【第百三十九話】狂乱編:殺意
人間とは一体何なのだろう。
一時期そんな疑問を抱いていた時があった。その頃の僕の精神状態は完全な下り坂に陥っていたのだ。
いくら考えても結論に至らず、結局他人の思考に頼ることにした。
「人が何なのか、だって? フフッ、随分と難儀な事を訊くな」
当時、唯一『友達』と呼べそうな人物だったそいつは、いつものように笑顔を浮かべ、確か紅茶でも飲みながらそう言っていた。
「そうだな。質疑応答はボクの信条とするところだからね、答える事は訳無い。ただし、あまり当てにしないでくれ。個人的な見解というのは、概して一般性に欠けるものだ」
小難しい前置きをしてから、そいつは手を顎に添えて考え込む素振りを見せた。言葉を選んでいるようだった。
よく考えれば解ることだったが、そいつは人と呼べる『存在』では無かった。多分、人外である自分が下手に人の事を語り、僕にずれた認識を与える事を危惧したのだろうと思う。
尤も、当時の僕はそんな事は全く気にしていなかったし、第一考えてもいなかったのだが。
「まず最初に普遍的な人間における高次センチメントたる情操が比較的他の知的有機生命体より難解複雑な物である説明の必要性があるかも知れないが、省くとしようか」
先の話の理解が絶望的のように思えた。
「ボクが思うに、人は欲望に忠実な生き物だ。誰もが何かしらの願望を抱いている。虚無思想主義者も存在するが、彼らも言ってしまえば『無』を求めている事になり得るからね。願望を抱く事自体は『人間』に限った話ではないが、他の『存在』と違うのは『人間』のそれが極めて多様性に富むということだ」
そいつは人差し指を立てて続けた。
「例を挙げるならば、自ら好意を寄せる者に対する態度や行動も人によって様々だろう? 全面的に愛情を押し出すのか、嗜虐的行動を取るのか、はたまた寂寞と陰から見つめているのか……いずれにしろ、それはその者自身が内心に抱く願望の表れと解釈が可能だとボクは考えている。フフッ、ただしその根底は皆淫靡に満ちた低俗極まりないものかも知れないがな」
今になって考えれば、その頃のそいつは結構危なっかしい発言をしていたと思う。
「どのような形だろうと、人はその心底に持つ個々の願望を叶えるが為の行動を取る。絶対的意識下において抑制する事も不可能じゃないが、畢竟それはフラストレーションに陥る要因となる。例えそれが、綱常から大それた愚願だろうとね。何とも煩雑なものだろう?」
とりあえず、そいつの言っている事が煩雑だという事が判った。
「フフッ、単に詰屈だったかな? それは随分と無聊な思いをさせてしまったね。この話はもう止めにしよう。これ以上、ボクがどう述べたところで、それが事実である確証はどこにも存在しない。事実か否かは、キミ自身で判断すると良い」
最後に、そいつはもう一度微笑んだ。
「いずれ、その目で確かめる時が来るさ」
殺したい。
そのフォルムが殺意を彷彿させる。髪が、眼が、耳が、鼻が、口が、頸が、胸が、腕が、脚が、爪先が。
そのキャラクターが殺意を彷彿させる。直線的、婉曲的、積極的、消極的、楽天的、厭世的、暴力的、温厚的、豪胆的、臆病的な面が。
殺したい。これほどにまで歪で、不安定な『存在』が居るか? 否、居るはずが無い。居てはならない。こんな殺したいモノが、そう存在し得るものか。
殺したい殺したい殺したい。
この『存在』を殺し続けよう。殺し殺し殺し殺し殺し殺し殺し続け、己の殺意を基盤とする世界を創ろう。全てを殺し切れない退屈な今のクダラナイ世界を壊し、後にその理想の世界を創ろう。
この力があれば、出来る。邪魔する化け物も全て、この力の前にひれ伏す。
これは出来る事なんだ。
これは、出来る事なんだ。
「イヒヒ……この世界は殺す事を許してくれないじゃん」
狂人は目の前の目標二人に、そんな当たり前のことを言い始めた。
