【第百四十八話】ハグレモノの話 前編
三月末。ドイツ中央部ハルツ山地最高峰、ブロッケン山。
人ならざる魔女、ヴァイオレット=リデル=コンスタンは一人この山を登っていた。
この山は年中通して霧で覆われているので、視界が異常に悪い。その上、積雪によってかなり歩き辛くなっているので、聞いた限りでは一般人が登山したら確実に音を上げる印象を受ける。しかし、実際はかなり傾斜がなだらかで、天気さえ良ければ自転車でも登れたりするのだ。
ましてや、人とは違う『存在』である彼女が、こんな山など登れないはずが無かった。観光用の蒸気機関車もあるのだが、生憎今回の目的は観光では無いし、無闇に表の世界の物に触れるつもりも無い。第一、山頂が目的地でも無いのだ。
八合目辺りの山林に差し掛かったところで、ヴァイオレットは歩くのを止める。そして懐から羊皮紙を取り出し、自分の人差し指をナイフで少し傷付けてから、その血で羊皮紙に何やら図形を描いていく。
土星四の護符。敵を死に至らしめる強力な呪いの術式である。
一ヶ月後の夜――ヴァルプルギスの夜と呼ばれる時に、この場所で魔宴が催される。地元の魔女は勿論、高位の『悪魔』までも参加する大規模な集会だ。
ヴァイオレットは、その参加者全員を殺すつもりだった。殺し、その者達の所有する力を全て奪う目論見だった。
彼女は、魔女と名乗り始めた七年前より以前からもそうして力を付けてきた。魔女は自身で術式を開発するか、『悪魔』との契約で魔力を付与させてもらい、力を得る。しかし、何かを生み出すのは『人間』か『神』にしか出来ない。所詮人外である彼女には、他人に依存する術しか存在しなかったのだ。
元々、彼女の能力はそうでもしなければ使い道が無かった。四大精霊素と呼ばれる、万物を構成している力を自由に操るというのは、即ち使い様によってはどんな魔法・魔術だろうとセンス問わずに使用出来るということだったが、その『使い様』が分からなければどうしようもない。
だから、彼女は常に他人へ依存する。有名魔術師に弟子入りし、最凶呪術師の従者となり、他人の研究結果を横取りする。
そうして、彼女は強くなる。それが彼女の能力の強み。
無限の進化の可能性を秘めた、超大器晩成型能力。
彼女の魔導書に不可能の文字は無い。
彼女は、自身にそう言い聞かせてきた。
「フヒヒ……良し」
ヴァイオレットは術式を描き終えると、それを近くの木に貼る。これを何十、何百と続け、ここ一帯に護符の配置による巨大な術式を描き出し、効果を一段と高めるつもりなのだ。そして、それが終わったら今度は護符自体の不可視術を施し、相手に気取られないようにしなければならない。
何時間、下手すれば何日掛かるか分からない。しかし、だからと言ってヴァイオレットは作業を止めるつもりは無い。
彼女は力に対して貪欲でなければならない。彼女は力を求め続けなければならない。そして、彼女はその先にある頂を超えなければならない。
それが彼女の存在理由。『家族』の一員としての最大の目的だから――――
「Wie geht es Ihnen(ご機嫌如何かな)? それとも分かりやすいように日本語で話そうか」
ヴァイオレットは不意に後方から掛けられた声に驚愕した。今まで尾行はされていなかったはずだ。正体不明に対する恐怖が込み上げ、彼女は咄嗟に木に貼り付けていた羊皮紙――土星四の護符を剥がし、振り返り様に声の主の方へ投げ付ける。
すると、声の主は護符に向けて掌を翳す。
「木星六の護符――かくして汝は死することなし――」
空中に展開された術式が、ヴァイオレットの護符を弾き飛ばして消滅させた。
「随分と古典的で地道な術式展開法だね。フフッ、その護符呪術……誰から享受したか訊こうかな?」
肩並に揃え、毛先がくるっと巻いた黒髪。どこか陰のある柔和な笑み。黒を基調とした、貴族のような男物の服装。
「捜したよ、ヴァイオレット。尤も、捜し始めたのは今年に入ってから――キミがボクの元を去ってから七年目に突入していたが」
ヴァイオレットはその『女』を知っていた。
「『黒百合』……!」
「……残念だ、キミもボクをそう呼ぶとはね。キミが変わってしまった事が、ボクは何より酷く哀しい」
『サイハテ』に構える館の主にして、『ハグレモノ』の統率者――『黒百合』ことサレナ=コールブラックは、笑みを消した。
