【第百四十四話】狂乱編:我想う故に我在り
「とりあえず、黒井。お前だけには言っておくぞ」
屋上で鋼鉄先輩と侵入者の男が死闘を繰り広げている横で、僕はまるでそれを額縁の中の光景のように眺めていた。
「あの男が例の目標だ」
「え……」
こちらに近付いて来た茶髪の先輩は、今まで見たことも無いほど真剣な顔付きで、この事態が只事じゃないという事がひしひしと伝わってくる。
「前に話した通り、どうしようと構わない。殺すつもりでやってくれ」
でも。
「頼んだぞ」
でも、それを聴いている彼女は――――
「それから……桐谷って言ったよな? お前は一旦、俺と一緒にここを離れて避難――――」
「ちょっと待ってくださいよ、先輩」
気付けば、僕はそう口に出していた。
「なんだ?」
「僕はこの状況について、何も知りません。だから、口を挟む権利も本来ありませんが…………、麻央さんをあの男と戦わせると言うのなら、僕はそれを阻止します」
先輩と麻央さんが目を見張る。
「……権利がないのが分かってるなら、わざわざ言うな。そんなの許す訳ないだろ」
「ええ。だから、これはただのワガママですよ、先輩」
「ワガママでも聞く訳にはいかねえ。黒井は火神組の協力者だ。これは火神組の問題なんだよ。部外者を必要以上に関わらせる訳にはいかねえ」
先輩は真面目だ。当然の事を言っているのは分かる。でも、
「だったら何で、麻央さんがそんな哀しそうな顔してるんですか」
ハッと、そこで初めて先輩は気付いたようだった。
「僕には彼女が躊躇っているようにしか見えません。そんな彼女が戦闘を強要されているところなんて、見たくありません。……いや、それ以前に、彼女に殺しをさせると言うのなら、僕は『友人』の一人として、彼女にそんな残酷な事はさせません」
先輩の顔が険しくなっていくのが分かる。それは、自分の感情を抑えているようにも見える。『気』の遣い手は、感情によって『気』に操られる事があると、以前に聞いたのだが、どうやら今の先輩はその葛藤と戦っているようだ。
「……良いの、秀くん。これは、あたしのやるべき事だから。ううん、あたしにしか出来ない事だから。だから――――」
その様子を見ていた麻央さんが弁明する。でも、やはりその表情は隠し切れていない。
「だから、あたしがやるしかないの」
違う。
最近、一緒に戦うことが多くなっていたから、それが判る。
例の運動の執行で『魔王』と一騎打ちになった時も、文化祭であの魔女と対峙した時も、氷の軍勢が押しかけて来た時も、『家族』の急襲の時も、そんな顔はしていなかった。僕がその顔を見たのは、過去にたった一度だけ。
僕が、彼女を殴った、あの時だけだ。
普段の彼女なら絶対に見せない、触れれば消えてしまうかも知れないような、弱くて、儚くて、朧げな、そんな表情。黒刀を自らに向けた彼女の姿が、脳裏にフラッシュバックする。
だから、
「良いわけあるもんか!」
僕は、彼女を行かせる訳にはいかない。
もう二度と、あんな涙は流させたくない。
「先輩、僕がやります! 麻央さんがそっちの組織に協力しているというなら、代わりに僕が手を組みます! 『どうしようと構わない』という命令が彼女の限界なら、僕は『絶対に』あの男を殺さずに取り押さえます!」
「秀くん!」
麻央さんの制止は聞かずに、僕は先輩に詰め寄る。
「……火神組にとって、あの男が生きている方が得だと何故判る?」
「さっきあの男が鋼鉄先輩に名乗ってましたよ、自分の名前は火神 輝彦だって。先輩、あんたの苗字も『火神』ですよね?」
「俺がお前に名乗った覚えはねえぞ」
