【第百五十九話】騒擾編:ビトレイヤル
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金城 沙希ら『勇者』の一行は、予定通りヘルモン山に到着した。
時差の関係で、日本時刻で午後六時頃に出発したのに、こちらは真っ昼間である。偵察的内容の任務なのに雰囲気もクソも無いのだが、そもそも理由として、夜間の山道は異能者とて危険なのだ。
「おいおい、表の住人の気配がちらほら見えんじゃねえか。人払い張ったんじゃなかったのかよ、『マリン』?」
「それはさっきの教会だけです。転移先まで効力がある訳が無いでしょう? その代わり、なるべく人気が無い所を選んだんですけど」
へえ? と、別に感心する訳でもなく、適当に返事をする『アゲート』。夏用コートを羽織ったこの男はそもそも、才能だけでこの世界を渡ってきたのだ。地味な鍛練や、見えない努力などには興味が無い。
「……とにかく、気を引き締めてください。感じるでしょう? さっきから周期的に発せられている、明らかに強大な魔力を」
それは、裏の住人――魔力に触れた事のある人間でなければ、感知する事は出来ない。それと同時に、生半可な実力の持ち主では耐え切れないほどの、馬鹿でかい重圧だった。
「まさか、情報が本当だとは思いも寄りませんでしたねぇ」
『ルビー』がポツリと呟いた。
「まだ『見張る者』と確定した訳ではありませんが……、『何か』が居るのは確かです。方向は南南西。先に、ここ一帯に人払いを展開してから向かいます」
『マリン』は素早く懐から羊皮紙を取り出すと、足下に張り付ける。そして、その表面に文字が浮かび上がり、辺りの空気が僅かに変動する。
「『Nyx』……なるほど、『昼』に対する打ち消しですか。人を遠ざけるのではなく、一時的にこの辺全体を、『夜』として孤立させると……。夜になれば効力は勝手に消える訳ですね?」
「はい、後で回収する機会が無くなると困るので」
「それにしても、良くギリシャ神話にまで精通していますねぇ。てっきり、十字教が専門だと思っていましたが」
「日本は多宗教国家ですので」
当然そうに答え、彼女は作業を続ける。
「羊は天への贄……『神』の意味に関連付けるには適していますが、逆に術そのものの下位性が現れてしまいがちです。なのでここは――」
次いで、羊皮紙に新たな文字が浮かび上がり、『マリン』以外の二人は目を大きく見開いた。それは、今までの術式の雰囲気とは全く脈絡の無さそうな、一つの『漢字』だった。
「『歩』? 何だこいつは。一体何の意味があんだ?」
「羊の歩み、って知ってますか?」
珍しく疑問を投げかける『アゲート』に、『マリン』は諭すように説く。
「屠所へ引かれて行く羊……即ち、『死』の接近です。ニュクスは、タナトスやモロスなど、数々の『死』を意味する神々の母ですから、自身の意味をより明確にする事が出来ます」
様々な関連性から一つの意味を成り立たせていく。直接その意味を成す事象を示さなくとも、その周りのキーワードを引っ張り出せば、元の意味が活きてくるのだ。
「……おいちょっと待て。屠所の羊ってのは確か……」
「【大般涅槃経】……仏教ですねぇ」
一体いくつの宗教に手を出してやがんだ? と『アゲート』が口にしたが、『マリン』は答えない。
彼女は天才ではない。生まれながらにして魔法を行使出来た訳でも無く、強力な個人の能力を有していた訳でも無い。センスという大きな壁にぶち当たった彼女は、努力するしか無かった。全てを才能の一言で片付けたくなかった。才能が無くても、彼女は力が欲しかった。
「完了しました。行きましょう」
『マリン』が先頭に立ち、残り二人はその後に続く。
努力の天才。彼女が目指したのは、正直者が報われる世界なのだ。
――……なるほどな。
そんな中。才能だけで生きてきた人間である『アゲート』は、そんな努力の天才の背中を見据えて、静かに思う。
――『こういう奴』が一番手強いってことだ。どうなろうが、あるべき道に進んじまう。
それが努力。それが結果。この世は思いの外、本物の馬鹿には優しく出来ている。
これが当然。この馬鹿が何故、こんな場所に居られるかと最初は疑問に思ったが、これが当然の結果なのだ。真っ直ぐ道を突き進んできた者は、どうしても最後は真実に辿り着く。
――ああ、そうだな……そういうことだな。
だからこそ、彼は笑みを浮かべる。どこまでも冷たく、暗い笑みを。
「ッ……! 何か居ます、隠れてください!」
突然、『マリン』が足を止め、小声でそう促した。
三人は近くの岩陰に身を潜めてから、『マリン』だけこっそり顔を出して様子を窺う。
二十メートル程先に見えるのは、三つの影。その内、二つの気配は大きく。もう一つの気配はそれより更に大きく。
『マリン』は確信した。アレは、『人間』じゃない。人の次元を超えた『存在』だと。
『見張る者』。『善』より堕ちた、天の使い。最早、『天使』とも『悪魔』とも呼べないその『存在』達は、何やら話し合っているようにも見える。話の内容までは聞き取れないが、彼らは奇怪な図形のような物を地面に描き出し、何かの準備をしているようだった。
『マリン』でさえ、その図形の意味をすぐに理解する事は出来なかった。目視するのに距離が遠すぎる事もあるのだが、もっと根本的に、その図形は複雑すぎたのだ。幾多の術式が何重にも絡み合っていて、それぞれに膨大な魔術的意味が込められている。更に、時間が経つに連れその形はまた別の物に置き換わり、まさに現在進行で作り上げられている為、一つの意味を理解する前に、解析していた図形が消えて行ってしまう。
(これは――)
しかし、ふと彼女は一つの点に気付いた。その術式の集合全体が、ある巨大な図形を象っている事に。
(――『生命の樹』?)
