異世界転生 四 ~ キマイラの悪辣
その後、エミリアは二十日間に渡ってカスパールの指導を受けた。
ヨハネス二十世の教書には、転生の神学的解釈が長々と語られていた。要約すると、異世界の恵みである徴を手に入れることは神の御心に適うことである。しかし同時に、異世界に転生させた魂は二度とこの世界に戻ってこない。魂の救済が不可能になるということは、計り知れない犠牲である。
つまり、転生とは神の与え給うた試練なのだ。だからこそ転生は秘密裏に、どんな手段を使っても遂行されるべきだということだった。この教書は極秘とされ、以降の教皇は教書の内容を読まずに承認することが慣習化された。
結局、教書は転生の正当性を示す根拠として引用されているだけで、詳しい儀式の内容を記していなかった。そこで、儀式の予行演習はカスパールの工房の地下室で、人型の魔物を相手に実践することになった。
「転生官は、儀式において転生者候補の魂を解放する準備を行う。転生者候補にこの世界での『生』を諦めさせつつ、同時に異世界での新たな『生』を希求させなければならない。そのためにまず生体を損壊する」
カスパールは解剖台に縛り付けられた人魚を見下ろしながら呟いた。鎮静魔法と鎮痛剤によって、人魚は今のところ穏やかな表情を浮かべている。しかし、意識と痛覚が回復すれば、いつ暴れ出すか分からなかった。
「どうしぇ……貴方はこんなこぉ……ぅるの?」
人魚はエミリアを見つめて、不明瞭な言葉で尋ねた。エミリアは人魚の言葉を無視して、覚えてきた聖句を唱えた。
「すべての慰めの源である主よ……」
既に人魚の下肢はボロボロだった。出血を減らすために時間をかけて一枚ずつウロコを剥がし、そこに食屍鬼から採取した腐敗液を塗布してきたのだ。腐敗した筋組織を割くと、乱切刀に糸を引いた粘液がこびり付いた。
「どぅして……」
吐き気がする。頭痛がする。目眩がする。エミリアは必死で意識を保とうとした。
「今、人生の旅路が終わり……死の暗闇が命の……命の……」
「黎明」
カスパールが静かに聖句を継いだ。
「命の……れ、黎明に変わります」
「ああぁ……痛……ぃたい、触らなぃで……い、たぃぃ……」
鎮痛剤が切れたようだった。エミリアが唱えた鎮静魔法も、やがて効果を失うに違いない。エミリアは傷口を小さな火炎魔法で焼いた。見る見るうちに肉が焼けて収縮し、代わりに傷口の断面に骨が現れた。白かった骨もすぐに焦げて黒ずんでいく。
「主は死者を……て、転生させる時、この惨めな姿を……主と同じく栄光に満ちた姿へと、変え――」
「やめ、やめろぉ! ぎゃああああッ!!」
「ひっ!」
人魚が狂ったように悲鳴を上げて暴れ出し、エミリアは思わず後ずさりした。変色した体液が飛び散り、腐った魚の臭気がエミリアとカスパールを襲った。エミリアは急いで鎮痛剤を手に取り、人魚の口元へと持っていこうとした。しかし、カスパールがそれを遮った。
「まずは鎮静から。それから鎮痛と言ったはずだ。慣れるまで聖句を絶やすな」
「……は、はい」
エミリアはよろめきながら、鎮静魔法を唱えようと集中した。相手は人ではない。魔物だ。魂を持っていない。人に似ているが、人ではない。魔物に過ぎない。人ではない。人ではない。人では――
強まる腐臭から逃れるようにエミリアの意識は遠のいていった。最初の晩の予行演習は、そこで終わった。
***
転生の儀式の手順は完璧に体系化されていた。臨終の儀式と同じように司祭が祈りを捧げたり、転生者候補に晩餐を供したり、最初は命の尊厳を保つ措置が講じられている。しかし、儀式を行う霊廟に転生官と助手そして転生者候補だけが残され、周囲に魔法結界が張られると、儀式の終わりまで外に出ることはできない。そこからが儀式の本番だった。
儀式の第一段階は拷問だった。時に敏感に。時に鈍感に。あらゆる方法を組み合わせて、より効果的に転生者候補の生体を痛めつけることが求められた。
エミリアも予行演習を通して、五日目の夜には拷問に慣れてきた。自分でも驚くほどの器用さで、白狐の獣人から耳を削ぎ落とした時、エミリアはカスパールから賛美を受けた。だが、次の段階には苦慮せざるを得なかった。
儀式の第二段階は激励だった。異世界へ魂を送ることは言葉の修辞ではなく、真の意味で起こる現象だった。だから、転生者候補を悪戯に痛ぶって、死を望ませることは好ましくなかった。あくまでも転生――異世界における次なる『生』に執着させなければならない。
「でも一体、どうやって本当に異世界へ転生したと分かったんですか?」
エミリアはカスパールに疑問を投げかけた。異世界に送られた魂は、この世界に戻ってこられない。だから魂を救済できなくなると、ヨハネス二十世の教書には書かれていたはずだ。
「かつて異世界に送られた転生者の記した本が、別の儀式で徴となって発見された。異世界からこの世界に、本だけが返ってきた。動かざる証拠というわけだ」
「そんなことが……」
「転生評議会ではエイボンの書と呼んでいる。異世界の言語の翻訳書として参考にされていたが、今では禁書として保管されていて、目を通せるのは一部の学者だけだ」
