異世界転生 三 ~ ホムンクルスの憐憫
目を覚ました時、エミリアは柔らかいベッドの上にいた。頭全体を覆う疼痛を我慢し、起き上がって部屋を見回すと、窓の外に針葉樹の森と湖が見えた。どうやらカスパールの工房にいるようだった。
「おはよう」
禿頭に朝日を浴びて輝かせながら、カスパールが食事の盆を持った召使いを伴って部屋に入ってきた。
「わ、私の夫は……! 子供はどうなったんですか?」
「慌てるな。順に説明する」
カスパールは柑橘類の果汁が注がれた杯をエミリアに渡し、椅子に座らせた。
「一昨日の事実から話そう。君の子供の一人は夫に喰われ、それを見た君は卒倒した。私はすぐに君の夫を無力化して無傷で拘束した。そして、君と夫ともう一人の子供を、ここまで運んできた。つまり、君は昨日ずっと寝込んでいたというわけだ。その間に君の家は私の助手が浄化した。今のところは安全だ」
カスパールの淡々とした説明によって自宅での惨状が蘇り、エミリアは吐き気を催した。受け入れ難い事実を突き付けられ、胸を圧し潰すような負の感情の波がエミリアの思考をカスパールへの敵意へと変えた。
「あんな絵を描いて……貴方は知っていたんですか! 私の生活を! 夫の病を! あの日も私を尾けてきて助ける振りをして、こんな悪趣味なことを――」
「君は混乱している。私はあくまで霊感を受けているだけに過ぎない。それが仕事の第一段階……転生者候補を探す手段なのだ」
「転生者候補?」
「改めて自己紹介しよう。私は教皇陛下に叙任され、この大司教区を担当する転生官カスパール。生者の魂を異世界へと送り出す『転生』の儀式を執り仕切り、転生者が遺す徴を見出すべく叙任された聖職者の一人だ」
「……その転生官が一体どうして、こんな事をしているんですか?」
エミリアは怒りに燃える瞳でカスパールを睨みつけた。カスパールは一切動じる様子を見せず、エミリアと視線と合わせたまま、懐から一冊の本を取り出した。表紙には『転生の儀式による魂の解放』と書かれている。
「転生官の使命は、異端審問官の対極に位置する。異端者の魂を支配し、この世界に束縛して、死後も終わりなき責め苦を与えるという拷問。それとは逆に……転生者の魂と共鳴し、その魂をこの世界から解放して、死後に異世界へと送る儀式。形式的には、転生の儀式を遂行した証として、遺された徴を教皇に献上することが転生官の仕事だ」
カスパールは本を開き、かつての教皇ヨハネス二十世が発布したという教書から引用した部分を示した。『肉体は少しの物で足りるが、魂はより多くの物を必要とする。』
「転生官が転生者候補を発見する手法は体系化されていない。私の場合、作品と来客の反応に頼っている。つまり、妄想と言ったのは、芸術によって魂の共鳴が発見できるという手法についてだ」
エミリアは転生の話も教皇ヨハネス二十世の名前も聞いたことが無かった。人間の魂は死後も霊体となって留まるか、人工生命体のような容れ物に移されるのが世の常だった。話を聞けば聞くほど、エミリアは疑問の沼に沈んでいった。しかし、カスパールが嘘を吐いているようには思えなかった。
「その話が本当なら、私は転生者候補ということですか?」
「言ったはずだ。重要なのはテーマを生み出す霊感だと。つまり、私が発見した転生者候補とは、君の夫のほうだ。……そして、彼の転生には君の力が必要だ、エミリア。君がその手で夫の魂をこの世界から解放し、異世界へと転生させるのだ」
「どうして……?」
「君の魂こそが、彼の魂と共鳴しているからだ。君の協力があって初めて、彼を転生させることができる」
カスパールは両手で、エミリアの震える手を包み込むように握った。その手は大きく頼り甲斐があり、しかし繊細で、暖かみを備えた聖職者の手だった。カスパールの手の暖かみでエミリアは緊張を失った。その代わりに涙がエミリアの頬をつたった。
「でも……何でこんなことに……私が留守にしなかったら……こんな……」
自分が不在の間に我が子は夫に食い殺された。そして何故か、出会ったばかりの紳士から、夫の魂を解放するように命じられている。魂の解放なんて、教会の教えには無い。既に起きたことを受け止めることすら難しい心理状態の中で、エミリアは自分の感情を吐き出すしかなかった。
「自分を責めるな。君の夫の病は先天性の合成獣症候群だ。生きている限り異形への変成は止まらず、治す手立ては無い。死霊術師お得意の契約魔法を使い、彼の魂を容れ物に束縛しても、頭部の蠕虫によって意識障害が残る可能性も高い。ならば、彼の魂を異世界に送り、新たな生を授けてやることがせめてもの慰めとなるだろう」
「慰め……」
「君にはまだ少し休養が必要のようだ。落ち着いたら、上の子供にも会わせよう。転生の話はそれからでよかろう」
カスパールは『転生の儀式による魂の解放』を置いて、部屋から去っていった。白面の召使いも食卓を整え終わると、身につけた金銀の鎖をジャラジャラと揺らしながら、主人の後についていった。
しばらくしてから、エミリアはベッドに座り込んだ。食欲は無かった。杯に注がれた果実の絞り汁を少しだけ啜って喉の乾きを癒やすと、エミリアは再び横になった。しかし、恐怖が彼女の心を繰り返し鞭打ち、閉じた瞼の中に広がる闇は悪夢を蘇らせるだけだった。