「だから、ウチは殺す事を自粛した。少なくとも、『この7年間』は」
我慢した。ひたすら我慢した。その手段と、実力が手に入るまでは。どれほどこの7年間が長く……永く感じられた事か。
先程の『吸血鬼』を殺したくらいで、この溜まりに溜まった殺意が晴れるものか――――いや、そもそも狂人にとって本当に殺したいモノはそんなのでは無かった。
「ウチは、『人間』が殺したいんじゃん」
それは狂人にしては強い口調だった。
「殺したい殺したい。ああ、殺したい。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺――――本当に全員殺したい」
最早、『異常』という言葉すらも劣るほど、狂人は文字通り狂っていた。
「……んで。それ叶えるための鍵っつーのが――――あんたら二人って訳じゃん!」
叫び、狂人は手を翳した。おぞましい魔力が蓄積され、それはそのまま灼熱の炎となり、二人を襲う――――その前に炎は消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように、ただ『偽り』と決定されたのだ。
「……常軌から一万光年くらい逸してる異常者だな」
呆れた様な口調でそう言うのは、目標の一人である男子生徒だった。
狂人は特にそれを驚きはしなかった。今回の件について、関係者という関係者の情報については徹底的に調べてある。今のは、試しただけだ。目標の一人である彼個人の能力――『真偽の決定』というものが、如何ほどのものなのかを。
「イヒヒ……やっぱりな」
そして、見切った。
疾駆。狂人は素早く男子生徒に近付き、己の拳の射程圏内へ入れる。今度は打って変わって、接近戦だ。
「っ!?」
突然の狂人の動きに、反応が遅れる男子生徒。
その視界に何とか捉えたのは――――真っ黒に染まった、狂人の右拳。
「“黒点”」
メキリ、という音と共に身体が宙を舞う。
他の誰でも無い。『狂人の身体』が、だ。
「……え」
男子生徒が呆気に取られたような声を上げるが、その声は狂人が吹っ飛んだ先の壁の粉砕音によって掻き消された。
崩れた瓦礫の中から狂人はむくりと上体を起こし、自分を殴り飛ばした張本人に言う。
「いったた…………女が何の躊躇も無く人の顔面殴る、普通?」
「あたし別に普通じゃないし、そっちも普通じゃないみたいだから、おあいこじゃない?」
目を丸くする男子生徒の前で、女子生徒は臆することも無く、そう言い放った。
だが、相手が予想より遥かに『普通』ではない事は、かなり厄介だった。
先程、男子生徒に放とうとした黒い拳は恐らく体内蓄積系――魔力を具現化しない術の一つだろう。明確な存在表示を確認できない以上、男子生徒の能力で干渉することは出来ない。あのタイミングで出されたら、絶対不可避の一撃だった。女子生徒が居なければ、確実に男子生徒はそれを喰らっていただろう。どうやら、相手もただの狂人という訳でも無いようだ。だからこそ、さっきの顔面への一撃は手加減など微塵もしなかった。しなかったのだが…………どうにも、次点が最も厄介な事のようだ。
この狂人、ピンピンしている。
女子生徒は純粋な力――腕力というか、筋力というか、取り敢えず打撃の威力の高さならば、全世界でもかなり上位に位置する。自身でもそれなり自負しているし、『漆黒の魔王』などという異名もそれに準えたものだ。
そんな彼女が全力で放った拳が効いていないなど、まず有り得ないことだった。
「イヒヒ、情報通りの怪力女じゃん。『元魔王』」
それなのに、何故この狂人は立ち上がれる?
「敬意を表してあんたから殺してやろうか?」
気味の悪い薄ら笑みを浮かべながら、一歩一歩ゆっくりと近付く狂人。
男子生徒と女子生徒はそれに構え、最大限に緊張の糸を張り巡らせる。
一挙に辺りが沈黙に包まれる。そして――――
「待てよ、てめえ」
屋上のドアを叩き破って、その二人の上級生は姿を現した。