【第百二十五話】修学旅行の話 4
――――『生』を創ったのは一体何者か。
世界の神話上には、多くの『存在』を生み出したという所謂『生命の母』なる母神が居るが、その母神自身は如何にして誕生したかと問われれば、当然もう一段階遡る必要がある。天地創造、天地開闢、乳海攪拌……様々な説が飛び交うが、結論を端的に言うならば、最終的に一つになる。
原初は、『無』が存在した。
しかし、その『無』自身さえ『生』を受けた者なのかと問われれば、いよいよ反論が出来なくなる。故に、この『無』という者は『生』という概念すら超越した超常的『存在』であると認識しなければならない。つまりはそういう事だ。『無』が『生』を創った事により、それに繋がる種子を広げたのだ。言うなれば、『無』こそがこの世の最上に位置する者であり、最も崇拝すべき『存在』なのだ。『創造神』という名を与えるならば、これにおいて他は無い。
しかし、この世に別の『存在』が誕生すると同時に、『無』は消失する。別の者が現れた以上、それは『無』では無くなるからだ。だからこそ、様々な者が蔓延るこの現在の世界において『無』はちっぽけな『存在』でしかなくなった。そもそも、『そこに存在しない』という『存在』を認識することさえ、今を生きる者達には理解し難い観念だったのだ。現に、人間の世界でも0という概念を発見してから数の対象として考えるに至るまでに何百年も掛かっていた。『無』という『存在』は皮肉な事に、自らが創り出した『生』に受け入れられなかったのだ。
ならば、『死』はどうだったのか。『死』は『無』を受け入れたのだろうか。そもそも、『死』はいつから存在したのか。『生』に相反する者が『死』とするならば、『生』と同時に誕生したと考えるのが普通だろう。だが、それでも『死』はあまりにも異質すぎるのだ。神話上の神々は大抵『死』という概念から抜け出せておらず、オーディンはフェンリルに喰われ、オシリスはセトに謀殺され、伊弉冉は迦具土の出産の際に焼かれ死んだ。『神』と位置される『存在』同士が殺し合う話などは数多くあり、『死』とは『神』ですら抗うことの出来ない事象とされている。『時間』や『空間』などの副次的な『存在』と同様に、『死』は『生』を凌駕しているのだ。
『生』に受け入れられなかった『無』と、『生』を支配する『死』。双方ともそれぞれ何処か似通った点がある。
だからこそ、我々は此処に一つの仮説を立てよう。
『無』と『死』は同一の『存在』である。
『死』が『生』を創り、『死』が現在の世界を確立させた。『死』こそが『始まり』であり、『終わり』でもある。
かつて唯一無二の者としてこの世に君臨していた『無』は、『死』という名の『負』として、今もこの世を覆っている――――
【『負』の力の可能性】。黒井一族が代々管理していた黯魔術に関する書の冒頭の記述を現代語に訳すと、大体こんな感じになる。
魔の術式としての『黒魔術』では無く、禁忌の技術としての『黯魔術』。あたしの先祖はなかなかマズい物に手を出していたらしい。『ハデス』も『プルート』も、その研究の賜物だという。たかが『人間』が作った魔導具が古の名を継ぐのも、何となく頷ける気はする。
もっとも、一族がそんな研究をしていたのはとっくの昔の話で、内容も自己中心的な理屈で訳の解らない事が延々と綴ってあっただけだし、あたしはそういう本があったという記憶しか無い。挙げ句の果てには、その黯魔術の書を狙った『悪魔』にあたしが属する宗家の者達が殺されて、在処さえ分からなくなった。てっきり『悪魔』に盗まれたと思って『魔王』就任時に調べてみれば、『入手失敗につき行方知らず』とだけ記録が残っていた。野蛮な下っ端が多い『悪魔』は、こういう所が弱い。
それはともかく、黯魔術の研究においてその基盤となる事柄になっていたのは、『負』だった。この世で最も大きな『存在』である『負』の力を利用する術を見い出す事こそ、黯魔術の根底に位置する概念であり、黯魔術の研究とは『負』の研究でもあった。
『破壊』という『負』は『ハデス』を生み、『死』という『負』は『プルート』を生んだ。次に目を付けるとしたら、遥か昔にこの世を創り上げた『無』。しかし、『無』と『死』は同じだと定義して『プルート』を造った以上、この研究は完成しているように思える。『プルート』こそが彼らの導き出した答えだと認識しても良いのではないだろうか。しかし、そこが研究者の意地とでも言うところか。彼らは更に上を目指した。目の前の物を決して『完璧』とは見なさず、己の理想をひたすら追い続けていた。
黯魔術の研究に、彼らがそこまで夢中になっていたのは何故だろう。『負』の持つ力とはそんなに魅力的な物だったのだろうか。ある種のドラッグ的な依存性でもあったのだろうか。力を求めるという行動は『人間』として間違ってはいないが、少なくともあたしは強大な力が必ずしも結果的に良い未来を作る訳では無いことを、身を以って知っている。そこまでして彼らが力を追求し続けたのは、何故だったのか。
何か、また別の理念が彼らにはあったのだろうか。彼らを黯魔術の研究をさせるまでに至らせた外的因子。彼らの心底の超経験的理想概念を揺さぶるような、何かが―――