どうしてこんなことになったのか。夫はどうなるのか。死んだ下の子供は。生き残った上の子供は。考えれば考えるだけ不安になる。いっその事、自分も子供の後を追って死んでしまいたい……。
無為な時間が流れた。
エミリアはベッドから上半身を起こし、『転生の儀式による魂の解放』を手に取った。何が合成獣症候群だ。何が魂の解放だ。転生? 今までどんな聖職者もそんな事は教えてこなかった。そんなことはできるはずがない。そんな戯言が慰めになるものか。
「……ッ」
エミリアは壁に向かって思い切り本を放り投げた。鈍い音とともに本は壁に傷を残し、床に落ちた。その衝撃で、ページの隙間から薔薇の押し花が顔を覗かせた。それはエミリアを助けた時にカスパールが拾った薔薇だった。彼は薔薇を押し花にして、栞として本に挟み込んでおいたようだった。
エミリアは薔薇の押し花に気付いて、再び本を手に取った。背表紙が少し凹んでしまったが、丁寧に装丁された本にはシミ一つ無く、保管状態の良さを感じさせた。エミリアは押し花が挟まれたページを開いた。
「……!」
そのページの挿絵には、手にした乱切刀で転生者候補の肉体を切り開きながら、聖句を唱える転生官の姿が描かれていた。こんな残酷な拷問を儀式と呼ぶものか。転生官の使命が異端審問官の対極に位置するというカスパールの言葉は偽りだ。エミリアは顔をしかめて本を閉じた。
その時、部屋の外から子供の泣き声が聞こえてきた。エミリアは不安に駆られてすぐに部屋を飛び出した。廊下を見回すと、先ほどの白面の召使いがエミリアの子供を抱えていた。
「ボッチャン……ボッチャン……」
耳障りな音とともに金銀の鎖を揺らしながら、召使いが子供を揺すった。あやしているつもりのようだが、その光景はエミリアにとって悪夢の延長でしかなかった。
「返して!」
エミリアは反射的に叫んだ。そして、召使いから引ったくるように我が子を取り戻すと、部屋の中に駆け込んだ。
「オクサン……オクサン……」
召使いの機械的な声が物悲しげにエミリアを呼んでいたが、その声は子供の泣き声でかき消された。エミリアは子供を抱えてベッドに潜り込むと、なんとかこれまでと同じように子供をあやそうとした。しかし、母親の不安を察したのか、子供の泣き声は激しくなるばかりだった。
やがて、カスパールが召使いを伴って部屋に舞い戻ってきた。
「どうか気を悪くしないでほしい。彼女は子供が好きなんだ。かつて孤児院で働いていた時の名残だろう」
「……」
エミリアは答える気になれなかった。だが同時に、カスパールの声音から初めて人間らしい感情を感じた。エミリアは子供が泣き止んだ頃合いで起き上がった。改めて見ると、召使いの挙動にはどこか女性らしさがあった。
カスパールは『転生の儀式による魂の解放』を手に取り、薔薇の押し花が挟まれたページを開いた。
「そろそろ本題に移ってもよいかね?」
「その本に書いてある残酷な儀式のことなら、私は協力したくありません」
「断るという選択肢は残っていない。先ほど、教皇庁の転生評議会から指令が下された。結論から言うと、君たち家族の安全は転生の儀式の成否次第だ」
カスパールは本をめくり直し、最初のほうのページを開いた。
「転生の儀式は、教皇庁直属の転生評議会によって管理されている。その秘密を知る者はわずかしかいない。この書物も、転生官の名前も、転生評議会の存在も極秘だ。君も秘密を知った以上、最期まで秘密を守ってもらわねばならない。そうでなければエミリア、ここで君の家族の人生は終わる」
「人の家族を人質にして、恥ずかしくないのですか?」
「私としても不本意だが、転生評議会は秘密保持のためなら躊躇いなく刺客も使う。私も命が懸かっている。君が態度を変えないのであれば、力づくでも席に座らせなければならない」
カスパールの紅い瞳から発せられる視線が鋭さを増した。彼の魔法と実力なら、女一人くらい簡単に屈服させることができるだろう。それでも、エミリアは答えなかった。カスパールはエミリアの様子を見て、作業部屋の時と同じように感嘆の声を上げた。
「君を見ていると、自分の若い頃を思い出す。私が軍医として戦場にいた時、ある噂が流れた。優秀な外科医は教皇庁に連行され、秘密の儀式を手伝わされると。私は半信半疑だったが、戦後間もなく妻とともに転生官の屋敷に招かれ、すべてを知った。その時、私は生半可な決断をした。若さ故の過ちというものだ」
カスパールは本を置いて召使いに視線を移した。その目には寂しさが漂っていた。
「何をしたんですか……?」
「妻を転生させることになった。私自身も助手として儀式に立ち会った。しかし、儀式は失敗した。彼女の魂は半分に砕かれ、その人格は二度と取り戻せなくなった。私はその場で転生官を半殺しにして、奴の号を継いだ。以来、私は『カスパール』という第二の人生を歩んでいる」
「ごめんなさい。聞くべきではないことを……」
「同情は不要だ。それに、互いの情報を知らなければフェアではないだろう。私も君の気持ちは多少なりとも理解できる。私のように後悔しながら生きるよりも、死を選ぶほうが救いになるかも知れない」
「それは……」
「では、どうする?」
エミリアは最早、後戻りできないことを悟った。胸に抱く子供の命も、病に蝕まれた夫の魂も、自分の決断にかかっている。それらを全て捨てて逃げ去るか、あるいは――
「私も……手伝います」
エミリアはやっとの思いで言葉を絞り出した。