安易に人化する話
目が覚めたとき、私は真っ裸の人間の上に横たわっている自分に気が付いた。
叫び声とともに転がり落ちた。一体誰だというのだ。目覚ましはまだ鳴っていない。私は大抵朝の五時には目を覚ましてしまう。カーテンの向こうからは夜のぼんやりと浮かび上がる薄蒼のみが差し込んでいる。
それは、人間だった。
言い換えると、それは積み重なった人間だった。
下から一、二、三。三人。
身長2m、幅1m程度の、横広の人間が、私の部屋に横たわっている。全員が一糸纏わぬ裸身であり、それらの性徴は様々だった。
一体何が起こったというのだ?
私は人間を寝具に扱うような奇癖を持たない。間違いなく、私が昨日眠るまでは、この部屋のベッドは、近くの家具屋で買った、どこにでもある一般的なものだったはずだ。
しかし現に私の目の前にはこうして、ベッドにすり替わったかのように三人の人間が横たわっている。
私はこわごわと彼らに近付いた。しばらく観察していたが、胸部が反復的に盛り上がる様子はない。唇、鼻に顔を近付ける。風はない。彼らは息をしていなかった。私は彼らからできるだけ遠ざかるようにしながら、その手首を取った。脈もない。
それは死体に似ていた。
目が覚めると、三人の死体。
私の神経はとうとうどうかしてしまったように思えた。
警察に電話をしなくては。
浮かんだ次の行動は、良心に突き動かされてというよりも、何か自分よりも大きな物に、この混乱から逃がしてほしいという思いからだった。
私は携帯を探した。
そして、気付く。
テーブルの上に、四人目がいる。
扁平な、手のひらに乗る程度の大きさの人間がいた。
その奇妙な容貌は、私に眩暈をもたらすに十分足るものだった。
そして私の頭の中に、ある奇妙な、一つの考えが浮かんだのである。
これは、携帯ではなかったか?
これは、ベッドではなかったか?
驚くべきことに、嘆くべきことに、私のこの愚考は、その朝のうちに真実であったと知らされることになる。
国営放送のキャスターがこう言った。
決して、パニックを起こさないでください。
現在、各地で物が人間になった、との報告が相次いでいます。
決して、パニックを起こさないでください。
決して、パニックを起こさないでください……。
話している途中で、キャスターの首にぶら下がっていたネクタイが、人間に変わった。
人の腕に首を絞められたキャスターは狂声を残し、カメラの前から消えた。
次々と、物は人間と化していった。
その原因を人間が突き止めるよりも、ずっと早くだ。
朝早くのコーヒーに間に合ったのは、幸運と言うほかない。
私が最後の一滴を飲み干したと同時、マグカップは奇妙な円筒形の人間へと変わった。私が叫びを上げ、壁に投げつけると、それはばちん、とまさに肉を叩くような音を立て、床に転がった。ぶつかった部分は赤く腫れ上がり、いかにもな生体的自己主張を示していた。
煙草を喫めなくなったのは不運だった。
つい先ほどの出来事が脳裏を過れば、この細いニコチンを吸い出すことはとても行動には移せなかった。途中で煙草が人に変われば、たとえば尻を燃やされた人間の口から胃を吸い出す羽目になる。逆ならばもっと悲惨だ。
テレビは見られる限りに見た。
そしてキャスターの消えた後には何一つとして有用な情報を与えないままに、テレビは人間になってしまった。
部屋の中にある物はとめどなく人間へと変わっていく。
ノートPC、土鍋、積み上げた文庫本、ティッシュの一枚一枚、便器、爪切り……。カーペットが人間に変わった瞬間に、私は気付いた。このままでは閉じ込められてしまう。というのも、窓やドアが人間へと変化してしまえば、私には彼らをどうにかよそへやる方法が思い浮かばなかった。
私は取る物も取りあえず外への扉を開いた。
一瞬、施錠のことが頭を過ったが、どうせ次の瞬間には扉とも人間とも、鍵とも人間とも知れぬ運命だ。わざわざ手の内で人の頭を捻じ切ることもない。
エレベーターと階段がある。
箱型の人間がワイヤーで宙づりにされている。一方で、一段一段が細長い肉人形と化したステップがある。
私は後者を選んだ。
ぶよぶよと気色悪い感触が足裏から伝わってくる。
四階から一階に降りるだけの間、何度も足を取られた。金属と違い足元が安定しない。ようやっとマンションの床に戻れたとき、私は安堵の息を吐いたが、同時に未だにその生臭い感触が離れないことについて、取り返しの付かない悪寒を覚える。道の途中で靴はすでに人間に変わっていた。それを床や壁に叩きつけ、どうにか踵から外そうとしている間、私は不吉な笛の音のようなものを聞いた。その音が止んだとき、それが私の喉から立ち上る金切声であったとわかった。飛び散った血液は、罰のように私の肌に印をつけた。
私は走った。
走らねばならないように思えた。
