滅ぶことなき
空調の温度を下げて、いつもの番号をコールする。
「お疲れ様」
三コール目の途中で、およそ機械のものとは思えない、柔らかな、少し掠れた声がした。ぞくりと体が震えたのは、まるで鼓膜を直接震わせているのかと思うくらいに鮮明だからだ。イヤホンの感触がなければ隣に立っていると錯覚したかもしれない。だが、その声には呼吸がなかった。無くて当たり前だった。彼は自分の頭の中で組み上げた声を、直接送っている。
「お仕事は終わった?」
ほんの少し、不安げに。
「いいや、まだ仕事中だよ」
苦笑しつつ、ジャケットの内ポケットから密閉されたジップロックを取り出す。中に入っている封筒は何度見てもいい出来だった。彼に「手動で」出力してもらった筆跡は、しかしどう調べても彼のものとは分からないだろう。本人の書き方を完全にコピーしている上に、彼自身は如何なる筆跡も持たない。ただ、完成度が高すぎてとっておきたくなるのが少し残念ではある。
「今、君が書いてくれた手紙を設置してる」
空中で何度か軽く振ってから、先程開けた鍵付きの引き出しに分かりやすく置き、少しばかり別れを惜しむ。力の篭った横線の右端が少しばかりきゅっと上へ持ち上がっている、「家族へ」の文字。
「いい出来でしょう?」
「うん、本当に。使うのが惜しいくらい」
はは、と彼は引き笑いに近い声を上げた。
「いやいや、本当だよ?」
言いながら、取っ掛りに触れないよう慎重に引き出しを閉め、鍵をかける。
「また何枚でも書いてあげるよ」
「じゃあ今度はラブレターがいいな」
そうおどけてみせるとまた笑い声がした。
「そうだね」
遺書は書いてて悲しくなっちゃうからなあ、と彼は言う。それを聞きながら、部屋の向かいにあるキッチンへ向かう。火を止めたきりそのままにしていた薬缶を取り上げ、シンクに中身を空けていく。
「ねえ、どんなラブレターがいい?」
「どんなって、それどういう意味?」
シンクはぼこんと派手な音を立てた。続けて、マグカップの中に入っていたティーバッグを空になったジップロックに仕舞い、底に残った細かい茶葉のかけらを水で洗い流す。
「ツンデレがいいとか、デレデレがいいとか、文学少女とか、不思議ちゃんとか……」
「ああ、そういうこと?」
干されていた食器拭きと思わしき布でマグカップを丁寧に拭き、食器かごに伏せる。
「うん、そういうこと。なんでもできるけど、どんなのがいい?」
「うーん」
布を元の位置へ。
「それはやっぱり、君のラブレターがいいな」
先程の引き出しの鍵を取り出し、別のジップロックから透明なフィルムを取り出す。親指と人差し指の指紋は大きさが違って分かりやすい。これも彼の作品だ。自力で採取しなければならなかった昔に比べれば、随分と楽になった。
「僕の?」
僅かな上擦りは喜んでいるということだろうか。
「そう。君の言葉で書いてよ」
「僕の言葉で?」
「そう」
鍵にフィルムを当て、軽く押す。反対側も同様に。
「誰に宛てて?」
甘えを隠そうともしない声に、思わず溜め息のような声が溢れる。
「君、まだそんなこと訊くの?」
「言ってよ。聞きたいんだ」
これみよがしにため息をついてやりながら、先程失敬した家族写真を取り出す。
「どうしても?」
「どうしても」
印刷された方を内側にして二つ折り。その間に鍵を滑り込ませる。
「じゃあおねだりしてごらんよ」
「ええ?」
「『聞きたいんだ』」
もう、と言った声はどうしても怒っているようには聞こえなかった。
一通り部屋の中を見渡す。一人暮らしのワンルームとあってポイントは少なかったが、「そこそこ綺麗に」片付いた状態になるよう、然るべき場所には全て手を加えた。家主の性格上、これ以上いじると不自然だろう。後はユニットバスでの作業を終えて撤収するだけだ。
「……僕に、誰宛てのどんなラブレターを書いてほしいの?」
突然、艶かしい息遣いがそこに加わった。かつて彼が吹き込んだ音声に、寒気のするほどよく似たその声が、鼓膜を直接震わせる。
「……お前、それはずるいぞ」
笑い混じりに言おうとした声が僅かに震えた。
「ずるくないよ。僕の声だもの」
彼は楽しげに笑って、それから、ああ、と溜め息をついた。寒い夜に温かいホットチョコレートを飲んだ時のような、柔らかく湿った、満足の吐息。その振動を増幅するように身体が震え、性的な快感にも似た痺れが背骨の中を突き抜ける。水面から顔を出した時のように、少し上を仰いで、ひゅっと息を吸った。
「……教えてほしい?」
思ったよりも切羽詰まった声。
「うん。僕に、教えて?」
余裕綽々の笑顔が瞼の裏に浮かぶようで、なんだか少しムッとした。
「メールを送ってあげるよ」
