【第百四十九話】ハグレモノの話 後編
――――逃げなきゃ死ぬ!
サレナの表情に再び笑みが戻った瞬間――ヴァイオレットは遂に意を決し、背を向けて駆け出した。
「霧に紛れて逃げても無駄です、ヴァイオレット。可視光線も、音波も全て『揺れ』。私の追跡から逃れる術は存在しません」
デドリーは大腿部に着けていたホルスターから、十字架のような細長い形状のナイフを抜き出し、そのまま投擲する。
例えるならば、それは削岩機。デドリーの能力により刃部分が高速振動を行っているナイフは、通常より遥かに強力な、対象を穿つ凶器と化していた。
「――――――ッ!」
肉――否、それよりも更に奥の骨がナイフによって抉られる悍ましい音が、ヴァイオレットの右肩から響いた。
激痛で一瞬意識が飛び、地面に倒れ伏す。突き刺さって尚も振動を続けるナイフを、何とか肩から引き抜くが、立ち上がる為の力がどうしても出ない。
雪の上で悶えるヴァイオレットに、デドリーが近付く。
「脈動も、規律性のある『揺れ』の一つです。今すぐにでも、貴女の息の根を止める事は容易いのですよ」
変わらぬ冷たい口調で言葉を投げかけたデドリーの手が、ヴァイオレットの肌に触れようとすると、
「ああ、少し待ってくれ、デドリー。逸る気持ちも解るが、ボクとのお喋りがまだだからね」
「……了承しました」
サレナの制止を聞き、大人しく一歩下がるデドリー。
「ぐっ……近寄るな、『黒百合』!」
「フフッ、嫌われたものだ。奇妙な事に、一度拒絶を受け入れると何を言われようが恬然としていられるらしい。どうやら、ボクの中で過去のキミと現在のキミとの相違転換がなされたようだ」
このような状況下で、全くと言って良い程いつもの調子と同じサレナの姿は、それだけでヴァイオレットにとって恐怖であり、脅威にも感じられた。
「何事も、境界を隔てるというのは極めて便利な手段だ。演繹的に相対する二物を比較することで、その事象を定義付けるのが容易となるからね」
その笑顔の下に隠れた意図が読めない。ヴァイオレットのかつての同志である、火神 輝彦も似たような態度をした人物だったが、目の前の奴はそれとはまた全く別のタイプである。輝彦の場合、考えている事自体は判らないが、最終的に至る思想というのが必ず決まっていた。故に、単なる変わり者として見ることが出来た。
だが、このサレナ=コールブラックは違う。
「しかし、残念な事に、それでは事象毎に上下関係が生まれる。俗に言う、形而上・形而下の思想主義だ。結局、『陽』と『陰』の考え方を筆頭とする二元論では、必ずどこかで歪が生じてしまう。それこそが、世界の崩壊因子となり得るのさ」
淡々と、ただ淡々と述べている彼女は、何を想っている?
何を想って、述べている?
「フフッ、キミに返答する気が見られないようだから、ボクは勝手に喋らせて貰うが、『力こそが美』というのもやはり相対主義に準ずるものだね。古代オリンピック選手の優秀者は神格視されていたようだが、それと非常に似た傾向だ。いや、ほとんど同一と言ってもいいかな。それこそが、キミのイデオロギーだとするならばね」
見透かしたような眼。責め立てている訳でも無く、同情しているという訳でも無く、完全に枠の外から眺めている、傍観者の眼。
「構わないさ。現状、今の世界に求められているのは各境界における両義的思考――即ち、構造思想主義だが、それは多元論によって培われていた今までの世の中が、その思想自身によって破綻してしまったことによる思い込みだ。エンペドクレスに基づいた能力を扱うキミが、受け入れられない事も極めて自然。キミは間違っていないさ。何も、何一つだ」
そして、彼女は、彼女自身を表すかのような結論を口にする。
「何故なら、それが間違っているという確証すら、どこにも無いのだからね」
否定する者を敵視する事は容易い。肯定する者を同志と受け入れるのも容易い。
だからこそ、ヴァイオレットはサレナをどう見れば良いか判らなかった。
自分と同じ『ハグレモノ』という『存在』としてこの世に生まれてきたはずなのに、何故こうも考えている事が違う? 問題の中心に居て、何故そうも客観視が出来る?