「前に、校長先生が言ってたんですよ。『火神組の次男坊は……』とか言って。あの輝彦っていう男は、火神組の関係者でしょう? しかもあの男が『この7年間』とか言ってたということから推察するに、火神組とは大分疎遠になっているようですが、それでもそんな長い間あんた達があの男を追いかけ続けてるってことは、それなりに理由があるんでしょう? いくら手を組んでいるからと言って、麻央さんや僕みたいな余所者に幕を下ろさせて貰うのは筋違いですよね」
傍目八目。傍観者は時に、主観者よりも事態把握に長ける事がある。
先輩は驚いたように目を見開いた後、再びその目に冷静さが戻る。
「……知るか。どっちにしろ、お前に兄貴とやらせる訳にはいかねえ。親父の推測が当たってんなら、お前は兄貴に狙われてんだ。わざわざ殺されに行かせるかよ」
「だったら、その狙われてる奴を行かせようとしたのは、どこのどいつですか」
その言葉に、先輩が眉を顰める。
「あの男が、僕と麻央さんを狙ってるなんて、見れば判りますよ。自分でもさっき言ってましたしね。火神組があの男の目的を理解していたって言うのなら、麻央さんを行かせるのは道理に反してる。……いや、逆にそれが火神組の狙いだった。あの男と麻央さんを会わせる正当性を付け、あの男の目的が僕らだったから、あの男が戦線から本能的に逃げられないようにしたんでしょう」
7年も逃げられていれば、それくらいは考えるだろう。
「あの男に狙われてるのが、火神組の協力者になり得る条件だったら、僕にもその条件は当てはまってます。だから――――」
麻央さんも、先輩も、黙って僕の話を聞いている。
感情に流されているのは、僕かも知れない。この選択肢が、必ずしも良い結果を招くとは限らない。
だとしても。
「お願いします! 僕に行かせてください!」
何もかも覚悟した上で、僕は首を突っ込んでいるのだ。そう、自分では思っている。
暫しの沈黙の後、先輩が口を開く。
「……何でだろうな。俺の『気』も、お前に同情したらしい。今は馬鹿みたいに落ち着いてやがる」
そこで初めて、先輩は口の端を吊り上げて、笑った。
「黒井」
「はい……」
「お前と火神組との契約は、たった今、無かった事になった。お前は、今から完全な部外者として俺が保護する」
「…………分かり、ました……」
その時の麻央さんは、どこかホッとしているように感じた。
「桐谷」
「はい」
「お前に対する要求は一つだ。『必ず、火神 輝彦を殺さずに捕獲しろ』。黒井の為にもな」
「了解ですよ」
僕は鋼鉄先輩と火神 輝彦が戦闘を行っている方へ体を向け、精神を集中させる。
身体能力の向上を『真』、耐久限度を『偽り』と決定し、脚に力を入れる。
「……秀くん」
背中越しにかけられる声。
「何、麻央さん?」
「後で――――、一回殴らせて」
「良いよ、ただし本気でね」
僕は、戦場へ向けて駆け出した。
秀の背中を遠巻きに見送る夜藝は、一人思う。
――――こいつには、敵わないな。
薄々、分かってはいた。
初めて会った時。自分に拳を向けたあの時から。
彼女を、黒井 麻央という女を想う心。
それが、秀と自分では雲泥の差だということが、はっきりした。
彼なら、彼女を理解出来る。彼なら、彼女を幸せに出来る。
哀しませる事しか出来なかった自分が、彼女を想う資格は無いのだ。
かくして、一人の男の片想いは終わりを告げた。
鋼鉄先輩と火神 輝彦が互いに距離を取った隙を見て、僕は鋼鉄先輩に近付く。
「遅くなりました、先輩。この場は僕が請け負います。先輩には退却をお願いします」
「む、夜藝の話と違うな。来たのは君の方か」
先輩は特に気にしていない様子で、僕の方を見遣る。
