【第百三十三話】とある小遣い稼ぎ 2
「此方になります。どうぞ、ごゆっくり」
「ああ、ありがとうございます」
館に着いてから二階のこの寝室前に到るまで、実に10分の時を費やしている。何度来ても、この館の広さには慣れない。そして、床全面に赤絨毯が敷かれているという馬鹿げた光景も同様だ。
デドリーさんに軽く会釈し、僕は寝室のドアノブを回して中へ歩を進めた。
「あわわわわ、お、おおおおお客様でありますか!? す、すみません! まだベッドメイクの途中であります! しばしお待ちを!」
一番最初に目に飛び込んで来たのは、破けて中から羽毛がはみ出してる枕の前であたふたしてる、僕と同じ歳くらいのメイド姿の金髪のショットヘアーの女の子だった。
「貴女、まだ終わっていなかったの?」
「あわわわわ、デドリーさん! 申し訳無いのであります! もう少しで終わるのでぎゃあっ!」
そのメイドさんは慌てた所為か、ベッドから垂れていたシーツに足を引っ掛け、盛大にすっ転んだ。お蔭で、綺麗にしていたブランケットはしわくちゃだ。
「すすすすすみません! また洗い直してきますので、もう少々お待ち頂きたいのであります!」
部屋の寝具を両手一杯に抱えて、彼女は部屋を飛び出して行った。そして途中、廊下で幾度か躓いて転びながら、視界から消えて行った。
残された僕とデドリーさんの間にはしばらくの沈黙が流れ、やがて僕から口を開いた。
「……デドリーさん、もしかして今のが」
「ええ、彼女が例の新人のイディエットです。言った通り、間抜けでしょう?」
「そうですね……」
いや、最早間抜けとかドジとかそんな言葉で済む次元の話じゃ無いと思うのは、僕の気のせいでは無いはずだ。何か、強力な呪いにでも掛かっているんじゃないだろうか? 他人を不幸にさせるとか、そういう類の術はあった気がする。
「天然です」
僕はその言葉が信じ難かった。
「お待たせ致しまして誠に申し訳無いのであります……」
結局、デドリーさんも手伝ってようやくベッドメイクは完了したらしい。既にこの時点で、館に着いてから30分は経過していた。
イディエットさんは床に頭を着けて謝っていた。本人は素なのだろうが、メイド姿に土下座は酷く似合わない。思わず吹き出しそうになったが、一応堪えた。
「いや、頭上げてください……そんなに気にしてませんから」
潤んだ瞳が僕を見上げた。よく見れば、右眼が青で左眼が茶色の……所謂オッドアイだ。虹彩異色症なのか、魔術的なものなのかは知らないが、こういう眼の人は初めて見る。眼の色が変わる人なら、学校のクラスメイトにも居るのだが。
「あの……一つ良いでありますか」
イディエットさんは続ける。
「土下座のしすぎで足が痺れて立てないのであります……」
間抜けというか、馬鹿なんじゃないだろうかこの人は。
僕の隣に立つデドリーさんも溜め息を漏らした。いつになったら僕は休めるのだろうか。
天は人に二物を与えない。天は人の上に人を造らない。
表の世界で流通するこの言葉も、裏の世界ではまるででたらめだという認識が確立しているのは言うまでも無い。何せ、人の才に干渉するのは天だけでは無い事を重々承知しているからだ。
運命は変わりやすいものである。他者の介入で容易に分岐し、その道への進出の可能性を作り出す。とある天才学者が、この世は全て一定の法則で動いていると仮説を立てたが、それは間違いだ。そう見えるだけで、本質的には全て可能性で成り立っている。ある一定のシークエンス毎に、また違ったシークエンスへパラレルに進む可能性が必ず生ずる。
