異世界転生 二 ~ カスパールの霊感
エミリアは周囲の澱んだ空気が、奇妙な冷気へと変わったのを感じた。紳士は手にしていた杖を地面に突いて、男たちを一瞥した。
「どうしたのかね?」
「てめえには関係ない。さっさと失せろ」
下品な男の声は、エミリアを弄んでいた時とは明らかに異なるトーンを奏でていた。
「緊張することは無い。いや、畏れているというべきかな。しかし、私はただ君たちに訊ねただけだろう。その女性に何をしているのか、と」
紳士の声は余裕に満ち、危険を感じさせない自然なものだった。よほどの自信があるのか、それとも虚仮脅しなのか。エミリアには判断できなかったが、いずれにしても、紳士が持つ雰囲気には嫌悪感を抱かざるを得ない何かがあった。
「ふざけやがって! 後悔させてやる!」
大柄な男が影に向かって飛び掛かった。その手には短刀が握られている。紳士は大柄な男の突進を素早くかわすと、すれ違いざまに足を引っかけた。勢い余って大柄の男は無様に石畳の上に倒れた。紳士が外套をひるがえし、すぐさま男の上に覆い被さるように屈んだかと思うと、次の瞬間には男の背に杖が突き立てられていた。
大柄の男は断末魔すら上げる前に倒されていた。何が起きているのか、男の仲間は理解できていなかったようだった。
「実に申し訳ない。手が滑ってしまったようだ」
そう小さく呟きながら、紳士が仕込み杖を引き抜いた。男の背から血飛沫が溢れ、一瞬、男の身体が痙攣する。その様子を見て、太った男が悲鳴を上げながら路地の反対側へと走り出した。紳士は懐から金属製の楔を取り出すと、手元で圧縮した魔力を楔に向けて解放した。後方から魔力を受けた楔は、勢いよく紳士の手元から飛び出していく。
高速で射出された楔は、追い立てられた豚のように走る男の膝を正確に撃ち抜いた。男が路上を転がると、その跡に血と骨片が飛び散った。
「があああ!」
太った男は狂った豚のように呻き続けた。その間、男は自分の血で両手を濡らしながら、千切れかけた足を大腿骨と繋げようと無駄な努力を繰り返していた。医療知識のないエミリアの目から見ても、男は出血多量で、このままでは助かる見込みが無いように思えた。
最後に残った、エミリアの首を抑えていた男は錯乱状態に陥っているようだった。エミリアから手を離し、紳士から少しでも距離を取ろうと後ずさりしていく。
「あ……あぁ……」
「怯えることはない。直に死霊術師たちがやってくる。屍体はすぐに解体され、何事もなかったように死後の生活を始められる。今の腐り切った生活よりも、少しは役立つ存在として世界に残れるのだよ」
紳士は自然と同化しているかのように、音もなく男との距離を詰めていた。虚を突かれた男は、石畳に尻餅をついて泣き喚き始めた。
「頼む……い、命だけは……殺さな――」
言い終える前に男の首に切れ込みが走り、その言葉は掠れた笛のような音に変じて、風とともに消えた。紳士は仕込み杖を濡らした悪漢共の血をシルクで拭き取り、三角帽の角度を直すとエミリアを見据えた。
エミリアは声が出せなかった。身動ぎ一つできず、紳士による一方的な殺戮を眺めているしかなかったエミリアにとって、ようやく肺に空気が戻ってきたのは紳士の問いがきっかけだった。
「大丈夫かね?」
「……え?……は、はい……ありがとうございました」
紳士は路上に散らばった花を見て、その中から一輪の薔薇を手に取った。
「君の商売を台無しにしてしまったようだ」
「そんなこと……助けていただいたのは私です」
そう言いながらも、エミリアは紳士の真意を図りかねていた。たかが花売りを助けるために、三人も人を殺める必要があったのか。それとも別に目的があるのか。
「あいにく、今は金の手持ちが無いものでね。まず、私の工房まで案内しよう。ここに長居していても、しばらく豚の鳴き声を聞き続けることになるだろう。工房に着いたら支払いをさせてほしい。構わないかね?」