「フーン……噂はかねがね聞いているよ。君だろう、現生徒会長――僕の後任というのは。何でも、聖夜に女子生徒寮へ押し掛けたそうじゃないか」
「うげっ……その話、伝わってたんですか……」
参ったな、あれは完全な不可抗力だったというのに。やはり、とんでもない思い違いをされているようだ。それからあれは、クリスマスの夕方の出来事であって、決して前日の夜じゃないのだが。
「まあ、それくらい茶目っ気がある方が、僕は好印象を抱くがね。生徒会役員というだけで、姿勢を張られるようでは堅苦しくて仕方が無い。事実、僕はあの場所が苦手だったよ」
これは意外だ。あの完璧とまで謳われる鋼鉄先輩が、そんな事を思っていたなんて。てっきり、面汚しだと叱られるまでは無いとしても、注意されるくらいはあると思っていたのだが。
「それはさて置き、君が戦闘に参加するのは構わないが、僕が戦線から外れるのは望むところでは無いな」
「いや、でも先輩は火神組の関係者じゃないでしょう? ここは僕に任せて、先輩は――――」
「確かに組織的事情として、僕が手を出す道理は無い。ただ、これは『出来る限り応戦してくれ』という他でも無い『友人』の頼みなのでね。僕が戦う理由はそれだけで充分だ。この一件につき、彼の発言力は絶大だよ。大方、君も彼に許可でも取ったのだろう? 彼はその辺を自由にする権利がある」
僕は何か反論しようと思ったが、火神先輩の話を出されちゃ、こっちも何も言える立場じゃない。
「何だァ、ごちゃごちゃ喋ッてねェで、やンならさッさと来いッつうンじゃァアン!?」
距離を取っていた火神 輝彦が痺れを切らしたようだ。
禍々しく巨大な魔力を含んだ炎の翼がゆらりと揺れると、体ごと突進を仕掛けてきた。
「フーン……だが安心したまえ、現生徒会長君。僕は君の邪魔をする気は無いし――――」
先輩はその場で一旦鞘に収めていた刀の柄を握り、居合い斬りの要領で目にも止まらぬ速さで一気に振り抜く。
「足手纏いになる気も、毛頭無い」
屋上のタイルに一直線の亀裂が奔る。逆袈裟に斬られた火神 輝彦の体が吹っ飛び、その炎の左翼が斬り離される。
「ゲハッゲホッ……! やるじゃンかよ、長身眼鏡ェ……!」
しかし、火神 輝彦の体に傷が付いている様子は無い。空中で一回転した後に着地すると、炎の翼も元の大きさに戻っていく。
「フーン……高圧水流を切っ先から放つ事による擬似的ウォーターカッター……。射程距離は刀身の約三~四倍程度か。炎を遠距離から消せるのは良いが、表面の結界を破るには至らないな。やはり、直接刀で突く他に無いか」
どうやら鋼鉄先輩が使っている刀は、魔導具だったらしい。見た限り、水魔法の特性を持っているようだが。
「あの……何が起こったか良く分からないですけど、今聞こえた『刀で突く』とか物騒な真似はしないでくださいね。あの男は生きたまま捕らえなきゃならないんで」
「無論だ。僕に殺しの許可は下りていない。その辺りの事は君が担当するのだろう? 何か策があるか訊きたいのだがね」
「ぶっちゃけた話をすれば、僕は全然向こうの能力を把握してないんで、どうしようも無いかも知れません……」
唯一にして最も、この任務を請け負うに至って心配すべき点があるとすればそこだろう。麻央さんと鋼鉄先輩は、火神先輩から何かしら説明を受けているだろうが、僕は皆無だ。今この場で、鋼鉄先輩に訊くにしても、火神 輝彦はそんな時間を与える事すら許さないだろう。
ただ、
「でも、鋼鉄先輩が僕を信用するなら――――」
正体不明の能力だろうと、問答無用で偽物と化せる力が、僕にはある。
「一つ、手っ取り早い方法があります」