異世界転生 一 ~ エミリアの洗礼
デメテルは足に力を込め、首から大バサミを生やした助手の屍体を壁際に押しやった。彼女は日が昇る前に、霊廟の"後始末"を済ませることにした。別の助手は呼ばなかった。これ以上、屍体の後始末という手間が増えることを考慮すれば、仕方ないことだった。
デメテルは清掃も焼却も廃棄も次回の準備も、黙々と一人でこなした。汚物は浄化され、霊廟は神聖さを取り戻し、次の転生者を受け入れるに相応しい空間へと修復された。
霊廟の裏口を開け、デメテルは貴族が狩猟用に飼育している魔物小屋に最後のゴミを運んだ。待っていたとばかりに吠え立てる三頭犬たちに解体した助手の屍体を与えると、彼女はようやく安堵した。張り詰めていた心の糸が緩み、疲労が腹の底からこみ上げてくる。
デメテルは朝焼けに染まった霊廟に戻ると、切り分けられた子豚の肉を一切れだけ味見した。
「煙を見ました。ご苦労様です」
正門の扉を開けて、黒い祭服を纏った若い男が霊廟に入ってきた。儀式の完了を知らせるため、転生官は霊廟の暖炉に火を入れ、煙突から煙を立ち上らせるのが慣わしだった。転生評議会の利益を貪る枢機卿に使い走りをさせられている黒い祭服の司祭は、いつものように一人で霊廟を訪れた。彼は肉を頬張っているデメテルを見て一瞬ぎょっとしたように目を見開いたが、すぐに真顔に戻った。
「首尾は如何でしたか?」
転生官は無言で、聖布に包んだままの徴を司祭に手渡した。
「拝見いたします」
司祭は聖布を静かに広げ、指の断片とスマートフォンを確認した。司祭は指の断片を無視して、聖布越しにディスプレイを擦ったりボタンを押したりして、一通りスマートフォンを弄んだ。しかし、時間経過で既にロックが掛かっているスマートフォンは、彼の興味本位の操作を一切受け付けなかった。
「"また"この『モノリス』……あとは、爪の表面を着色した指先が二本ですか。前回も前々回も、これと似たようなものでしたね」
司祭は顔を上げてデメテルの表情を伺った。司祭から見て、彼女の瞳には疲労の色が浮かんでいたが、それでも司祭の話を聞くだけの集中力がまだ残っているようだった。
「学者が昼夜問わずに必死でモノリスを調べています。全体が特殊な素材でできているようです。これがどういう代物か、興味はありませんか?」
「パチェッリ殿はモノリスについて、ご存知なのですか?」
「いえ? しかし、判明した暁には貴方にも教えて差し上げようかと」
パチェッリと呼ばれた司祭は穏やかな笑みを浮かべ、指の断片とスマートフォンを聖布で包み直すと自分の鞄に素早く詰め込んだ。
デメテルは内心では本当に興味が無かった。これほど遺りやすい徴なのだから、異世界で普及した日用品に過ぎない可能性が高い。だとすれば他の転生官も見つけ出しているはずだ。如何に徴自体の価値が高くても、それが替えのきく量産品では、魂を捧げた転生者も浮かばれないだろう。
それに、自分の目的は娘と会うことだ。デメテルは釘を刺すようにパチェッリに尋ねた。
「約束のほうは? 30回目の儀式の成功を機に転生官を引退して、娘に会えるという話は?」
「枢機卿は少し気まぐれな方です。しかし、私が必ず説得いたします。ご安心ください。娘さんに会える日は近いですよ。貴方ほど優秀な転生官を手放すことは惜しいですが」
「そうですか」
「ところで、助手はどうなさいました?」
「先に帰りました」
「左様ですか。ま、仕方のないことですね」
パチェッリと転生官の間で、お決まりのように繰り返されてきた会話だった。パチェッリはデメテルの下で、正気のまま助手を卒業できた者を一人も知らなかった。
「馬車をお呼びしますか?」
「いえ。歩いて帰ろうかと」
「着替えは? まさか、そのままでお帰りに?」
パチェッリの言葉で、デメテルは自分の祭服が助手の血で赤く染まったままであることを思い出した。
「すぐに別の祭服をお持ちいたしましょう。それと、帰りは食堂に寄りませんか? 料理長が地元の大司教の叙任を記念して、新しいメニューを考案したそうですよ」
「ありがとうございます」
パチェッリは頭の回転が早く、そして気が利く好男子だった。しかし、若い司祭の誘いに対して、デメテルは自分の疲労に嘘をつける状態ではないことを自覚しつつあった。社交のためだけに慈悲深い態度を取り繕うのは骨が折れる。
「でも食事は今度にさせてください」
「左様ですか……。では、祭服をお持ちして参ります。お待ちになっていてください」
パチェッリは残念そうに肩を落とし、デメテルを残して霊廟から出ていった。
***
デメテルはパチェッリと別れ、霊廟に併設された礼拝堂で仮眠を取った後、帰り道にある墓地へ寄った。虚ろで寂しい小道を挟む平地には無数の墓石と墓標が林立しており、霊廟に通う者は寄らざるを得ないというのが正確な表現だった。
転生の秘密を隠蔽するため、教皇庁が所有する広大な荘園の最も外縁に建てられた白亜の霊廟は、歴代の転生官と無名の助手を弔う大量の墓地に埋もれていた。
