【第百話】とある過去の約束事
刻は永禄三年。
一人の男が山の中を歩いていると、ふと一つの石に目が止まった。
大きく、それでいて奇妙な石だ。その石の周りは広く草木が枯れ、そこだけが荒地となっているかのようだ。鳥や虫達すら、その石には近付こうとはしない。
男は一人、その石に近付いた。
《何奴だい、このワタシに近付く愚か者は?》
石が男に問い掛けた。
「………生きとし生ける者を呪い殺す石―――那須野の殺生石の欠片か」
殺生石。那須野で滅んだと云う三国伝来白面金毛九尾の狐の成れの果て。
《君も呪い殺されたいのかい?》
「………小生には神の御加護が付いている。………呪力に屈する事は無い」
《はっはっはっ、君は面白い男だ》
石の笑い声が響く。
「………白面金毛九尾の片割れよ、そこから出たいか?」
《出れるに越したことはないねぇ。だが、後悔しても知らんぞ?》
「………何故」
《坊さんが割ったくらいで石の妖力は留まることを知らない。事実、四国からは犬神が、上野国からは尾裂狐が生まれている》
男は黙って石の話を聞き続ける。
《ワタシは本体の妖力を色濃く受け継いでいる。ワタシが解放されれば、世は忽ち混沌に陥る。人里がこの荒地のようになるぞ》
男はもう一度、周りを見た。
四間ばかりに広がる不毛の地。毒々しい瘴気が立ち込め、全てを拒絶せんとする空間。
「………ならば尚更だ」
《は?》
石は頓狂な声を発した。
「………自然の権化である『妖怪』が自然を呪う姿など、哀れで目も当てられぬ。………主もこの光景を望んではいまい」
男は石に手を触れる。
「………直ぐに出そう」
その言葉と共に、妖力が石に集まっていき、徐々にその容を変えていく。同時に、強大な重圧が辺りを包むが、男が動じることは無い。
《……つくづく君は面白い男だ》
巨大だが、しなやかな体躯。白く美しい毛が生えた顔と、金色の体毛。真っ直ぐとした毛並みに覆われた九本の尾。
男は初めて、九尾の狐というものを見た。
《しかし、自らの目で現世を見るのは初めてだねぇ。ワタシという存在が生まれてから二百年近く経つが》
周りを見渡した後、狐はちらと男を見る。
《君は、ワタシを恐れないのか? ワタシは人を食らう物の怪だぞ?》
「………小生は恐れることは無い。………あるのは神への『畏れ』の念のみ」
《はっはっはっ、時代も変わったものだ。天への敬いがここまで広がるとは》
「………それに、主のような人を食らう『妖怪』以上に、恐ろしい『存在』は居る」
《ほぅ、何奴だい?》
男は重々しい顔で口を開く。
「………人を堕とす『悪魔』だ」
男は続ける。
「………彼奴等はここ十年で、日本での勢力を着実に伸ばしている。………天の者は動き始めているが、国の者は何をすることも無くただ怯えているのみ」
徐々に、男は声を大にする。
「………小生は幾度と無く彼奴等の非道を見てきた。罪も無い人々を襲い、拐かし、『悪』へ引き摺り込み、時に殺める。何の躊躇いも無く、ただその顔に笑みを浮かべて」
男のその姿は、何かを堪えているかのようだった。
「誰かが動かねばならぬのだ。だが、誰も立ち上がろうともせぬ。このままでは、国が彼奴等の手に堕ちる時もそう遠くは―――」
《ならば君が動けば良いだろう?》
狐は至極当然と言わんばかりの口調で言い放った。
男は目を見開く。
《救いたいのだろう? その『悪魔』とやらの魔の手から人間達を》
「…………」
《ならば君が、先陣を切る『勇気』有る者と成れば良い》
「………『勇気』」
《そうさ》
狐は間を置く。
《君が、全てを救う『勇者』と成るのさ》
男は静かに頷いた。
「………主も面白い獣だ」
《はっはっはっ、そいつはどうも》
狐は笑った。
「………小生はそろそろこの山を下る。………主はどうする。………人里に下りるのか?」
男の問いに、狐は考え込む素振りを見せる。
《……いや、止しておこう。人間を襲えば、君に殺されそうだ》
「………主は心優しき獣だ。………人間に手を出すことも無かろう」
《ワタシを信用しようと言うのか?》
「無論」
男は即答した。
「………しかし、ただ一つ約束事がある」
《何だい?》
「………人里に下りる時は、人の容をとることだ」
《はっはっはっ、そんなことか》
そう言い、狐は体を妖力で包むと、人間の姿へと変容する。
まるで一つの宝石のような白い肌。腰まで届きそうな金色に輝く長い髪。整った顔から覗く目尻の上がった黄色い眼が、男の方を向く。
「これで問題は無いだろう?」
美しい女の姿をした狐は、誇らしげに笑みを浮かべる。
「………今少し、日本の者に似せる事は出来ぬのか」
「異国の者が宣教に来るこの御時世だ。そう問題はあるまい」
「…………」
男は些か困惑した表情になった。
「君はワタシを信用してくれた。ならば、ワタシも君を信用しよう」
女が何やら目を瞑り、再び目を開けると、女から発せられていた重圧が忽然と縮小した。
「………何を」
「ワタシの妖力の大半を封じた。これでワタシは本来の四分も力を出せやしない」
男は目を丸くした。
「次にこの封印を解く時は、ワタシが大切な物を本気で護る時だ。その時が来るまでは、今のワタシですら解けない程に厳封しておこう。どうだ、信用できるだろう?」
女は男に微笑みかける。
「……石から出してくれた事、礼を言うよ」
男もほんの少し笑みを浮かべる。
「………こちらこそ色々と恩に着る、名も無き九尾の妖狐よ。………では」
男はその山を後にした。
女は一人頭を抱えていた。
「名も無き九尾の妖狐、か………ワタシも何か名を考えた方が良いか」
そして、何か閃いたかのように手を打った。
悠木 柘榴、山中 妖狐と名乗る者共が出てきたのは、それからのことであった。