故に、人からそれ以上のものが生まれる事も、人からそれ未満のものが生まれる事も、決して驚く事じゃない。そもそも、同じ存在が延々と誕生するならば、人は成長しないはずだからだ。だからこそ、人へのパラメーター配分は疎らなのだ。様々な未来へ進む可能性を少しでも広げようと、世界がそう成り立っている。そして、その事象に干渉する者も沢山存在するという事だ。
だが、そうして生まれた『ハグレモノ』を護る術を、世界は知らなかったのだ。
寝苦しく感じて、僕は上半身を起こした。体があちこちダルい。少し寝すぎたか。
「やあ、秀。目が覚めた様だね。この寝室に居るとデドリーから聞いてね。足を運んできてしまったよ」
僕が寝ていたベッドの端に腰掛けている人物が一人。館の人の中で一番見慣れた顔。それでいて、この館の主その人だった。
「フフッ、何か言いたげな顔だな。ああ、待ってくれ、口に出さなくても結構だ。毎回この館に来て、キミが開口一番にボクに言う事など一つしか無いからね」
先が少しくるっと巻いている、肩程に伸ばした黒髪。何もかも見通しているかのような眼差し。柔和な笑みを浮かべて、その人物は言った。
「『デドリーさん以外にまともなメイドは居ないのか』だろう? フフッ、生憎『サイハテ』の住人は個性豊かな人が多くてね。常識を求めるには不適な場所さ」
「……そっちも毎回同じ返答をするんだな」
「キミが同一の質問を繰り返すのならば、何度だろうと答えるよ。割とお喋りは好きな気質でね。同じ事をもう一度口に出すのは苦じゃないさ」
こいつは昔から何も変わっていない。容姿も、常に表情を笑顔に保っているのも、やたら理屈めいた話し方をするのも。そして―――
「その言い回しも何度か聞いた気がするな、サレナ」
「……フフッ、相変わらずキミだけだな。ボクをその名で呼ぶのは」
女なのに一人称が『ボク』である事もだ。
「さて、秀。キミがここへやって来た理由は把握しているよ。アルバイトだろう? だが、生憎この冬は人手が足りているんだ。キミが入り込む余地は無い」
「ならどうしろと?」
『サイハテ』まで来て何もせずに帰ったら、まるで労力の無駄遣いだ。あと、入り込む余地ならありそうな気がする。例のドジっ子メイドのサポートとか。
「キミとは長年の誼みだからね。ボクとしては無償で資金援助しても良いと思っているよ。だが、キミはそういった好意は受け取らない。そういう人間だろう?」
僕の性格をよく把握している分、こちらから喋る必要が少なくて面倒臭く無いのは良いのだが、こうも悟られていると些かムカつくものもある。
「そこでだ。キミには、ボクとゲームをして貰いたい」
「ゲーム?」
「付き合って貰えたら褒美としてボクが金一封を渡す。悪くないだろう? キミの個人倫理に悖る事は何もしていないと思うが」
「……んまあ」
上手く丸められてると思うのは気のせいか。
「で、そのゲームとやらは何だ?」
こいつの事だ。そこらの普遍的なゲームを持ちかけてくるとは思えない。少なくとも、トランプが出てくる事は期待できなさそうだ。
「フフッ、ルールは至って単純明快だ。ボクがこれから出す問いに、キミは『イエス』か『ノー』で答えてくれれば良い。全部で五問。正解数が多ければキミの勝ち。逆ならボクの勝ちだ。負けた方は罰ゲームなんてどうだ?」
「…………」
最後の内容に物凄く嫌な予感がするが、拒否する理由も別段無い。
「良いよ。罰ゲームの内容は何だ?」
「勝った方が決めるというのはどうだ? 勝者はいつ何時も優遇されるものだ」
「了~解」
まあ、二択問題なら正解率は五分。僕が判る問題が含まれている可能性を考慮すれば、この勝負は僕の方が多少有利。罰ゲームなどやるものか。
「では第一問だ。現在、キミに恋人は居るかな?」
………は?