深夜ともなれば狂気に染まった灰色の亡霊たちが墓地中を浮遊し、侵入者の好奇心を挫くように呪言を喚き散らす。通常の霊体など魔法障壁で容易く遮断できる取るに足らない存在だが、彼らは番人にも似て、儀式に伴う危険性を絶えず訴えかけるのだった。
デメテルは亡霊たちとすれ違いながら、墓標の林の中に分け入っていった。往時を偲ぶように、祈りの姿勢で跪く者、天を仰いで立ち尽くしたまま涙を流す者、生者から目を背けて墓石の裏に隠れようとする者。日中の亡霊たちは不活性な者ばかりが目立つ。
だが、彼らも生前には、決してこんな憐れな姿を望んで転生官を目指したわけではなかった。信仰のため、栄誉のため、探求のため……各々の動機は違えど、藁にもすがる思いで命を危険に晒してまで成功を掴もうとした野心は皆同じ。デメテルもまた、その一人だった。
***
デメテルは転生官の号を授かる前にはエミリアと呼ばれていた。一人前の鍛冶職人と結婚し、すぐに元気な子供をもうけ、近所でも知られる幸せな家庭を築いた。しかし、エミリアの最初の子供が一人で立ち上がり始めた頃、夫は根治なさざる難病に冒されていることが発覚した。
最初は楽観的に捉えていた若い夫婦も、急速に悪化していく病状を前に焦りを隠せなくなっていった。
夫の肉体は日毎に変化していった。時には二の腕からウニの棘のような異物が生え、時には臀部に虫の複眼のような腫瘍が現れ、時には口腔内に猛禽の爪先が隠れていたこともあった。名高い魔法医を何人も訪ねて治療を願ったが、彼らにも夫の病はお手上げだった。曰く「今の我々が持つ回復魔法の理論を超えている」と。
脚の骨が蛸の触手のように軟化し、肉体の自由を奪われた夫から鍛冶職人としての収入が無くなると、家計は火の車となった。二人目の子供が産まれた後、エミリアは子供を夫に任せて働きに出ることにした。しかし、二十歳にもならぬ女に任せられる仕事など、たかが知れていた。それでもエミリアはどんな仕事でもいいからと思いながら、昼も夜も必死で日銭を稼いだ。
「私のことは忘れて、他の相手と暮らしてくれ。そうしたほうが君にとっても、この子たちにとっても幸せだ」
慣れない仕事で疲弊していくエミリアの姿を見て、夫は自身の病魔が家族を破壊し尽くす前に、エミリアに対して離婚を提案した。このまま病が治らなければ、自らが犠牲になることでしか家族を守れないという苦悩が、夫の心を蝕みつつあった。
「貴方、そんなこと言わないで。家族が一緒にいることが幸せなの。分かっているでしょう?」
「すまない……。君を困らせるつもりはないんだ。だが、このまま続けるわけにもいかないだろう」
借金取りがあらゆるものを形として取っていった家には、最低限の家具と衣類、無価値な食器以外に何も残されていなかった。そんな苦境でもエミリアが健気に生活を営むことができたのは、偏に夫への愛が為せるものだった。
「私に任せておいて。大丈夫、心配要らないから」
ある日、エミリアは花売りに出かけた。少しでも金払いのいい貴族のいる地区を目指して、人通りのない路地裏を急ぎ足で歩いていた時、エミリアは三人の男たちに囲まれた。揃って人相が悪く、彼らが近寄ってくるとアルコール中毒特有の糖と内臓の腐ったような体臭が、すぐ鼻先まで漂ってきた。
エミリアは路地裏から引き返そうとしたが、男の一人がその腕を掴んだ。
「なあ、待てよ」
「や、やめてください……」
「いいじゃねえか。俺たちにも一輪、分けてくれよ」
下品な笑いを浮かべた男はエミリアの腕を路地の壁へと押し付け、汚れた手でエミリアの口元を抑えた。エミリアの持っていた小さなカゴが石畳の上に落ち、色とりどりの花を咲かせた。エミリアは声を上げようと必死に抵抗したが無駄だった。
背後に立っていた太った男がベルトに手を掛けて緩ませ始めるのを見て、エミリアは最悪の事態を予想した。人目につかない場所で、悪漢に囲まれた若い女が一体どうなるか。きっと金は奪われ、そして犯され、最後は命まで――
「女はよ、首を絞めると笛みたいな音を出すんだ。声を出そうったって、空気の抜けるような音しか出ねえ。俺はその音が好きで好きで堪らないんだ。試してみるか?」
男はへらへらと喋りながら、口元を抑えていた手をエミリアの細い首筋へと動かし、泥の詰まった爪が食い込むほど強く力を込めた。
「……!」
エミリアは苦悶の表情を浮かべ、必死に空気を求めて呼吸しようとした。しかし、男の言う通り、閉まりかけた気道からは笛のような弱々しい音が零れるだけだった。その音を聞いて男の仲間たちが笑い声を上げた。
「良いねえ。心地の良い響きだぜ。隣町の娼婦はちょっと絞め上げたら、すぐにイっちまったからな。若い女は楽しみ甲斐がある」
エミリアは視界がぼやけ、徐々に意識が遠のいていく感覚に襲われた。このまま悪漢たちに身体を蹂躙され、家への収入も、夫へ誓った愛も、何もかも奪われるに違いない。絶望が涙となって頬をつたった。
「何をしているのかね」
路地裏の闇の奥から、一つの影が浮かび上がった。男の手の力が一瞬緩み、エミリアはどうにか残された意識を集中して影に視線を移した。仕立ての良い外套に三角帽を被った影の紳士は、まるで先程からそこに存在したかのように、自然な足取りでエミリアたちの近くに立っていた。