祭りの夜の夢
友紀は開いた玄関のドアからぱんぱんに膨らんだバッグを投げ入れると、立ち止まるのももどかしいとばかりにくるりと踵を返して通りへと駆け出した。母は鍵を持った手を振りながら、その後姿に声を投げかける。
「あんまり遅くならないようにね。わかった?」
友紀は振り返りもせずに走り続け、わかったとばかりに軽く右手を振った。
友紀は今日、友達と町のお祭りにいく約束をしていた。神社の境内で行われる盆踊り大会だ。だが、母の田舎に三泊四日の帰省をしていて今日の午後遅くには家に着く予定であったところが列車が遅れてしまい、待ち合わせの約束の時間に大きく遅れて帰宅したところだった。遅れると皆に連絡は入れておいた。だが、こう遅くなってしまってはもう解散してしまったかもしれない。友紀はもしかしたら、という希望を胸に会場の神社へと向かったのだ。浴衣姿の男女や屋台の獲物を嬉しそうに振り回す子供たちとすれ違うたびに、はやる気持ちは膨れ上がっていった。
角を曲がると音質の悪い祭りの曲が聞こえてきて、次の角を曲がると会場の神社が見えた。通りには隙間なくぎっしりと屋台が並んでいたが、心なしか活気は薄れているように見えた。神社の鳥居の辺りからは出てくる人ばかりが目立ち入っていく人はいなかった。祭りは終わりを迎えようとしていた。友紀は石段を駆け上がるとまず参道を見回した。そして櫓が組んである境内の広場へと行ってみた。櫓の上には太鼓が据えられていたが、そこに人の姿はなく、櫓のまわりでは数人がスピーカーから流れる音頭にあわせて踊っていたが、その数は輪を作るにはもはや足りなく、円の名残りをぽつんぽつんと示していた。友紀は全身で荒い息を吐きながら境内の端から端まで目を凝らして探した。だが友人たちの姿を見つけることは出来なかった。がっかりした気持ちが沸き上がると同時に、地面から足を伝って上ってきた虚脱感が全身に広がっていく思いがした。
もう帰ろうかと思ったが、どうしても後ろ髪を引かれる思いには逆らいきれず、お社の周りをひと回りしてみようと考えた。お社の右側にはご神木の大きな銀杏があり、そこは不思議なくらいひっそりとしていた。すると樹の影から呼ぶ声がした。
「友紀ちゃん!? 友紀ちゃんでしょ? こっち、こっち」
呼ばれるままにそちらへ行ってみると、人影があった。友人のなかでも一番の仲良しな絢華だった。絢華は裾に蝶の柄があしらわれた純白の浴衣を着ていて、その姿は薄暗いなかでも浮かび上がるようであった。
「絢華ちゃん!? 待っていてくれたの? 遅くなっちゃってごめんなさい。みんなは?」
しかし絢華はその問いには答えず、ただ友紀を見つめていた。友紀は絢華のそばに行き、その姿を改めて眺めた。その美しさに見とれると共に、普段着姿のうえに汗まみれの自分の格好を思い出して悲しい気持ちになった。すると絢華が手を差し出した。その手にはあんず飴が握られていた。友紀は差し出された手を両の手でそっと包み込むようにするとあんず飴のてっぺんを齧りとった。
「あまぁい」
その声に絢華はにっこりと微笑んだ。友紀も負けないくらいの微笑みを返した。
そのとき、お社の正面の方からやって来た人影が友紀に声をかけてきた。
「あれ? やっぱり友紀ちゃん?」
見ると友達のあかねであった。あかねは駆け寄ると友紀の両手をとって振った。
「さっき見かけてもしかしたらと思ってたんだけど、やっぱり友紀ちゃんだったんだ。来てたんだね」
「うん、今来たところ。遅くなっちゃってごめんね。みんなはもう帰っちゃった?」
「私はパパとママと来たんだけど、友紀ちゃんはひとり?」
ん? と思い友紀は振り返ってみた。しかしそこには絢華の姿はなかった。きょろきょろと辺りを窺っているとあかねが続けた。
「あれ? もしかして聞いてない? 今日の集まり中止になったって」
「え!? 中止になったの? なんで?」
あかねは今にも泣き出しそうな顔つきになって言った。「絢華ちゃんが……」
「絢華ちゃん⁉ どうしたの? なにがあったの?」
「今朝自転車に乗っていて、飛び出してきた車を避けようとして転んじゃって……頭をぶつけちゃって……」
