【第百五十四話】事件の前置き その5
海藤 魚正という少年がいる。
黒の短髪に、身長は平均よりやや高め。特別筋骨隆々という訳でもなく、痩せ細っているという訳でもない体格。右手首にリストバンドを着けているが、全体的な服装を見る限り、特に彼がオシャレに気を使っているという印象は受けない。極々平凡な男子生徒にしか見えない彼はコードネーム『スモーク』を持つ、『勇者』の中でも五指に入る実力者である。
『善』の組織全体が混乱している最中で、彼は学校に通う『勇者』の中でただ一人、自分の学校に留まっていた。
その理由は簡単なもので、彼のクラスメイトにして上司でもある『無口その1』にそう促されたからだ。
そう、あくまでも『促された』。
上下関係というものがほとんど存在しない『勇者』において、『命令』は存在せず、代わりに『助言』のみが許されている。そして、それを実行するか否かも個人の自由なのである。
よって、いかに人から言われた事とはいえ、魚正がここに居るのは、最終的に彼自身の意思なのである。だが――
(にしてもな……)
彼はいまいち納得が行ってはいなかった。
何故、あの無口が他でもない自分にそれを頼んだのか。それについて問い質したら、返ってきた答えは、「守るに然るべき『存在』が居る者が守った方がいい」とのことだったが、どうにも含みのある言い回しである気がしてならないのだ。
(俺の守るべき『存在』ってなんだ? 学校やクラスメイトっていうなら、あいつも同じはずだし……)
彼の上司は口数が少ない。その上、感情もあまり表に出さないので、その真意を探るのは難しい。
『勇者』に就いてからかれこれ七年経つが、そこだけは未だに悩みの種であった。
「どうしたの、魚正くん? そんなに難しい顔して」
魚正が色々と考えていると、話しかけてくる人物が一人。
「ん? ああ、何でもないよ。宇佐見さん」
「そう? なら、よかった」
そう言って、彼女はそっと微笑んだ。
宇佐見 菊代。魚正のクラスメイトであり、過去の戦いで色々あった成り行きか、彼が最も親しくしている女子でもあった。
本人達は知りもしないが、一部のクラスメイトからは『ゴールイン一歩手前』とまで噂され、何だかんだでかなりの認知度を誇る正副生徒会長カップルと、『陽』と『陰』のカップルの次くらいに知れ渡っている組み合わせである。
魚正自身、菊代と同じ寮の住人である水島から「菊代を泣かしたらあたいが承知しないよ」と言われており、何となくそういう空気になっているのだということは感じつつあった。
ただ、それがそのまま『無口その1』の発した言葉の意味だということは理解していなかったのだが。
「魚正くん、今度の休みって空いてる?」
「あー……、最近ちょっと、『勇者』の方の状況がマズくてさ。俺は学校で待機、っていう指示が出てるんだ。なんか具合悪かったか?」
「ううん、別にいいよ。予定は立ててないし、暇だったらどこかに行こうかなって思ってただけだから」
何という特別な理由は無しに、ただ他愛もない事を話すだけの時間。
非常識に溢れた裏の世界に住む『存在』達にとって、そのような普通の時間を過ごす事こそが最も幸せな事なのだ。
彼と彼女は、それを互いに深く理解していた。
「そろそろ文化祭だね」
「ああ、そういえば富士田が色々言ってたな。今年はコスプレ喫茶だっけ?」
「うん、あまり恥ずかしくない衣装だといいんだけど」
そんな談笑をしつつ、二人で廊下を歩く。
すると、曲がり角に差しかかった所で、横から誰かが二人の前に飛び出してきた。
「おっ?」
「むおッ!?」
その人物はそのまま魚正に衝突し、尻餅を突いた。
「お、おい、大丈夫か?」
「怪我は無い?」
「……はい、平気です……、あいたた……」
魚正と菊代が安否を問うと、その人物はすぐに一人で立ち上がった。
若干幼さの残る顔立ちをした少年。魚正とぶつかって一人だけ倒れた事からも分かるが、男子にしては身長が低めだった。
「いやあ、すいませんね。自分、ちょっと急いでたりしまして。少し注意が散漫になってたりしてましたね。過失の割合は五分とかいう話もあったりしますが、この件に関しては自分が十分悪いです、はい」
妙に饒舌なその男子生徒は、若白髪の頭をポリポリと掻きながら口早に訊く。
「ところで、付かぬ事を伺ったりしますがね。生徒会室はどこにあるか教えたりしてくれません? なにぶん、高等部に転校して来たばかりの身であったりしまして、はい」
「生徒会室? それなら特別教室棟だから、あっちの校舎の二階だけど……何しに行くんだ?」
魚正は至極当然の疑問を言う。
「まあ、ちょっと会長に用があったりしましてね。いや、本当に大した用では無かったりするんです、はい」
若白髪の男子生徒はそう言って、特別教室棟の方へ体を向ける。
「では、先輩方。自分はこれで去りますが、物騒なこの時世です。くれぐれも身の事には気を付けたりしちゃったりしてくださいね、はい」
そして、返答も待つ事も無く、そのまま走って行ってしまった。
残された二人はしばらくの間、その場で呆然としていた。
「こりゃ……また随分、変哲な奴だったな」
「うん……、高等部にあんな子が居るなんて知らなかった……」
そして、二人は談笑を再開し、再び廊下を歩き始めた。
(あれ、そういや……)
ふと、魚正は思う。
(さっきの奴、転校してきたばかりって言ってたのに、何で俺達が先輩だって判ったんだ?)
事件には兆候というものがある。
それは極々微妙で、分かり難いものであり、常に観察していなければ見落としてしまいそうなほど些細なものである。時に、事件が唐突に起こるものだという勘違いが生まれるのは、そういった所以である。
この時もまた、その兆候というのは幾つか彼らの目の前に現れていたのだ。
ただ、その時の彼らには知る由も無かったのだが。