――――違うんだよ。
ヴァイオレットは答えが判らない。サレナの真意が判らない。だから、
――――私はあんたとは違うんだよ!
だから、彼女を拒絶する。
「炎の――サラマンドラ!」
『黒百合』の元従者は立ち上がり、最後の力を振り絞る。
辺りが火の海と化し、その中心――ヴァイオレットの頭上に巨大な炎塊が出現する。
それは、彼女の決別の意志を込めた炎。
過去の全てを乗せた、彼女の最大の一撃。
「ここで消えな、『黒百合』!」
ヴァイオレットの叫びと共に放たれる炎塊。いかに人外とて、巻き込まれればただでは済まない。
「……それで良いんだ、ヴァイオレット」
炎塊を前にしたサレナは、退く様子を見せない。
ただ、何処か嬉しげで、何処か哀しげな――――そんな表情で、ヴァイオレットの姿を見ていた。
「湖の乙女の空中牢獄」
サレナがそう呟いた刹那、場に訪れたのは静寂だった。
炎は消え去り、山はいつもの様子を取り戻していた。
ただ一つ、ヴァイオレットの姿の代わりに、天に届きそうな程に巨大な霞の塔が出現していた事を除けば。
「……ご主人様、不可視の術は施さなくても宜しいのですか?」
静観していたデドリーが訊いた。
「なに、霧の深いこの山で、しかも霞の塔だ。表の人間に気付かれる事はまず無いさ。それでも、やはり幽閉術にしては派手過ぎるかも知れないけどね」
湖の乙女の空中牢獄。かつて、ある大魔術師がその弟子の女によって閉じ込められた恋の呪い。どちらの恋であったかは定かでは無いが、それは『黒百合』が扱うに相応しい術である事は間違い無かった。
「対象が対象なだけに、効力はすぐ切れるだろうね。手早く済ませて貰おう。出てきてくれ、デザイア」
「はいはーい、ここにいますよー」
空間が断裂して現れたのは、童顔低身長で八重歯に栗毛ツインテールのメイドだった。
「事前に話した通り、あの中へ入ってヴァイオレットに例の奴を実行して来てくれないか?」
「アレですね、了解しましたー♪」
陽気に返事をしたデザイアと呼ばれたメイドは、先程開いた空間の裂け目に再び入って行った。
「本当にアレを実行させるつもりですか、ご主人様?」
「勿論だ。後悔をする気も毛頭無いよ」
「ここまで手を出されたら、もう『家族』の目から逃れられる事は出来ませんよ?」
デドリーはサレナの身を案じているようだった。
「覚悟はしているよ。それに、キミもヴァイオレットに手を掛けようとしたんだから、そこは理解した上だったんだろう?」
「……申し訳ありません」
「謝る必要性がどこにある? 謝罪は過ちを詫びる行為だが、過ちとはつまり他の人物に迷惑をかける事だ。ボクはキミの行動に対して、余程の事じゃなければ不快を示す事は無いと自己認識しているよ。本人が気にしていないのならば、それはやはり過ちでは無くなるのさ」
しばらくして、霞の塔が塵のように空気の中へ消える。
それまで存在した場所には、気を失っているヴァイオレットと、こちらに手を振っているデザイアの姿があった。
「さて、デドリー。悪いが、デザイアと一緒に先に『サイハテ』へ戻って行ってくれないか?」
「? ご主人様は如何なされるのです?」
「少し気掛かりな事があってね、一週間もすれば帰ると思うが」
「ご主人様がそう仰るのなら……」
一瞬不満そうな顔を見せたデドリーだったが、特に何も言う事無くサレナの言葉に従い、デザイアとその場を去って行った。
残ったサレナは空を見上げた。何処か懐かしむような、何処か恨めしそうな、そんな顔で。
「さて……『サイハテ』の外は久しぶりだな」
そんな独り言を呟きながら――『ハグレモノ』の統率者は、山を下り始めた。