しばらくその図形に気を取られていた『マリン』は、ハッと感付く。
三つの影の内の一つが、こちらを向いている。いや、見ている。いや、見られている。
マズい、と『マリン』は背筋が凍り付いた。
「相手の一人に気取られました! 早くここから――――」
バァンッ! と、彼女の言葉を遮るように銃声が轟いた。
――え?
彼女は目を見張った。突如、背後から彼女の右肩に走った衝撃。焼け付くような痛みが後から襲い、思わず手で押さえると、そこには赤黒い液体がべっとりと付着していた。
恐る恐る、彼女は振り向く。何が起こったのか理解できずに困惑し、どこか希望を求めるような彼女の眼に映ったのは、こちらにライフルの銃口を向けて平然と立っている――――そんな、夏用コートの男の姿。
「おい、『ルビー』。別に俺の独断でも構わねえよな? コイツは利用するにしても危険すぎる。現に俺達が手を貸すまでもなく、ここまで一人で辿り着きやがった。コイツはここで殺すべきだ」
「それを許可するのは、私ではありませんがねぇ……」
にやり、と口元を吊り上げ、再び『アゲート』が引き金に指をかける。
「ぁ、ああああああああああァッ!」
弾丸が発射される直前に、『マリン』は避けようと横へ飛ぶ。
だが、
「なあ、【Der Freischütz】って知ってっか?」
銃弾はまるで生きているかのように軌道を曲げ、『マリン』の顔を掠めた。
テンプル部分に弾が当たって壊れたのか、眼鏡が外れて地面に落ちる。
「日本語では【魔弾の射手】。作曲はカール=マリア=フォン=ウェーバー、台本はヨハン=フリードリヒ=キーントのオペラだ。射撃大会前にスランプになった主人公が、悪魔に七発中六発は望んだ所に当たる弾丸を作ってもらう話だがな。コイツは元々、ドイツ民間伝説を題材にしてんだ。んまあ、テメェなら説明しなくても知ってたか?」
『マリン』は頬に伝っている血を拭う。とても『アゲート』の話を聞いている余裕は彼女に無い。
「アナタ達、裏切ったのですか……ッ!」
「少々、人聞きの悪い言い方ですが、そういう事でしょう。より正確に訂正するならば、『裏切っていた』ですがねぇ」
「『マリン』。テメェ、おかしいとは思わなかったかよ? 『天使』が堕天する原因は、『悪魔』との過度の接触による『善』への信仰心の揺らぎだってのによ。『熾天使』と『智天使』は『天界』から出ねえ以上、『悪魔』と接触しようがねえ。なのに、実際奴らは堕天した。何でか判るか?」
『アゲート』は親指を自分に向けて立て、
「俺らが誘ったからだよ。『見張る者』として、俺らと手を組まないかってな」
まるで誇るかのように言い放った言葉は、『マリン』の頭の中を更に掻き乱す。
誘ったってどうして? どうやって? 手を組むって何に? 一体何を言っている?
右肩の痛みも相まってか、今の『マリン』に正常に物事を判断する思考能力は無かった。
「もう一つ訊くか。何で俺がこんなにベラベラ喋ってると思う?」
ガチャリ、とライフルを構える音が不気味に響く。
「それはテメェが死ぬからだ」
けたたましい銃声が、ヘルモン山に再び木霊した。