紳士は薔薇を三角帽に差し込むと、エミリアに手を差し伸べた。エミリアは少し逡巡したものの、紳士を信じることにした。このまま立ち尽くしていても花は駄目になってしまったし、埒が開かない。ならば紳士との出会いに身を任せて、他の解決策を探ったほうが賢明に思えた。
「えっと……私、エミリアと言います。貴方のお名前を伺っても?」
「カスパール」
「カスパール様……」
「ただカスパールと呼んでくれ。所詮、仕事上の名前に過ぎない」
カスパールとエミリアは路地を抜けると、待機していたカスパールの馬車に乗り込んだ。
エミリアはカスパールの馬車の中で、次第に不安を感じ始めた。馬車は窓に厚手のクロスのカーテンが掛けられており、外の様子を伺うことを許さなかった。人工生命体の御者が時折、歩行者に向かって機械的な声で道を開けるように罵声を上げるため、少なくとも人通りがある場所を走っていることだけは明らかだった。
しかし、その罵声もやがて絶え、馬車の揺れは未舗装の道に入り込んだことを伝えてきた。
「エミリア。君が見たいものは何かね」
向かいに座っていたカスパールが口を開いた。その口調は悪漢を倒した時と同じく紳士的で優しげなものだったが、女が本能的に警戒心を抱く何かを包含していた。
「見たいもの……?」
「私が君に対してできることは三つある。事が済んだら君を速やかに、かつ安全に自宅へ送り返すこと。美しい花の代金を支払うこと。もう一つは君が見たいと望むものに応えることだ。すべて納得の行くように準備したい」
カスパールの提案にエミリアは迷った。カスパールの端的な言葉は、生活に困窮する中で自分の望みを見失いつつあることをエミリアに強く自覚させた。それでも、カスパールを信じきって良いのか、エミリアの中には疑惑が渦巻いていた。
「貴方は芸術家なのですか? つまり、自分の工房で、私に見せたいものがある……。でも、私は助けていただいただけで十分で……そんなに親切な扱いを受けるべきなのか分かりません」
「それを決めるのは君次第だ」
カスパールの深紅の瞳がエミリアの蒼い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「花売りに慣れた女性であれば、突発的な性交渉に対しても金銭の授受を考える。そこが君は違った。私の見たところ、ふしだらな娼婦と違って、君は実に忍耐強く貞淑な女性のようだ。詮索するつもりはないが、尊敬に値する生き方だ。だからこそ、私は君が見たいと望むものを知りたい」
釈然としない会話の中で、エミリアは自分が見たいものについて考えた。
「家族……健康な家族の幸せ。子供がいて……満たされた女性」
「普遍的なテーマだ。家族の愛を前提とした幸福な生活。よかろう。部分的ではあるが、テーマに一致する未公開の作品が二つある」
カスパールが言い終わった時、馬車が静かに停車した。白面の御者が馬車の扉を開くと、針葉樹に囲まれた湖畔に佇む工房が目に入ってきた。
***
カスパールが三角帽を取ると、白髪のカツラも一緒に頭から外れた。下から現れた禿頭は見事に剃り上げられ、その後ろ姿は卵にも似ていた。カスパールは三角帽を人工生命体の召使いに手渡すと、エミリアを奥の部屋へと手招きした。カスパールの案内で工房を進むと、二人は吹き抜けのある作業部屋に辿り着いた。
作業部屋は小教会では及ばぬほどの広さがあった。透明感のある巨大なガラスが壁に嵌め込まれ、作業部屋全体に外光を余さず取り込んでいる。入り口から作業部屋全体を見渡すと、カスパールの作品が次々と目に入ってきた。それらは人間や生物をモチーフにした絵画や造形物で、口にするのも悍ましいものばかりだった。