「………ん?」
最初にあたしの目に映ったのは、見慣れない白い天井だった。何やら記憶が飛んでいるようだ。なんであたしはこんな所で寝ていたのだろう。
「やっと起きた? もう八時越すよ、麻央」
「え、あ……おはよ、ヒナ」
あたしが寝ていた布団の横に置いてある椅子に座っているヒナは、やっぱり人形を作っていた。思い出した、ここは島の海岸近くにあった宿泊施設の中だ。
「寝ぼけてんな。朝の八時じゃないよ、夜の八時。夕飯食べてこの部屋に戻ってから即爆睡してたよあんた。昼間のビーチバレーの疲労でも溜まってた?」
だんだん頭が覚醒してきた。シャワーを浴びてから食堂で夕食を済ませて、部屋に戻って……やっぱりそこからの記憶が無い以上、その通りらしい。
「あれ、そういえば夜に浜辺で花火やるって言ってたよね? 何時から?」
確か、富士田くんと足立くんが企画していたような気がする。
「七時半」
「え、じゃあもう始まってるの!? なんで起こしてくれなかったの!?」
「この上無く幸せそうな表情を浮かべながら、意中の人の名前を囈言で呟いてたから」
「……それ冗談だよね?」
「さあ、どうだか?」
にやにやと微笑むヒナ。……嘘だとは思うけど、やっぱり少し気になる。
「ってもうそんなこと言ってる場合じゃないよ! 早く浜辺に行かなきゃ!」
「ちょっと待った、麻央」
部屋を飛び出てこうと布団から立ち上がったあたしを、人形の製作を中止したヒナが肩を掴んで静止させる。
「なに、ヒナ? 早くしないと……」
「服を脱げ」
は? と、あたしの口から声が漏れた。一体何を言い出すかと思えば。
「浴衣の着付けするから」
そう言って、部屋の床の上に畳んである浴衣を指差す。
「いや、なんで?」
「花火といえば浴衣でしょ」
そんな単純な。まぁ、分からなくも無いのだけれども。
「だからもう時間が……」
「もう遅れてるんだからゆっくりしたって同じだっつの。大丈夫、三分で出来るから」
何が大丈夫なのか、と心の中で思っていると、ヒナがあたしを布団の上に押し倒して服を脱がしに掛かってきた。完全に不意を突かれた。
「ってやめてよ! 服くらい自分で脱げるから!」
「ほら暴れない。わたしがやった方が効率良いの。早く行きたいなら大人しくしろっつの」
しまった、四肢の『支配権』を念糸で奪われた。これじゃ何も出来ない。
抵抗の出来ないあたしから、ヒナはてきぱきと服を剥いでいく。
「ちょっ……!? 下着まで脱ぐ必要ないでしょ!?」
「浴衣は元来湯上がりに肌の水分を吸収させる目的で着る物。下着なんかはかないの!」
「昔の話でしょっ!?」
「古きを重んじるのが人間なの!」
変なところ強情だなぁ……。
「でもだからって……ひ、あっ、いやっ、やめてっ! やめてってば!」
夜の闇の中で色鮮やかな閃光を放ちながら、みるみる短くなっていく細長い筒。これは火の魅力なのか、光の魅力なのかと訊かれれば、視認する上で光が必要な以上、光のお蔭とも言えるかも知れないがそれは全ての物体において言える事だし、『炎色反応』というくらいだから火の魅力ってことでいいだろう。そもそも『花火』なんて名前なんだし。まぁ、どうでも良いけど。
30秒程でただの黒こげの棒と化したススキ花火を、海水を底に浸したバケツの中に放り込む。一瞬の芸術ってやつだ。絵画を観たりするのとじゃあ、恐らく感じる場所が違う。比較は出来ないものだ。そこまで来れば好みの問題になる。まぁ、どうでも良いけど。
「おい、秀。お前何か憂鬱そうな顔してるぞ」
「……まぁ、当たってはいるかな、篭。今日は少し、面倒事が多すぎた……」
心身共に疲れ果て、とても花火を楽しむなどという気持ちになれない。いや、今日に限った話じゃない。近頃、何だか妙な展開になってしまうことが多い。生徒会のメンバー構成だとか。まぁ、あの件は明らかに人為的な何かが働いているとしか考えられないが、他の事はどうなんだろう。トラブルに巻き込まれやすい体質にでもなったのだろうか。
「……ま、お疲れ様だな。それよりもさ、秀。ちょっと訊きたいことあるんだけど」
「何だ?」
篭はえらく真剣な表情で口を開く。
もしかしなくても嫌な予感がプンプンする。
「お前、この島に来て何か変な感じしなかったか?」
……やっぱりな。
「いくつかあるよ。一つに、この島全体に張られてるでっかい結界。かなり昔からの物で、一般人が入れないようになってる。不可視になってるし、『存在』を把握するのは割と難しかったけど。それで、そんな無人島に何で宿泊施設があるのか、とか。後は……夕食以降、先生の姿が見当たらないことくらいか」
「実はもう一つあるんだよ」
篭は海を背にして、不気味な暗さに包まれた島を諦視するように言う。
「この島、霊力の反応が濃い。住む人間がいない以上、人が死んで霊が生まれるなんてことも無いはずなのにだ」
なるほど、そこまでは気が付かなかったな。
「秀。お前はこれをどう思う?」
再度、篭は真剣な眼で僕の顔を見る。……まぁ、どうもこうも――
「先生達が意図的にやってるとしか思えないな」
「だな」
僕と篭は同時に歩き出す。その目的は一つ。
「いっちょ肝試しでもしてみるか」
この島の、おかしな謎を解くためだ。