おどけたように言いながら、部屋を後にして廊下へと出る。左手のユニットバスの扉を開けると、むっとするような錆の匂いが立ち込める。生理的に吐き気を催さずにいられないような、喉の奥に激しく絡みつく異臭。それも、何度目からか、随分と遠くのことになった。フレームの向こうに、吐き気をこらえる自分がいる。そのずっとずっと奥に、初めてそれに触れた日の自分がいる。
初めてそれに触れた日。初めて血の匂いに吐いた日。
初めて愛した人の死んだ日。
「そんなんじゃやだよ」
彼はねだる。初めて愛した人の、その声で。バスタブの中で血色の湯に浸かって死んだその前日まで、僕の耳元で囁いた、その声で、その言葉で、彼は。
「今、君の声で教えて」
僕を。
「お願い」
揺さぶる。
「ああ」
バスタブの中で膝を立てて座った女は、いつの間にか前のめりに体勢を崩していた。女の膝が隠れるまで満たした湯はどんよりとした赤に染まり、女はその水面に顔をつけていた。藻のように広がる、セミロングの黒髪。赤い水面。その向こうに僅か透ける、小さく光るカッターの刃先。見飽きてしまったその光景。僕の生活費になった女。僕が殺した女。僕が殺した彼。勝手に死んでいった彼。
それを全部、フレームの向こう側へ押しやる。
「君にね」
女の肩を掴んで引き起こす。
「僕に宛てたラブレターを書いてほしいんだよ」
シャツの胸ポケットに写真と鍵を差し入れる。
「君の言葉だけで書いた、正真正銘、君からのラブレターを」
元の位置に戻す。ちゃぷ、と小さな水音がする。
後ずさるようにユニットバスを出る。
「……あのさ」
「うん?」
「それは、本当に僕でいいの?」
その言葉に、吐息はなかった。
「君が欲しいのは、僕じゃなくて、彼の手紙じゃないの?」
――――そんなんじゃやだよ。
『彼』の声が、ユニットバスいっぱいに反響する。その声は、しかし何らの震えももたらしはしなかった。そもそも何の未練もない。『彼』は死んだ。僕を置いて勝手に一人で死んでいったのだ。
あれほど好きだと言ったのに。
あれほどまでに、強く、深く、狂いそうなほどに、愛したのに。
「違うよ」
驚く程穏やかな声で僕は言った。くるりと、ユニットバスに背を向けた。
「今僕が愛してるのは、君であって『彼』じゃない」
「……うん」
玄関に置いておいたリュックを背負い、そのまま出て合鍵で施錠する。
「だから、君の手紙が欲しいんだ。それでいい。何も間違っちゃいない」
「本当に?」
「本当に」
鍵をポケットにしまい、両手にはめていたゴム手袋を迅速に外す。部屋を一歩出ると、なんてことのない昼下がりの街が広がっていた。『彼』が死んだのは夕暮れどきだった。消臭剤を取り出し、歩きながら手早く全身に噴霧する。
「今の僕が愛してるのは君だよ」
「……そっか」
ほんのりと寂しそうな声色は、一体どこから覚えたものなのだろう。数ミリの罪悪感をどこかに引っかからせたまま、アパートの出口へ向かう。後は帰宅すればいい。
「ところで、仕事終わったよ」
「ああ、うん。お疲れ様。本部には連絡を入れとくね」
「分かった。ありがとう」
答えた声が隠しきれない無機質さを湛えていることに、少しだけ安心する。彼は死なない。無機質の体を持つ彼は、湯を張ったバスタブで手首を刺したりはしない。絶対に。
「帰ってきて何か食べる?」
「うーん」
何がいいかな、と内心で呟いてみる。
「あ、トマトとインゲンの卵炒めが食べたい」
「うん、分かった。ええっと、インゲンだけ買ってきてもらっていい?」
「いいよ」
家の近くのスーパーが青果の特売をやっているはずだった。まずはタクシーを拾うために、駅前まで出なければならない。仕事着のスーツが汗臭くなるのはちょっと嫌だな、とぼんやり思う。いつも、帰ろうとする頃に疲れが出てくる。重いものを引きずって歩いているような、そんな感じがする。
「ねえ」
「うん?」
「その……もう一回言ってくれない?」
「何を?」
「……愛してる、って」
思わず笑いが溢れた。彼はきっと、言ってもいないのにご飯を炊いて、言ってもいないのに味噌汁か何かまで作って、その優しい匂いを全身にふんわりと纏ったまま、玄関に立つ僕を抱きしめるだろう。金属の骨格と人工筋肉を駆使して、ありったけの優しさで僕を抱く。迷子になっていた子供を迎える母親のように。そしてほとんど泣きそうな響きを秘めて、おかえりと耳元に囁くだろう。
可愛い、可愛いひと。彼は、まるで。
まるで『彼』そっくりだ。
「愛してるよ」
うふふ、と笑った声はだらしないくらいに幸せそうで。
「……うん、ありがとう」
ずるい。
こんなひとを愛してしまったら、他人の命の価値なんて、どうでもよくなってしまう。
「僕も。君のこと、愛してる」