潰れた両目から血を流し、口に巨大な眼球を咥えた書記官が大司教の賃借対照表をその眼球で必死に確かめている絵画。下半身が蠍と同化した女が、尾の毒針で嬰児を殺めている石膏像。磔刑にされた修道士の首が醜く肥大化し、その周囲で虫型の魔物に襲われる騎士や貴族が逃げ惑う絵画。鼠の魔物に指を噛み千切られて咽び泣く少女の木像。
エミリアは自分が地獄の門を開いてしまったのかと錯覚した。しかし、それらは例外なく技巧を尽くした作品であり、生々しい表現の基礎に職人たる芸術家の信念が漲っていた。
「先に断っておくが、私は注文を受けているわけではない。重要なのはテーマを生み出す霊感であって、表現は単なる結果だ。これらは私の手によるものだが、それでも仕事の過程の一部に過ぎない。さあ、来たまえ」
カスパールは地獄の展覧会の深みへとエミリアを引き寄せていった。エミリアはこの中に自分が見たいものがあるとは、到底思えなかった。しかし、その考えとは逆に、足は自然とカスパールの後ろをついていく。
カスパールの足が一つのキャンパスの前で止まり、覆いを剥ぎ取った。そこには地面に幾何学形を描いて並べられた人骨の中央に立ち、片手で血に染まった長旗を、片手で死んだ赤子を抱く魔女が描かれていた。気難しい表情を浮かべる魔女の胸部は空洞で、その昏い洞から一輪の白薔薇がふくよかな花弁を覗かせていた。
エミリアは絵画の中にいる魔女の顔に見覚えがあった。
――私?
エミリアは思わずカスパールのほうを振り返った。しかし、既にカスパールは別のキャンパスの前へと移動していた。エミリアはカスパールを追った。そして、カスパールの前にあるキャンパスを見た瞬間、雷に撃たれたような衝撃と言い知れぬ胸騒ぎに襲われた。
その絵画は子供を喰らう人型の魔物を描いたものだった。食卓の上に座り込み、血走った眼で子供の頭を食い千切る魔物は興奮し、陰茎を雄々しく反り立たせている。その顔から人間らしい感情は読み取れなかった。魔物の足元には別の子供がすがりついており、食事を求めるように顔を歪めて泣いていた。
これは家族を描いたものだ。エミリアの直感が告げていた。
「ほう」
カスパールが感嘆の声を上げた。
「私が来客に未公開の作品を見せた時、殆どの来客は怒りを爆発させる。私を狂人だと罵る。時には作業部屋に入った途端に嫌悪感を露わにし、踵を返して帰る者すらいる。しかし、君は――」
エミリアの頬を熱いものがつたった。
「魂の共鳴を……これは私の妄想に過ぎないが、しかし、それを君は体現している」
カスパールの言葉を、エミリアは理解できなかった。ただただ、流れる涙を止めることも隠すこともせず、我が子を喰らう憐れな魔物を眺め続けた。
***
工房をカスパールとともに後にし、馬車で自宅へと戻った時にも、エミリアの脳裏には二つの絵画が焼き付いていた。花の代金と言うには破格の金額を受け取ったこともあり、経済的な悩みから暫し解放されていたせいかも知れない。
「……血の匂いがする」
扉に手を掛けたカスパールがその言葉を発するまで、エミリアは自宅で起きている変化に気付いていなかった。悪夢のような絵画と牢獄のような現実が流転し、エミリアの胸の中で合流し始めた。エミリアはカスパールの制止を振り切って食卓のある土間へと駆け出していた。
「貴方!」
そこでエミリアが見たものは、首から二つ目の頭――蠕虫の頭を生やし、円周に並んだ牙で年下の子供の頭を食う夫の姿だった。元々の夫の頭は蒼白で、意識を失ったように蠕虫の頭の動きに合わせて小刻みに揺れている。年上の子供は蛸の触手のように軟化した夫の足にすがり付き、顔を真っ赤にして大声で泣いていた。
「いやあああああ!」
エミリアは頭を抱えて絶叫した。だが、恐怖で一歩も動くことはできなかった。次第に悪寒が全身を支配し、エミリアの意識は悪夢と化した現実の前に途絶えた。