あの瞬間まで、『勇者』というこの正義の職は絶対だった! 私の誇りだった! なのに、貴方の父親は同胞に裏切られて命を失った!」
七年前、裏切り者はその場に『ルビー』として居合わせていた。
裏切ったのは組織内でも信頼の厚い男だった。その戦場でその男は当時の『ガーネット』の背後に付き、そしてその背中を刺した。
「それから『善』の定義は歪んでしまった! 『悪』と内通している者が居た! 勇気すら携えぬ者も居た! 同じ『勇者』の中さえ敵が居るのかも判らない、不確かなものになった! それは貴方もですよ、『ガーネット』!」
裏切り者の叫びは続く。
「何故、『魔王』を見逃した!? 『勇者』の存在意義を最も確固たる物として確立させなければならないはずの貴方が、何故その道から逸れた!?」
二年前の『元魔王』の一件、またその年の蝿の王の一件。そのチャンスはあったはずだが、勇者は何度も『魔王』を殺さずに帰還していた。
「情けをかける余地があったならまだしも、現に貴方はそれが原因で例の学校を幾度となく『悪魔』に攻められている! それでもなお、貴方に道理を語る資格があるのかッ!」
光の斬撃を喰らい、ボロボロの状態で立つ勇者に対し、裏切り者は最後の一撃を放つべく振り被る。
「……私はこの世界を浄化させる。一度全てを無に帰し、元の姿を再び立て直してみせるッ!」
地面を蹴り上げると共に、裏切り者は猛スピードで勇者との間合いを詰める。
「それが、私の――――」
裏切り者の言葉はそれ以上続かなかった。
起こった事は単純。
裏切り者の攻撃が届くより先に、勇者が裏切り者の顔面を掴んでいたのだ。
「………もう、喋るな」
瞬間、凄まじい力で勇者は裏切り者を足元へ叩き付ける。
「ッ……!?」
地面が爆ぜ、何度かバウンドした後に、裏切り者は受身を取って着地する。
そして、素早く勇者との距離を取り、自分の声の調子を確認する。
しかし、いくら声を出そうとしても空気が漏れるだけだった。
(『沈黙化』……彼個人の能力か……。だが、少し怯んだだけだ……さして問題は無い)
勇者の能力は直接触れた相手を沈黙させ、魔法や魔術の詠唱を封じるものだ。
今の裏切り者の戦闘方法は『聖装』による魔力使用のみ。『生命の樹』の術式は『見張る者』の魔力で常時展開している為、裏切り者が追加詠唱する必要は無い。従って、声が出なくなったところで、戦闘に支障は無いのだ。
裏切り者は再び勇者に構え直し、剣先から光の斬撃を繰り出す。
「………ボク自身が、道理を語るに落ちている事は認める」
勇者は聖剣を振るい、斬撃が届く前にその軌道を逸らして前へ出る。
(斬撃を受け流した……! ならば遠距離からでなく直接――)
「あなたが背負う大義の重さも認める。ただ……あなたがやっているのは浄化なんかじゃない」
二つの剣戟が衝突する。
二度目の鍔迫り合い。だが今度は、勇者が裏切り者の剣を押し返していく。
「騒擾だ」
勇者は剣を振り抜いて裏切り者を吹っ飛ばす。
裏切り者はすぐに体勢を立て直すが、勇者はすぐさま間合いを詰めて反撃の隙を与えない。
(何故だ……どうなっているッ!? 同じ『神力』の域に踏み入れた者同士、何故私が後れを取っているッ!?)
勇者の『アスンシオン』が横薙ぎに振るわれ、裏切り者の手元から『クラウ・ソラス』が弾け飛んだ。
(何故、私が――――)
「剣は守るべきものの為に振るわれる」
次の勇者の動作に、音は無かった。
ただ一閃、何かが煌き、裏切り者が膝から崩れ落ちた。
「ボクには守るべき人が居る。己の為に剣を振るっていたあなたに、ボクが負ける理由が見当たらない」
勇者が言い終えると共に、剣は虚空へ消えていった。