すべてが手遅れになってしまう前に、彼女のところに行かなければならないと思えた。
彼女は私が望んだときに目の前に現れる、そうした一種の存在であり、私はこうしたとき必ず彼女に会わなければならないと思う。
すべては破滅へと向かっていく際、私は彼女を必ず求める。彼女は私のファムファタルだった。
私は走った。
走る途中で、道路が人間へと変わっていくのを見る。私の速度は彼らから逃げ切れるほどのものではない。しかし皮肉なのは、彼らの柔肌がアスファルトよりもむしろ優しく私を迎え入れたことであり、私の傷ついた足裏はのとのとと間抜けた音を立てながら肉の海を疾駆した。
マンションの前のゴミ捨て場には、半透明の袋の中に細切れの人間たちが入っている。
生垣には枝切りばさみで平面に切り揃えられた人間が立っている。
自動販売機の中には小さな人間たちが160と値札をつけられている。
コンビニの中には大小数多の人間たちが陳列され、じっと私のことを見つめている。
道中において、衣服もまた、人間へと変わりゆく運命からは逃れられなかった。
シャツが、パンツが、肌着が、別れを惜しむ間すらもなく見知らぬ人間の顔へと変わっていく。私はそれを脱ぎ捨てた。裸体になった私は風を切る。もはや私に付属するものは何もない。何もかもが人へと変わりゆく世界において、私だけがただの私だけであるように思えた。
果たして彼女は私の目の前に現れた。
彼女の顔を捉えたときの私の瞳の悦びを謳うには、あまりにも早すぎる絶望が次には現れる。
彼女は衣服を纏っていた。
正確に言うなら、人間と化した衣服たちを。
彼女は私以外の多数の人間にその裸体を許していたのだ!
ふざけるな。
私は叫んだ。
君には恥というものがないのか。
恥知らずはあなただわ。
彼女は冷静な声で言った。
よくもまあ一人で生きてる気になれたものね。
私はさらに叫んだ。
一人だとも。
私は一人だ。
私は一人の人間として君と向かい合っているんだ。
あなたは愚かな人だわ。
彼女はそう言うと、私をせせら笑った。
その嘲笑だけで心を砕かれた私は、彼女の前に跪いて言った。
そうだとも、私は愚かな人間だ。
愚かにも一人で生きる人間だとも。
だが君となら、君とだけなら二人になれるのだと思う。
どうかその薄汚い人間どもを脱ぎ捨てて、私を君のただ一人の衣服としてはくれないか。
彼女は私の頭部を足蹴にして、鼻骨をへし折ると、足早にどこかへと去って行った。
こうして私はとうとう最後の一人となってしまった。
仰向けになって人肉の上で天を仰ぐ。鼻から溢れ出る血液は滔々と体内の管を下っていく。溺れていると勘違いした肺が勝手に咳き込んで、視界に赤が舞った。
天にはすでに人間が煌々と燃えわたっていた。東から上り、西へと沈む人間が。
どころか、未だ夜の香りを濃く残す空には、その人灯を照り返す冷たい人間もあり、同時に何光年もの距離を隔てた場所より降り注ぐ旧き人間の姿も薄らぼんやりと映っている。
そして、そのどれもが私を見ていた。
見下ろしていた。
その無数の視線の中で、私は彼女の言う通りだったと気が付く。
そうだ。私は見られている。
自覚すると同時、空気が人へと変わりだした。
風が、香りが、酸素が、窒素が、すべてが人へと変わっていく。
粒子となって、世界を満たしていく。
肺に吸い込まれていく途中で人間に変わった空気たちは、私の気道からわらわらと溢れていく。
私は己の愚かさを知った。
彼女が私を嘲ったのも当然のことだと思った。
そうだ。
私は一人の人間などではない。
私は多数の密集する人の中の一部分であるのだ。一個の独立した生命体などでは、決してないのだ。
私は愚かだった。
起き上がると、すでに街には、人間たちが華やかなる生活を取り戻して動いているのが見えた。
人間たちが、人間たちを踏み荒らしながら、人間たちを売り、買い、食み、吸い、殺し、生かす。包み、包まれる。
私たちは、一人などではなかった。
視界がわらわらと人間で埋まっていく。
眼球に触れるような距離で変わったそれに、痛みを覚えて顔を押さえると、手のひらから細かい粒のような感触が伝わってくる。
遮られる視界の中で、私は手を見た。
私の細胞も、また人間へと変わりつつあった。
私を構成するどんなに小さな物質すらも、ひたすらに小さな人間へとなっていく。
私は初めから一人などではなかった。
何十兆の細かな人間たちの、小さな集合体であるのだ。
私はそれを自覚した。
自覚して、それで。
何事もなかったかのように、群衆に紛れて、生活に戻ることにした。
起き上がる。
人の肉を踏む。歩き出す。人の肉を踏む。
私という人間の集合体が、人間の集合体である世界をかき分け、進んでいく。
街の灯りは、人肌の温度で、私を抱きしめるようにして、すべてを受け容れていった。