カスパールは水銀を薄めて昇汞水を作りながら答えた。多くの薬品が消毒や鎮痛に使われたが、大半は気休めに過ぎなかった。転生を成功させるには、言葉によって転生者候補を鼓舞しなければならない。巧みな言葉は薬品や魔法の効果すらも上回る。カスパールはエミリアに何度もそう伝えた。
「異端審問官が口にする『自白すれば無罪にする』といった、腐った欺瞞は捨てなければならない。転生官の言葉には慈悲と希望が求められる。生死の境界はあまりにも際どく、転生者の魂を異世界へと導くには他者からの激励が最も重要だ」
一見して矛盾した要求だった。自分を痛めつける人間を受け入れて、激励に反応する者などいるのだろうか。だが、疑問はすぐに氷解した。エミリアは自分の夫を転生させるのだ。愛で結ばれた者同士だからこそ、残酷な儀式を遂行できる。それは狂気に満ちた儀式の中で唯一、理に適う方法だった。
「俺はおしまいだ……もう赦してくれ……」
十日目の夜。解剖台の上で、中年のエルフは涙を流して赦しを乞いた。中年と言っても、長命なエルフは容姿端麗な青年に見える。エミリアはエルフと会話したことがなかった。彼らはプライドが高く、身持ちを崩しても人間の下働きなど選ばない。エミリアのような一般市民にとって、エルフは気高い貴族か同族に仕える森番のどちらかだった。
そのエルフが赦しを乞いている。エルフは魔物か、あるいは人に属する種族か。世俗の議論ではエルフは亜人だった。しかし、転生できないという結果から、転生評議会はエルフを魔物と見なしていた。
「すべての死者は主の御心に留められるでしょう」
「赦してくれ……俺は確かに人を殺した……だが、事故だったんだ……」
エミリアはどう答えるべきか戸惑いを隠せなかった。木槌とノミを握る手が震える。
「大天使ガブリエル、そして我らの聖人、聖イシドールスの取り次ぎにより、貴方は罪の束縛から解放されます」
エミリアは意を決してエルフの右手の小指にノミを突き立て、勢いよく木槌を振った。指は綺麗な弧を描いて飛び、冷たい床の上に落ちた。エルフは一瞬、歯を食いしばって目を見開いたが、それでも喋り続けた。
「馬車の死角に人間の子供がいた……だけど、俺だって……こんなことになるなんて……」
「……」
「今更、悔いても遅すぎることは分かってる……だけど、どうか……赦しを……」
「すべての罪は……赦されます」
「どうか赦しを!」
罪の告白は片足を切り落としても続いた。エミリアの頼りない励ましは、エルフの叫びの前では無力だった。焼いた傷口に楔を打ち付け始めたところでエルフは結局、死を望み、その通りになった。
***
儀式の第三段階は奇跡の到来だった。奇跡は転生が成功した時、霊廟の中で必ず起こる。カスパールはそれを『妻が作った焼き菓子のような甘美な味』と表現した。しかし、転生官によって奇跡はそれぞれ異なるという。人によっては麝香の匂いが漂ってきたり、間近で雷鳴が轟いたりすることもある。実際に転生が成功すれば、自ずから理解できるというのがカスパールの教えだった。
エミリアが奇跡について理解したのは二十日目の晩だった。
エミリアはカスパールとともに白亜の霊廟を訪れた。大理石の祭壇の上には、夫だった生き物が拘束された状態で蠢いていた。その姿は最早、錬金術師の失敗作としか言いようがなかった。
司祭も給仕係も出番は無かった。転生の儀式の準備は既に整えられていた。
「始めよう」
カスパールが鎮静魔法を唱え始めると、祭壇から鉄を擦り合わせるような不気味な声が響いてきた。
『コレで終ワリか? 道化共め。ア、ア、黙レ黙レ!』
「家族は渡さない……私の家族を……エミ……」
夫と蠕虫の口が同時に言葉を発した。異なる声が混ざり合い、内容はよく聞き取れない。しかし、エミリアはそれらの声から、明らかな敵意と人間の確かな意志を感じ取った。そして、それまでエミリアの中で抑えられてきた何かが弾けた。
怒りと悲しみが濁流となって押し寄せる。エミリアは声にならない叫びを上げ、無意識のうちにノコギリを手にしていた。カスパールは詠唱を中断し、エミリアの腕を掴んだ。エミリアはカスパールの手を振り解こうとして暴れた。ノコギリの刃がカスパールの祭服の袖を割いた。
「落ち着くんだ」
「離して!」
「感情に振り回されるな。君は何のためにここまで修練を積んだのか。思い出すんだ」
「"あれ"を殺す! 二度と口が利けないように!」
「"あれ"は君の夫だ! 今まで解体してきた魔物ではない! 目を曇らせるな!」
「――ッ!」
カスパールが怒鳴ることは初めてだった。夫だった生き物はエミリアの前で、毒々しい粘液を垂れ流しながら鼓動している。しかし、たとえ姿が変わっても、その魂は愛する夫のものに違いない。落ち着きを取り戻したエミリアは、カスパールとともに祭壇の前へと踏み出した。
『我は知ッテいる。柔ラカな赤子の味ワイ――』
蠕虫が言い終える前に、カスパールの手元から楔が発射された。楔は円周状に並んだ歯を砕き、悪魔の囁きを遮った。
「戦場では不意打ちは有効な戦術だった。"儀式"も同じだ」