「ちなみに、嘘は吐かない事だ。キミは真偽を操る者の癖に、そういうのは苦手だからな。ボクには通用しない。それから、無回答は不正解とさせて貰うよ」
「お前な……」
やっぱ罠だったか。しかもかなり巧妙だ。『逃げる』という手段が思い付いたが、下半身が動かせずベッドから降りられない。金縛りの術の類か。どうりで寝苦しかったはずだ。
落ち着け。Cool down。ここで焦れば、それこそ相手の思う壺。
「ノーだ」
「そうか。では第二問。ファーストキスは済んでいるかな?」
「ぐっ、それは……その」
「第三問。ちなみにそれはキミからかな?」
「うっ……」
「第四問。その相手はずばりクラスメイト」
「…………」
「さて、三問無回答。この時点でボクの勝ちだね」
……ああ、良く思い出した。
こいつは、こういう奴だった。
「……で、何やるんだよ。罰ゲームは」
言い訳を考えるのは諦めた。こいつに口では勝てん。甘んじて受けようじゃないか。
「そうだな……。今は良いものが思い付かない。先延ばしにしよう」
「うわっ、汚ぇ」
「フフッ、こういうものは最大限に利用すべきだからな。愚人と賢人の違いは、物事に対する利用価値の探知力の差にある。はい、金一封だ」
手渡されたのは茶封筒。今どっから出したんだこいつは。厚みと重さから推測すると、いつものバイトの時よりもかなり少ない金額が入っているようだ。
中身を見てみる。予想は見事に当たっていた。精々、防寒用コート一着分の金額だ。
「キミの薄い長袖姿を見れば、大体の見当は付くよ。それで冬は越せるだろう?」
……どこまでこいつは僕の事を把握してんだか。
「さて、次の話題だが……」
「なぁ、サレナ。どうでも良いけど、いつまでここで喋り通してるつもりなんだ? その……寝室で男女が長時間一緒に過ごしてるっていうのは……誤解されやしないのか?」
特にデザイアさん辺りに誤解されると、後が面倒そうだ。
「フフッ、キミはボクがそんな気を起こす卑俗なケダモノに見えるのか?」
「いや、そういう訳じゃ……」
「同じさ。ボクだって、キミがキミから厭う女性を無理に襲って自らの欲望を発散させる様な下劣な餓狼には見えない。そんな事は彼女達も同様に承知している。発生する要因が無いのならば、危惧する必要性もまた存在しないだろう?」
「人の深層心理ってのは解らないものだぞ。可能性が無いとも限らないだろ」
人の心は難解だ。自身でも管理し切れない無意識の世界は、最早底無し沼とも呼べる。
「確かに、見るからに美味しそうな食べ物を目の前にして味見してしまう程度の感覚は、誰しも身に付けているかも知れない。だが仮に、キミがその誘惑に容易に屈してしまう様な軟弱者だったとしたら、キミは今頃三途の川でも渡っている事だろう」
ここのメイド達は皆怖いからな、と付け足した。
「それに、そんな事考えるまでも無く、ボクはキミがそんな下卑た人間だとは思っていない。キミは心に確かな芯を持った男だ。容易に想念を曲げる様な事はしない。だからこそ、キミが話し相手になってくれると、お喋りが楽しくなる。『サイハテ』に居て、これ以上楽しい事は無いよ」
その言葉を口にしたサレナの表情は、本物の笑顔のようだった。
「お喋りを続けよう。前回、この館に来た夏から冬に掛けて起こった出来事全て、詳しく聞かせてくれないか? 時間はある。ゆっくり話してくれ」
やはり、こいつに口では敵いそうも無い。言の葉を扱う才が違う。言葉一つで人の心を動かし、止める力がある。その言葉の重みは、時として心を蝕む毒と化し、時として心を癒す薬と化す。『人間』では無い『存在』が持つ究極的に人間的な特質は、大きく他人を揺らす。
だからなのだろう。僕が昔、こいつに惹かれていたのは。
「……分かったよ」
僕はとりあえず、夏休み終盤の例の急襲の事から話を始めた。