「ちっ……! 何だってあんたがここに居るんだい!」
「それは極めて直球的かつ、核心を突く質問だね。ああいや、別にキミのその能動的姿勢を否定している訳じゃないさ。ただ、世上の事物には大概順序が存在するものだ」
「黙りな!」
ヴァイオレットは知っている。この女がいかに危険か、いかに異常か、その全てを。『ハグレモノ』の中でも際立って異質だった、最凶呪術師の姿を。自らの能力を以ってしても完璧に真似る事が出来なかった、その力の特異さを。
彼女の館の元メイドだったヴァイオレットは知っているのだ。
「地のノーム!」
故に、その行動は自然。呪術は基本、中には例外もあるが、発動までに時間が掛かるものだ。相手が一体、何の目的で自分の元へ来たかは知らないが、何かやられてからでは遅い。その前に勝負を決めるしかない。
だが――――
「失望しました、ヴァイオレット」
地面が跳ねた。
そう言い表すのが適切だろう。まるで山自体が飛び上がったように、ヴァイオレットの放った地魔法がそのまま返され、彼女は成す術も無く雪の地面を転がった。
これはサレナによるものでは無い。先程聞こえた声の主――即ち、第三者によるものだ。
「ッ……! 誰だい、そこに居るのは!?」
全身を強打しつつも何とか起き上がったヴァイオレットは、懐から杯を取り出し、声の主である霧の向こうの人影へ水魔法を放つ。
水流の槍の雨が霧を裂き、人影に襲い掛かる。
「振動・波……それ即ち『揺れ』。私が司る事象――――」
しかし、人影に触れた瞬間、水流の槍は跡形も無く消え失せた。
まるで蝋燭の灯でも吹き消されたかのように、あっさりと。
「忘れましたか、ヴァイオレット。地震も、津波も、全て私の意のままです」
冷たい金属のような口調。霧の中から姿を現したその人物は、目付きが刃物のように鋭く、汚れ一つ窺えないメイド服を着用していた。
「デドリー……! あんたまでここに……!」
「当然です。メイドとは、主君に従える者。ご主人様が赴くならば、どこまでも着いて行くのが使命」
「この犬オンナめ……!」
デドリー=ナイトシェード。『サイハテ』の館のメイド長にして、『黒百合』に仕える最強従者。実質、『ハグレモノ』のナンバー2に君臨する女性である。
「再度言います。貴女には失望しました。誠実の象徴の名など、貴女には全く以って似付きません。ご主人様のご友人に手を掛け、あまつさえこの場でご主人様にまで手を出そうとするとは……」
「……『ご友人』? 一体、何の話だい?」
それがここまで来た目的なのか、と思案しながらヴァイオレットが問うと、
「正確にはその更にまた友人……広義的に解釈するならば、ボクの友人同然だが――キミは彼女に使用したそうじゃないか? 永久の眠りの呪いを」
「『彼女』……?」
サレナの言葉を反芻するヴァイオレット。
そして、該当する人物を一人思い出した。去年の七月頃に例の学校へ侵入した時、あの男子生徒との間に割って入って来た、『お姫様』のコスプレをした少女。『元魔王』とは知らずに呪いを掛けてしまって、『天帝』にこっぴどく叱られたのは割と記憶に残っている。
「ボクの友人が、その件に関して酷くお怒り気味だったんでね。代わりに仕置きでもしようかという所存さ」
「まさか、あんたの友人って……」
「『決定者』、本名は桐谷 秀。キミ達も良く知っているはずだが」
ヴァイオレットの動きが固まった。
――――いくら何でも繋がり過ぎだ。冗談じゃない。馬鹿げてる! あんなことが原因で、こいつらに目を付けられるなんて!
ヴァイオレットは混乱していた。
「さて、ヴァイオレット。勿論、ボクがここへ来た理由はそれが主だが、もう一つ別の理由もある。個人的に、キミともう一度会って話してみたかった、というね」
今のヴァイオレットには、サレナの言葉などほとんど届いていない。辺りを見回しながら、逃げ道を探すのに必死になっている。
それを分かっていながら、敢えてサレナは続けた。
「キミは良く口癖のように言っていたね。『力こそが美』だと。キミが感じている美のイデアの定義に、ボクは些か興味がある。今日は、その事について、ボクと少しお喋りをしないか?」
そして、サレナの表情に――再び笑みが戻った。