そのあと、友紀はどのようにして家に帰ったのか覚えていない。ベッドに入り眠りについたことも覚えていない。翌朝ぼんやりとした気分で目覚め食卓についたときに母が悲し気な顔で絢華ちゃんが入院していると告げたとき、夢ではなかったんだと分かった。体の中でなにかが破裂した。それは悲しみとなり全身から溢れ出そうとしていた。友紀は食卓に突っ伏して大声で泣いた。
祭りの日から数日が過ぎた午後、友紀は病室を訪ねた。ベッドの上では絢華が上体を起こした姿勢でいて、その顔は少しやつれてはいたが血色はよく、元気そうに見えた。満面の笑顔で友紀を迎え、それを見て友紀はああいつもの絢華ちゃんだと嬉しくなった。頭に巻かれた包帯があまりにもまっ白で、なんだかお芝居みたいだなとも思った。
「頭をぶつけちゃって少し意識がなかったんだけど、検査してみて異常も見つからないようだからすぐに退院できるってお医者さん言ってた」と、絢華は他人事のように言った。
「よかったね。心配しちゃったんだから」と友紀はわざと軽い口調に聞こえるように言った。
ちょっとごめんなさいね、と絢華の母が病室を出ていくと、絢華は急に神妙な顔つきになった。
「友紀ちゃん、あのね」
「ん、なあに?」
「私、夢を見たの。意識を失っていた時に夢を見ていたの」
友紀はじっと絢華を見つめ、全身が耳になったように彼女の言葉に集中をした。
「夢を見たの。そこは真っ暗だった。右を見ても左を見ても、上も下もどこを見ても真っ暗でなにも見えないの。そしてとても寒いの。全身ががたがたと震えて止まらないの。声を出そうとしても喉の所に何かが詰まってしまったみたいで、ひゅうひゅうと変な音が出るばかりなの。怖かった。本当に怖くて怖くてたまらなくて、両腕で体を抱えるように身を縮ませてしゃがみ込んでいたの」
絢華はそのときのようすを思い出したかのように、両腕で体を抱え少し震えていた。友紀は無言で肯いた。
「すると、遠くの方で。ずっとずっと遠くの方で何かが動いたような気がしたの。真っ暗でなにも見えないはずなんだけど、ほんの僅かに、陽炎のようにゆらっと空気が揺らいだように感じたの。私はじっとそれを見つめた。ほんの少しでも動きがあれば見逃さないように、じっと見続けていたの。やっぱりそれは気のせいじゃなかった。たしかに何かがそこで動いていて、少しずつ、気の遠くなるほどゆっくりと近づいているのが分かったわ。私は必死で呼びかけようとした。声が出ないからそちらに向かって心で呼びかけた。助けて、助けて。誰でもいいからここから出してって。すると、その何かのあたりが薄っすらと明るくなっていくのを感じた。上からスポットライトのような光が差し込んだと思ったら、そこからカーテンを両側に開くように暗闇が光と入れ替わっていくの。そして、そのとき近づいてくる何かの正体がはっきりと分かったわ。それは……友紀ちゃん、あなただったの」
友紀はごくりと唾を飲み込んだ。その音が大きく病室に響いたので驚いてしまった。
「友紀ちゃんは……暗闇の中に現れた友紀ちゃんは私の方に近づいていた。でも、それはとてもゆっくりとしていたし、私に気がついてはいないようだったの。そこで私はありったけの力をふり絞って声を出して呼んだ。『友紀ちゃん!? 友紀ちゃんでしょ? こっち、こっち』って。半分ほど闇を切り開いた光の中を満たすように声は響いて、その声は友紀ちゃんに届いたようだった。こちらに全力で駆け寄って来ると、救いを求めて差し出した私の手を両手でぎゅっと掴んで引っ張ってくれたの。そして、それと同時に私は目覚めた。気がつくとベッドの上にいて、お母さんとお父さんの涙でぐしょぐしょになった顔が見えた。……おかしいと思うだろうけど、そんな夢を見たことを友紀ちゃんには伝えたかったから」
ふたりは無言で見つめ合っていたが、絞り出すように友紀が言った。
「ううん……おかしくない。おかしいなんて思わないよ」
そのとき絢華の母が戻ってきた。両手に缶ジュースを持っていて、それをふたりに渡した。「はい、どうぞ」
ふたりはそれをおなじような動きで飲んで、おなじように言った。「ふう、美味しい」
そして、絢華が言った。「ねえ、それひと口ちょうだい」
「いいよ。はいどうぞ」
友紀が差し出すと、絢華は自分のジュースを台の上に置き、友紀の手を両手で包み込むようにしてその中の缶ジュースに口をつけた。
「あまぁい」絢華が言った。
ふたりはふふふと、おなじように素敵な笑顔で笑った。