【第百二話】彼女の見つからないもの
平穏を求めてここまで来た。私以外の全てを捨て、殺し、やっとの思いでここまで辿り着いた。なのに。
疼く。私の中の本能が、何かを求めている。
ここでの生活は退屈だ、そう叫んでいる。
冗談じゃない。私は今の暮らしに満足してる。体の傷なんかとっくに治ってる。『保健室』という場所に居て、毎晩あの男の血を吸ってるだけでいい。唯一警戒していた『ダンピール』のことも解決した今、この暮らしを続けることに何も問題は無い。
なのに。
「どうかしたんですか、ミラーカさん?」
目の前にいる男が訊いた。女々しく、軟弱で、腑抜けた声だ。
「どうしてそう思うのよ?」
「い、いや、その……何となく……」
男は困惑したような表情で私に言う。
「貴女のそんな顔、見たこと無いから……」
「…………」
この男は不思議だ。普通の『人間』とは違う何かを持っている。
「……『吸血鬼』は、姿が鏡に映らないのよ。もっと具体的に言ってくれないかしら?」
「具体的に、って…………何か、迷ってるような」
「そうね、迷ってるわ。今からあんたを殺すかどうか」
「えぇ!? 何で!?」
「いちいち面倒臭い男ね、冗談かどうかの区別も付かないわけ?」
「…………」
男の目が潤んでいるように見えた。
不思議だ。こんなにも脆く、弱いのに、何かを護るという強い意志がこの男の心の奥底に居座っている。一体、その目は何を見ているのか? 私のような邪の念が強い種族の者には、その答えに辿り着くには難がある。
私のような種族の者には――――
「ミラーカさん」
男が突然、声の調子を変えて私の名を呼んだ。
「……何よ?」
「あの……前から訊こうと思ってたんですけど……」
重々しい表情。
「ミラーカ=カルンスタイン…………貴女は、『吸血鬼』の王家カルンスタインの者ですよね?」
男はそう言った。
「……そうよ」
ついにバレたか。そりゃ、本名を名乗っていた時点でその可能性はあった訳だけど、まさかわざわざ調べるとはね。
「じゃあ、何でそんな王家の者がこんな場所に居るんですか?」
男のその問いに、私は一瞬唖然とした。
……なるほど、カルンスタインが王家の姓であることを知っただけで、あのことはまだ知らないか。だったら丁度良いし、いっそ全部喋ってしまおう。どうせ、いつかは知ることなのだから。
私は口を開く。
「王家の者は死んだのよ。私以外全員」
男は目を見開く。
「……え?」
「私が殺したの。邪魔だったから」
まるで鳥籠の様な場所だった。陰気臭くて、辛気臭くて堪らなかった。
「頑固で堅物で、それでいて獣みたいな連中しか居なかったんだもの。ムカつくったらなかったわ」
だから私はその籠を壊した。全てを捨て、自由を手に入れた。
「…………何で」
男が小さな声を漏らす。
「何で、そんな……」
「『何で』? さあ、どうしてかしらね? あんたには解りっこないし、解る必要の無いことよ」
少なくとも『人間』という種である以上、私達異形の者の想いなど解るはずがない。
「でも……」
「でも、なに? それが私の望んだことだったのよ。結果、私はここにいる。ここには私の望んでいた物がある。あんただってその一つ」
私は男の首筋に顔を近付け、そのまま軽く噛み付いた。私の好みの血の味。甘美で、いつまでもそのままでいたくなる心地になる。
だけど、何故か今は冷たい味がした。
私は顔を離し、そのまま男に背を向ける。
「……今日は帰って。これ以上、話す気分にはなれないわ」
「…………」
しばらくして、離れていく足音と、部屋の扉が閉まる音が響いた。男は帰ったようだ。
「一体どうしたんですかあ、ミラーカさん? いつもと調子が違いますよお? 顔色もわるそうですし……」
今まで黙っていた保健室の主が尋ねてきた。
「何でもないわよ、チユ。ただ、ここに来る前のこと思い出して、ちょっとムカついてるだけ」
「桐谷くんのことは良いんですかあ? あのままで……」
「……良いのよ。明日までにはいつもと同じ調子にしておくから」
一体何だ。
私の望んでいるものは何なんだ。
その答えは、まだ見つかりそうもない。