異世界転生 序 ~ ヨハネスの霊廟
不意に蝋燭の灯火が揺れた。ベルベットを掛けた石壁に映った小さな影たちが、躊躇うように後ずさりする。
そこは窓の無い霊廟の中だった。吹き込むはずのない生温かい風を肌に感じて、女は小さな吐息を漏らした。女は血溜まりになった足元の木桶に視線を落とし、手にしていた縫合針をテーブルに置いた。まだ凝固していない血の水面が、微風に波打っている。
――『転生』は成功した。これで29人目。
たとえ微風でも、紛うことなき奇跡である。女は確信した。女が慈悲深く手にかけた転生者は、今この瞬間に己の運命を受け入れ、魂を手放したのだと。この世界の束縛から逃れた魂は異世界へと招かれ、新たな生を得るのだ。
これまで数多くの転生者たちの魂を異世界に送り出してきた大理石の祭壇は、皮と骨と血と体液に汚されてなお、峻厳たる佇まいを保っている。女は祭壇の傍らに立った。祭壇の上には皮を剥がれて内臓をむき出しにされた転生者が、屍体となって横たわっている。
女は片方だけ残った転生者の瞳を覗き込んだ。濁った瞳は乾き切っており、開いた瞳孔には女のやつれた顔だけが反射している。その顔は女自身が見ても、奇妙なほど興奮しているように思えた。女は、既に転生者の目から削がれてしまった瞼の代わりに、顔全体に薄絹を被せてやった。
女は微風の吹いてきた方角へと視線を移した。霊廟の隅では、女の助手が自分の反吐に塗れたまま倒れている。たとえ『転生』が崇高な儀式だとしても、それに耐えられる者は少ない。解剖術だけでなく精神的重責に耐える術を学び、心を鍛えてきた者でなければ、儀式の完遂まで正気を保ち続けるのは困難だった。
女は革手袋を外し、返り血が点々とこびり付いた祭服の袖をまくりあげた。助手の頬を叩き、声をかける。
「起きなさい。徴を探すのです」
転生の儀式が成功した暁には、必ず徴が遺される。機械、薬品、植物、鉱石、その他……それがどんな形であれ、異世界からもたらされる貴重品であることには変わりない。転生者の魂と引き換えに、徴を手に入れることが儀式の目的だった。
女の低い声に、助手は意識を取り戻した。助手は咳き込みながら立ち上がり、汚れた口元を拭った。
「かはっ……は、はい。デメテル殿」
助手の怯えた表情に、デメテルと呼ばれた女は忍び寄る死の影を感じ取った。彼女の下で、虚弱な助手たちが狂気に陥り、自ら命を絶つという結果は何度も繰り返されてきた。一握りの助手だけがデメテルと同じく転生官に叙任され、その後やはり狂気に陥る。狂気は転生官にとってありふれた職業病であり、つまり助手は転生官であるデメテルの鏡像だった。
助手は震えながら手近にあった鞄を探り始めた。転生官の仕事道具が収められた鞄から、ハサミ、ノコギリ、ロープなどの医療器具や拷問器具が手当たり次第に取り出され、助手の手によって確認されていく。
転生官が生体の損壊について破壊魔法を頼りにすることは殆ど無かった。彼らの魔法の大半は恐怖や錯乱を促進あるいは鎮静する幻惑魔法で、後は最低限の回復魔法が必要とされた。
転生の儀式は、転生者自身にとっても直に目で見える形をもって為さねばならない。そうでなければ儀式の効果が薄くなることはよく知られていた。粗雑な魔法で儀式を失敗に終わらせるようなことが続けば、次に殉教するのは転生官自身になる。だからこそ、転生官は魔法以外の手技を編み出さねばならなかった。
デメテルは助手のぎこちない動きから視線を外し、霊廟の入り口に設置されたテーブルに近寄った。テーブルの上には転生者が残した『最期の晩餐』が、手付かずのままで冷えて固まっている。教皇庁付きの料理人が焼いた最高級の白パンも、豆と根菜のスープも、去勢鶏のローストも、今や捨てられる時を待つだけの残飯だ。
デメテルは銀のナイフを掴むと、テーブルの中央に陣取っていた子豚の丸焼き目掛けて白い刃を突き立てた。目ざとい下働きに盗み食いさせるくらいなら、せめて貧者まで分け前を届けるため、ここで切り分けても問題あるまい。
そう思いながら、彼女は無傷だった豚の横腹に切れ込みを入れた。割かれた肉の間から白濁した肉汁がどろりと流れ出す。豚の腹を中程まで割くと、ナイフの切っ先が硬いものに当たって止まった。
――"これ"が神の思し召しか。
デメテルは早る気持ちを抑えられず、素手で豚の腹を開いた。豚の腹から、蒸された香草と共に人間の指先の断片と一台のモノリスが銀食器の上に転がり落ちた。電源が入ったままのモノリスの表面に転生官が触れると、ディスプレイが淡く光ってアプリからの通知情報を表示した。
『2018年9月13日、午前2時44分……二度と連絡すんなよクズ』
見慣れない文字が浮かぶディスプレイの光輝には、変性魔法で生み出した灯火にまさる神々しさがあった。しかし、その輝きにみとれることなく、デメテルは指の断片とモノリスに絡まった香草を残らず剥ぎ取った。それから脂と肉汁を丹念に拭き取ると、恭しい手つきで指の断片とモノリスを聖布に包んだ。
これであと一歩。30回、転生の儀式を成功させれば、娘に会える。デメテルはしっかりと聖布を抱きしめた。
「あああああぁあああぁぁぁ!」
その時、助手の唄うような悲鳴が霊廟中にこだました。振り返ると、自らの首に大バサミをねじ込もうとする助手の姿があった。
「何をしている!」
彼女の低い声も今度は助手の耳には届かなかった。どんな悲鳴も怒声も、壁を覆っている厚手のベルベットによってかき消え、霊廟の外には漏れ出さない。万が一、誰かが声を聞きつけたとしても、儀式の失敗を恐れて霊廟には近寄らなかった。
デメテルはすぐさま助手に駆け寄って、大バサミが頸動脈を突き破るのを止めようとした。しかし、助手の腕は墓石のようにびくともしなかった。
デメテルの爪が力強く食い込んでも、まるで気にならないように、助手の腕は大バサミを動かし続けた。刃はゆっくりと確実に首の筋や血管を絶っていく。やがて、大バサミの刃が気道へと達すると悲鳴が吐血へと変わり、首から吹き出した大量の血が転生官の祭服を赤に染めた。
最早、助手を救うことはどんな魔法でも不可能だった。力を失った助手が倒れかかってくると、デメテルは身をひるがえして衝突を避けた。聖布に包まれた指の断片とモノリス――転生者が遺した徴を我が子をかばうように抱え、デメテルは冷めた目で助手の屍体を見下ろた。
デメテルは大きく息を吐くと、目を閉じた。微風は既に止んでおり、霊廟には血の匂いが充満していた。